「将来を考えられるんだよね!」

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もう42年前になりますが、「婚姻届」を市役所に届け出た時、「戸籍抄本」が必要でした。父母の本籍地の市役所から、取り寄せた時、父の戸籍の部分が記録された「抄本」が送られてきました。その時、なぜか二通、送付してもらっていたのです。家内も、同じでした。その残りの抄本を日本から持ってきて、「重要書類ファイル」に保管してありましたので、昨日、それを取り出して、写真におさめ、メールに添付して、娘のところに送りました。私の父の両親の「姓」が違っていることを確認してきたのです。明治期の父の生まれた家系の在り方が、この抄本から読み取れるのです。一般的に、私たちの国では、家族の秘密を、「世間体」を考えて、その事実を隠してしまおうという思惑が働くのです。

私が、分かる範囲で知らせたことに対して、娘から、「辛い過去を考えるのは嫌なことだけど、次の世代に、<歴史の事実>を残すのも好いことだと思うわ!」と返事がありました。孫たちの学校のプログラムで、「歴史」を、ありにままに学ぼうとしているのです。「幼い頃から歴史を教えて、事実を受け止めて、歴史から学ぶ必要があるの。だから将来が考えられるんだよね。」と、親としての見解を知らせてきました。もちろん知らなくて好いこともあることでしょう。ただ曾祖父の誕生の歴史的な事実を知ることは、その血を受け継いでいるひ孫の彼らには、重荷にはならないはずです。事実を知る時、「そうだったの!」と思い、生きることの楽しさや面白さ、辛さや悔しさを知るのは好いことに違いありません。きっと、会ったことのない「ひいじいちゃん」がおぼろげに見えてくるのではないでしょうか。

テレビを一緒に見ていた父が、「こんな場面で!」と思う時に、涙を流しているのを見たことが何度かありました。涙もろさの中に秘められた「歴史」、そして「隠されている過去」があったのでしょう。父の生まれ育った家庭環境や、当時の社会や家庭の在り方、国の仕組みでさえも知ることができるに違いありません。

「歴史の歪曲(わいきょく)」という言葉があります。後世に、事実を隠蔽(いんぺい)して正しく伝えたり、残そうとしないことを言っています。イスラエル民族は、親が子に、「民族史」を教え続けてきた特異な民族です。親が子に口で語り伝えるのです。氏族の恥な過去も、隠しておきたい事実も、家系の明暗両面の歴史も正直にです。正しい歴史観に立つと、過ちを避け、再び過ちを犯すことがなくなります。娘が、「将来を考えられるんだよね!」と言ったのですが、正しい将来を迎えるには、偶然にではなく、「歴史の事実」を学んだ結果、もたらされるものなのでしょう。「関心を持つ!」ためになされる、アメリカの学校の歴史教育、今回のプログラムは、とても良い企画だと思います。多民族国家であるがゆえ、国としての歴史の短さのゆえに、学ぶことも、祖父母の国とは違う背景があるわけです。孫兵衛たちが、目をクリクリさせながら大いに学び、自分たちの「アイデンティティー」を確かにして欲しいものです。

英語では、「家系」を「ルーツ(roots)」と言うようです。土を掘り起こして、自分の根を掘り起こして見る時、驚くべき発見があることでしょう。孫兵衛たちの父母は国際結婚ですから、二親、その両方の父母、また父母と探っていくと、ヨーロッパ大陸にまで伸びて行き、「ウワーッ…!」と声を上げることでしょう。歴史学者のアーノルド・トインビーが、「現代人は何でも知っている。ただ、自分のことが、よくわからないだけなんだ。」という言葉を残しています。「自分のことが分かるために!」、良い学びがなされますように!

