「能力」、「風力」、「理解力」など、「力」のついた言葉は多くあります。ところが最近、ある事件のニュースの記事を見ていて、「大人力」という表現があって、ちょっと驚きました。有名な元プレーヤーから暴行を受けたタクシーの運転手と彼の会社の対応に、この「大人力」が見られるというのです。机上の辞書にはありませんでしたので、早速、Googleで検索してみました。ゲームソフトに「大人力検定」と言うのがあって、そこから流行り出した言葉のようです。もう六年も前に発売されたソフトで、こう言った世界に疎(うと)い私には、新発見でした。
そうしますと、社会生活を送る上で、人が身につけているかどうかが問われる多くのことに、この「力」をつける傾向があるということなのでしょうか。夫の成長度や完成度を測るのに「愛情力」、会社員の貢献度や充実度を測るのに「仕事力」、人としての成熟度を測るのに「人間力」などという言葉が生み出されるのでしょうか。ちょうど私たちの体重や胴囲や血圧が、計測器で計られているのと同じに、能力や価値観や貢献度だけが問題になっているのでしょうか。誰もが長所もあれば短所も併せ持っているのですから、計量数値の他に「プラスアルファ(α)」があるはずです。その辺に、人の面白さ、生きることの輝きがあるのではないでしょうか。
もう一つの言葉も、ちょっと気になっています。それは「民度」なのです。「特定の地域に住む人々の知的水準、教育水準、文化水準、行動様式などの成熟度の程度を指すとされる。明確な定義はなく、曖昧につかわれている言葉である。テレビ番組の内容が時代、地域の民度と連動しているとの考えも存在する。」と辞書にあります。「国民」とか「市民」の「民」の度数を言っているようです。例えば、「日本人の民度は高いのか低いのか?」という言い方をします。
何時でしたか、講演会に出席していた時のことです。一級国道の脇に建物があって、道路と建物の間に空き地がありました。観光バスが道路に止まって、乗客を降ろしたのが見えました。降りて来たのは男性客ばかりでした。道路が高いところにあったので、彼らは階段を下りて来て、こちらに背中を向け道路に向かって一斉に放尿し始めたのです。「立ち◯◯◯」です。東京の街中でも、昔はよく見かけました。一つの理由は、公衆道徳の低さだけではなく、「公衆便所」が、ほとんどなかったことも問題だったのです。ああいうことが見られなくなったのは、「東京オリンピック」が行われた1964年以降だったのです。とくに様々な施設が、街中に設けられたこともありましたし、「世界の水準に、日本人の生活の仕方が達しているかどうか?」が問われ始めた時でした。みなさんに「自覚」が生じたので、「民度」が高くされてきたのでしょう。
今の私の最大の関心は、やはり「人間度」なのです。これを測る計測器があるはずですが。国籍や人種や言語を意識する以上の自分を見つめたいですし、さらに高めたいと願うのです。「自分の<人間度>が高いだろうか?」と問いながら、生きて行きたいと思っております。
(写真は、四川省に行った時に山間で撮ったものです)