もうすぐ

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《新しい年への期待感》が、子どもの頃にありました。『来年こそは、ボク、がんばるぞ!』という気持ちを、心の中から湧き立たせていたのです。そう言った思いを、まだ持たせてくれた年齢と時代だったのかも知れません。晴れ着を買ってもらい、新しい履物、下駄だったでしょうか。正月の朝に、それを着たり履いたりして、カラコロと音を響かせながら外出したのです。

「お正月(東くめの作詞、滝廉太郎の作曲)」も、年の暮れになると、よく歌ったり、聞こえてきました。

もういくつねると お正月
お正月には 凧(たこ)あげて
こまをまわして 遊びましょう
はやく来い来い お正月

もういくつねると お正月
お正月には まりついて
おいばねついて 遊びましょう
はやく来い来い お正月

指折りをして見たり、暦を見たりして、消去法で残りの日を数えていました。「お年玉」をもらえるのも楽しみだったからでしょうね。母は出雲、父は横須賀の出身でしたが、親戚に行く様なことは、冠婚葬祭以外にはなかったので、「お年玉」は、父からもらう以外なかったのです。

暮れになると、母は、何時もに増して忙しくしていて、片付けや掃除、正月の準備に余念がありませんでした。それは、新しい年を迎える興奮が、家にも近隣にも、国中にあったのでしょうか。街中の店は、「お歳暮(おせいぼ)」や年末商品を、賑やかに売り出していました。家に「杵(きね)」が残っていましたから、記憶はないのですが幼い日には、家で「餅搗き(もち つき)」をしていたのでしょう。いつも米屋さんに、正月用の餅をお願いしていました。

その餅が届くと、切りやすい硬さになるまで待っていた父が、実に几帳面(きちょうめん)」な性格でしたから、竹の定規を当てて、実に正確に同じ形に切って、餅箱に揃えて入れていました。それを正月には、父が、一人一人に『いくつ喰う?』と聞いて、七輪の炭火の網に載せて焼いてくれるのです。

それを、何か調味になるものを加えたのでしょう("味の素"はまだなかったので)醤油味で、鶏肉と小松菜の具で、母が作った雑煮の鍋に入れて、しばらく煮て、椀(わん)にとってくれました。暮れに買い出しに行って、せっせと母が作り置きしていた「御節(おせち)」が供されていました。ごまめ、黒豆、きんとん、きんぴら、なます、昆布巻、蓮根、牛蒡(ごぼう)や蒟蒻(こんにゃく)や椎茸(しいたけ)や里芋の煮物などなどに、市販の伊達巻、紅白の蒲鉾、ハム、酢ダコなどが、三段や平の「重箱」や大皿に、きちんと入っていました。

若い頃にやめて酒を飲まなかった父が、正月だけ、「葡萄酒」を飲み、顔をほのかに赤くしていたのが印象的です。子どもにも、少し味あわせてくれたでしょうか。和やかな「団欒(だんらん)」が、拳骨親爺と優しいお袋の家庭にありました。この童謡のように、凧も上げたり、駒を回したり、カルタや福笑いといったゲームもしました。

姉や妹がいたら違っていたのでしょうけど、喧嘩に明け暮れた男兄弟四人でしたが、「良質の思い出」もありました。そんな家庭で育ったことを思い返して、感謝しています。家内が、『餅を搗こうかしら?』と言っています。「臼(うす)」はないのですが、駐在員の方が置いていってくれた「餅つき機」があるからです。小松菜は、「江戸風の雑煮」には欠かせないのですが、こちらにはないのです。もうすぐ、ですね。
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