(写真は、アメリカ原住民の父が子を教えているレクチャーの場面です)

蕎麦の味

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蕎麦はまだ 花でもてなす 山路かな 芭蕉

信州や甲州の寒村に、よく蕎麦が植えられています。蕎麦の美味しい土地は、米の実のらないほどに痩せているのだそうです。そばの花の咲く頃に訪ねたことのなかった私は、テレビの番組の中で、初めて「蕎麦畑」が一面に花を咲かせているのを見ました。その花は「清楚」だけど「芯」の強さを感じさせられたのです。そばの開花期は、八月の下旬だそうです。夏休みも終盤、新学期の準備の頃ですから、旅で訪ねる人も少なくなってくる時期になります。一度見てみたい光景の一つです。旅を住みかとした芭蕉が、山あいの山路を歩いていた時に、目にしたのがこの花だったのです。訪ねる家では、きっと蕎麦でもてなされることなのでしょうけど、それ以前に、蕎麦の花が自分をもてなしてくれていると感じたのでしょうか。

新蕎麦を待ちて湯滝にうたれをり   水原秋櫻子

この俳句も、美味しい蕎麦を、しかも新蕎麦を粉にして打ってくれたものでもてなしてくれる。その前に、湯滝に打たれて、一風呂浴びることにしたのでしょうか。湯上りの蕎麦への期待感が高まり、蕎麦通には何とも言えないひと時なのでしょう。山里の温泉の長閑な風情が感じられ、旅に誘われそうになってしまいます。酔狂な俳人は、ずいぶん心や時の贅沢さを満喫していたのでしょうね。

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夜通し働いた仕事を終えて、朝方、家に帰らないで、山路を車で飛ばすと、入浴させてくれる温泉宿がありました。眠さを堪え、湯に体を沈めると、本当に生き返るような心地がしてくるのです。本業の他に、月に数度の仕事を終えた達成感を覚え、深夜作業の疲労を癒されるようでした。入浴を終えて食べた蕎麦の味は、忘れることができません。そんな時に感じたのは、「ああ、日本人っていいなあ!」だったのです。ああ言った「息抜き」を時々したので、辛い仕事を何年も何年も、続けることができたのだと思うのです。

私の父が、蕎麦好きでしたから、よく出前をとっては食べさせてくれたことがありました。蕎麦屋の縄暖簾を、父の後にくっついて行って、くぐったことも何度あったことでしょうか。そんな子どの頃の体験が、人の「嗜好」を形作るのでしょうか。信州の伊北に、何度も寄った「蕎麦屋」がありました。初孫の誕生前後に、良く訪ねた時の道筋にあった店です。「じいじ」と「ばあば」になった、こそばがゆさと喜びの交錯した思いが、何となく「蕎麦の味」のように感じられるのが不思議でなりません。

(写真上は、信州・佐久の「蕎麦畑」、下は、「ざる蕎麦」です)

おおいに楽しみ!

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次女から、「ファミリーツリー」というタイトルのメールが送られてきました。孫たちの学んでいる小学校で、親や祖父母に「家系」を聞いて、調べる必要が出てきたようです。「教えてくれますか?」と言われたのですが、聞こうと思う間もなく父が亡くなり、母も昨年、召されましたから、確かめる術がないのです。そこで母の晩年の面倒を見てくれた次兄に、メールを出して、分かる範囲で教えてもらうことにしたのです。まだ返信がきていないのですが、このような「宿題」を出された覚えのない私にとって、自分の家系を明確にしておくことの必要性を、今更ながらに感じたのです。

二年半ほど前に、教え子の故郷を訪ねたことがありました。彼女のお父様が、一冊のきちんと製本された本を持ち出されて、見せてくれたのです。そこには、ご自分の姓の「H氏」の系図が細かくまとめられていたのです。きっと、「忘れてはいけない!」ことを子孫に残すために、そう言ったことをされたのでしょう。中国のみなさんは、「華僑」や「華人」として外国に移り住んでも、男の子の家系を記録するために、何年かごとに帰国して来るのだと聞いています。「自分が誰か?」、「自分がどこに属しているのか?」を確かめ、子や孫たちに伝え残すために、そう言った努力をしてきているのです。シンガポールに行きました時に、中華系のシンガポール人の方が、「私たちの祖先は福州人です!」と言われ、漢字を書くことができないのですが、家庭では、「福州語を話してきています!」とおっしゃっていました。公用語は、英語ですが、スーパーのレジでは、華僑同士ですと「普通話(中国国内の標準語)」が話されているのです。

父は、「鎌倉武士の末裔」であること、祖となる人が、「源頼朝から拝領した土地に住み続けてきている名門」と言っていました。父の下に弟がいましたが、戦死してしまいましたから、会ったことはありません。三人の妹たちは結婚して姓を変えてしまっていますので、父の四人の子の中から、「誰か、<家名>を継いで欲しい!」と叔母たちに言われたのですが、誰も頭を振りませんでした。まあ、この分だと、父の家の姓は絶えてしまうのですが、仕方がありません。事情があって、父は母の姓を名乗っていましたので。

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父が召された後だったと思うのですが、父のルーツを記した文章があったような気がしているのです。細かな記録は関東大震災や戦災などで消失してしまったのかも知ません。ただ「戸籍法」ができた頃からのものがあったように思うのです。まあ、私としては、父の父くらいでまで分かっていればいいかなと思うのです。五、六歳くらいの父が、祖父の両足の間にいる父を写した写真がありました。きっと、母の残した物の中にあることでしょうか。「優しい好い親父だった!」と父が言っていましたし、「雅、お前が髭をつけたら、俺の親父にそっくりだぞ!」と何度か言ってくれことがありました。髭を三、四度生やしたことがありましたが、父が召された後でした。「家名」よりも、姿かたちや血の中や性質の中に、受け継いでいるものがあるわけです。「良いもの」はみんな先天的で、「悪いもの」は全て、自分の後天的なものに違いありません。

分かる範囲で、先ほど返信したのですが、孫兵衛(まごべー)たちは、自分たちのお母さんの「家系」に何を感じるのでしょうか。彼らの祖母の方の両親とその両親、お父さんの両親とその両親の「木」に何かを発見できるのでしょうか。おおいに楽しみです。

(写真上は、「サザエさんの家系図」、下は、沖永良部島の有名な「カジュマル」です)

「危機管理の優先順位」

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朝の未明に家を出て、高速を走り、東関東自動車道の浦安インターを降りて、「東京ディズニーランド」に、何度、出掛けたことでしょうか。「子どもたちを喜ばしたい!」からでした。その一回目で、親の私が好きになってしまいました。開門前、まだ駐車場に一台も車が止まっていないで、一番乗りだったこともありました。月収に比べて、「入場料が高い!」と思いましたが、丸一日、園内で楽しんでから、帰り道では、「こんなに楽しめたのだから、高くないか!」と思ったことでした。人を喜ばせ楽しませると言った娯楽事業として、この事業展開は大成功でした。行かなくなってから、「ディズニー・シー」が増設され、名称も、「ディズニー・リゾート」と呼ばれているようです。「行ってみたい!」と、こちらの学生さんたちも興味津々のようです。

一体、その成功の秘密は何なのでしょうか。東日本大震災の揺れが襲った直後に、「東京ディズニーリゾート」の従業員がとった対応が「語り草」になっています。来園者の混乱が予想された時に、店頭のぬいぐるみや菓子を配り、笑顔で声をかけ続けたのです。「収益を上げる!」、「客を喜ばす!」だけではなかったのです。数えきれない人の利用する施設、会場、交通機関などは、「混乱が予測される時に、どのように避難させ、誘導するか?」の「危機管理」が徹底されている必要があるのです。この「危機管理」で、素晴らしい模範となったのが、この「東京ディズニーリゾート」の対応でした。

日頃、従業員に徹底していたことがありました。「行動基準の優先順位」が定められていたのです。第一に「安全」、次に「礼儀正しさ」、「ショー」、「効率」と定めているのです。「効率」が偏り過ぎると、「儲け主義」になり、「安全対策費 」を削り始め、ついには軽微な事故が起こり、それをないがしろにいていくうちに、やがて「大事故」が発生してしまいます。 「ハインリッヒの法則」が、そういったことを言っています。「東京ディズニーリゾート」では、日頃、そう言った優先順位で、従業員の訓練がなされ、「安全優先の原則」が、一人一人に徹底されていたのでしょう。だから、咄嗟の時に、正しく行動がとれたのです。

たかが「縫いぐるみ」や「菓子」ですが、それと共に、優しくにこやかに声掛けをしたところが、素晴らしい対応でした。これまで、私は何度か「パニック」に遭遇してきましたが、オッチョコチョイの割には、危機に臨んで、案外冷静に行動をとってきているように思うのですが。何時でしたか、アパートの上の階で、ガス爆発事故がありました。爆発の瞬間、玄関の戸が開き、窓ガラスが粉みじんに崩れ落ちましたが、次男をお腹に宿していた家内も、三人の子も無事でした。それを確認した私は、寝巻き姿で階上に駆け上がって消化活動をしました。「引火していてもおかしくない状況でした!」と、検証の消防署員が言っていましたから、「守られた」という以外にはありません。我が家は、「火を潜って生き延びた過去」を持っております。

今、住んでいる街には温泉が豊富ですから、火山帯の上に住んでいることになり、「いつでも地震の起こる確率は高いです!」と聞いています。少なくても、「非常持ち出し品」を用意しておく必要があるようです。「危機管理」は、国や地方自治体だけではなく、各人が心掛けるべきことなのでしょう。「蘇州号」で、「何かあったら、躊躇しないで、すぐに帰国した方がいいですよ!」と、大阪空襲を体験された方が忠告してくれました。これは、「行動基準の優先順位」の知恵深い言葉であります。

(写真は、「東京ディズニーリゾート」です)

あの表情、あの一言

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「雅仁、皮肉を言ってはいけない!」と、注意されたことがありました。もう35年以上も前のことになります。私の師の友人で、熊本で事業を展開しておられ、数年前に帰米されていたアメリカ人実業家にでした。久しぶりに彼が訪ねてきて談笑をしていたところに、一人の独身のご婦人が来たのです。この方は、昼頃まで寝ていて、夕方我が家にきては、よく食事をしていました。食後も、10時過ぎまで我が家にいて、取り留めのない話を家内にしていました。家内は、早朝にヤクルトの配達や、日中は訪ねてくる人の相談に乗ったりし、何よりも4人の子育て中でした。私たちも、「そろそろ時間だから帰ってください!」と、なかなか言えなかったのがいけなかったのですが、そう言ったことがたびたびあったのです。極めて迷惑な訪問客だったのです。

彼女は、東京にいた頃からの家内の知り合いで、私の師を慕って引っ越してきたのです。私たちが紹介した幼稚園で、週に数日のアルバイトの英語教師をしていました。その彼女に、私が皮肉めいたことを言ったのです。どう表現したのか、はっきりと覚えていませんが、彼女の生活ぶりを、上手に皮肉ったわけです。それを聞いていたロックさんが、「皮肉を言ってはいけない!」と言ったのです。私の皮肉を理解できるほどの日本語力を持っていなかったのに、「雰囲気」で分かったようです。私は、決して「皮肉屋」ではありませんでした。遠まわしで言うよりは、直接はっきりと言って生きていたからです。よほど、彼女の我が家での長逗留が腹に据えかねていたので、つい皮肉が飛び出した様です。

しかし、そのロックさんの注意は、私への決定的な「叱責のことば」になったのです。それ以来、「決して皮肉めいたことを言わない!」と決心させ、今日まで、一度も言わないで生きてくることができたのです。今でも感謝を忘れないでおります。その後、彼女は縁あってアメリカ人と結婚をされ、一人の男の子をもうけたのです。だいぶ経ってからですが、「離婚された!」と風の噂で聞きました。

このことを思いだ出したのは、私の師も、その友人たちも、みなさんが「天の故郷」に帰って行かれて、もう「叱ってくれる人」、「忠告してくれる人」が、訪ねて来てくれなくなってしまったからです。荒削りで未熟、短気で喧嘩っ早く、野生種の駄馬の様な私に、やって来ては、交わりの手を差し延べ、「人の生きる道」を教えてくれ、優しく諭してくれた方たちでした。自分を矯正し、行くべき道を指し示してくれたこと、それを素直に聞き入れられた、あの時期は、最も充実し、有益な時だったことを思い出すのです。

「秋分の日」が過ぎ、暑さの中にも、「人恋しく思う秋」がやって来たからなのでしょうか。あの一瞬、あの場面、あの表情、あの一言が感じられるほどの「秋」であります。

(写真は、インディアナ州の州の花の「ボタン」です)

「人命尊重の精神」

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 新聞社の懸賞小説に当選した「氷点」の作者、三浦綾子は、戦争中に教師をしていました。高等女学校を卒業し、17歳で小学校の教師となったのです。幼い子どもたちに、天皇中心の軍国教育を命がけで教え、何人もの子どもたちを戦場に駆り立て、死なせた過去を持っていました。戦後、それを心から悔いて、教師を辞しました。軍国教育とは、裏返すと、自国を愛するばかりに、「敵を憎む教育」だったのです。彼女は、「戦争責任」を強烈に感じたわけです。戦時下の軍国主義教育は、有無を言わせないものでした。「天皇の赤子」とまで言われて、国のため、天皇のために殉ずることを、奨励したのです。それで純真無垢な少年たちが、「少年兵」として戦争に従いました。

 私の母の故郷に、親戚のようにして、お付き合いをしてきた一人の方がいます。彼もまた、十代(15歳以上17歳未満)で「予科練(海軍飛行予科練習生)」として従軍し、生還したのです。戦後、父の仕事の手伝いをしていました。幼なく我儘な私は、この方に、『大きな迷惑をかけたんだぞ!』と、父に話されたことがあります。穏やかな目の方だった記憶がうっすらと残っており、今も母の故郷で健在です。こういった「涼しい目」をした青年や少年たちを戦場に送り、死なせたのだと思うと、なんとも言えない悲しみを感じてなりません。「軍隊」とか「国防」とか「聖戦」とは、そういったことなのでしょうか。世界中の青年たちが、母国のために戦い、死んだのです。その死が、平和をもたらしたのでしょうか。そうだとすると、これもまた悲しい歴史であります。

 神風攻撃隊で生き残った方が、こう言っていました。『「彼らの死は犬死だった!」という人がいる。私は「犬死」だとは思っていない。戦友たちは、国を思い、家族を思って戦い、それで死んでいったのです。彼らの「死」が、戦後の平和をもたらしたのだと考えたい!』とです。これは、重い言葉ではないでしょうか。ある医者が、『しなければならない手術があります。好くなる見込みがないのに、メスをとらなければならないのです。外科医とはこういった仕事なのかも知れません!』と言っていました。では、『しなければならない戦争がある!』のでしょうか。「人一人の命」よりも、国家や民族の「面子」が大切なのでしょうか。

 そういえば、現代でも内戦の続く中近東やアフリカには、この「少年兵」がいます。父親を亡くした子どもが、父親の敵討ちで、銃を取ると言った話を聞いたことがあります。私たちの社会には、「人身御供」とか「人柱」とか言って、「生命軽視」の歴史があります。多くの古代国家には、「名君」の埋葬のために、生きた人間が死んだ王の「鎮魂」のために共に葬られるということがなされていました。こういったことを是とすると、国民が王のために死ぬことが「当然」にされるのです。これらとは反対に、私はアメリカ人実業家から、「人の命」の重さを学ばされたのです。「人命尊重の精神」でした。日本の伝統的な教えにだけ学んでいたら、きっと今も「戦争肯定論者」だったことでしょう。変えられたのです。教育の「力」や「影響力」は甚大です。

 韓国の昨今の「反日」は、異常です。小学生の子供が日本人を見て、『ナップンサラム(悪い人)!』と言います。ソウルの公園で遊んでいた日本人の子どもに、韓国人の子どもが、石を投げ付けます。『独島(竹島)は私たちのものです!』と、日本語で呼びかけるそうです。私は三度、ソウルを訪ねたことがありました。三十年ほど以前のことでしたが。この様なことは、一度たりともありませんでした。こんな幼気(いたいけ)のない子どもたちでさえ、「憎しみを教え込む教育」がなされていることは、悲しくてなりません。ただただ、好い関係が回復されることを願うばかりです。

(写真は、敬礼する「海軍飛行予科練習生」です)

ソロリソロリと

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この9月18日に、東京と名古屋間を、40分で結ぶ「リニア中央新幹線」の開業が、2027年に決まったとの発表がありました。現在の品川駅の地下に始発駅を作り、相模原、甲府、岐阜に新駅を設け、名古屋に到着するとのことです。時速500kmとは、どれほどの速度なのでしょうか、ちょっと体感してみないと何とも言えない「速さ」に違いありません。南アルプスの山岳地帯にトンネルを掘るのですね。歴史上まれにみる土木工事になることでしょう。

この実験線の見学センターが、山梨県都留市にあります。近くを通りかけたことが何度かありましたが、見学をしないままでした。40分というと、長男の住んでいる東武東上線の駅から、次男が住んでる代官山までの普通電車と乗り換えの時間を入れた所要時間くらいでしょうか。名古屋には知人はいませんから、行く機会はないのですが、便利になることはいうまでもありません。

このところ、日本との往復に、船を利用することが多くなってきています。ゆったりと背中を伸ばして旅ができますし、急かされることのない船旅は、今まで急ぎ足の生き方を補ってくれるような、微調整してくれる効果があるように感じています。妻や子どもたちに、「早く!速く!」と、急(せ)かしてきた自分としては、反省も込められているようでもあります。上海を昼前に出港した船は翌々日の朝9時に大阪港に着きます。この丸二日は、過ぎにし年月に思いを向けたり、これから迎える日々を考えたり、ただ波の飛沫(しぶき)や流れる空の雲を眺めながら、思考停止していることで過ぎていきますが、それは新たな経験になっているようです。

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そんな経験をしますと、人生は、「はやさ」ではないことが、やっと悟ることができたようです。つい急いだばかりに、無くしたり、忘れたり、取りに戻ったり、やり直したことが多くあったのを思い出し、結局は、急いでも、ゆっくりでも、所要時間は、ほとんど変わらなかったのです。かえって、ゆっくりした方が早かったと思われることが何度もありました。

この8月、上海までの船は、台風の余波で大揺れでしたので、「次は飛行機で!」と思ったのですが、そう言った口が乾かない今、「次回も船で帰国しようかな!?」と、考えてしまう私であります。今度、日本に帰ったら、「鈍行の旅」をしてみたいものです。上野から青森まで、普通電車を乗り継いだら、二日ほどかかるでしょうか。無目的に、どこかの駅で下車をして、バスに乗って横道にそれたら、新しい発見や体験があることでしょうね。車を運転していた時に、よく見かけた表示に、「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く?」という交通標識がありました。さあ、ゆっくり、ソロリソロリと歩んで、ターミナル(終着)に向かうことにいたしましょう。

(写真上は、「リニアカー」、下は、歌川広重の「東海道五十三次」の「三島宿」です)

十五夜

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今宵は、「十五夜」 、縄文の昔から、日本人は想像をたくましく、秋の満月を見上げて、その神秘さに感動してきているようです。「若い方たちが鍋を囲んで、食事をしますので、お出でになりませんか!」と誘われた私たちは、バスに乗って出かけ、先ほど家に帰り着いたところです。帰り道に空を見上げたのですが、雲に邪魔をされていました。ところが、ベランダに出ましたら、「まあるいまあるいまん丸い月」を眺めることができました。

明治43(1910年)年七月、文部省が編集した最初の唱歌集『尋常小学読本唱歌』に発表されたのが、「月」でした。小学一年生の歌唱教材として、教科書に掲載されていたのは昭和27年から平成3年までの間でした。私の父が、この明治43年の三月に生まれています。

1
出た出た 月が
丸い丸い まん丸い
盆のような 月が

2
隠れた 雲に
黒い黒い まっ黒い
墨のような 雲に

3
また出た 月が
丸い丸い まん丸い
盆のような 月が

歌謡曲に、「月が とっても青いから 遠回りして帰ろう・・・」という歌があって、よく口づさんだことがありますが、我が家のベランダから見上げた月は、本当にほのかに青い光を放っているのです。想像をたくましくして、月の中に、うさぎが餅搗きをしていると感じたのは、縄文人だったのでしょうか。

中国のみなさんは、今日を「中秋節」と呼び、国民の休日になっています。そして「月餅」を送りあって、月を愛でながら食べる習慣をお持ちなのです。我が家にも、四軒の家から「月餅」を、都合五箱ももらって、「月餅」だらけと言った感じがしております。爆竹が鳴り轟き、花火が打ち上げられ、学校も官庁も休みですから、リラックスして、この日を祝っているようです。故郷に帰らなかった若者たちと、鍋をつつき、水餃子など十種類以上の料理、そして果物やジュースを一緒に食べて飲んで、楽しい交わりの夕べでした。彼らの上に祝福を願った「中秋の宵」でした。

(写真は、「msnニュース」から富士山にかかる真珠のような「中秋の名月」です)

他人事ではない

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有名なテレビの司会の息子の窃盗事件のニュースを聞いて、幼児教育をしばらくしていた家内が、「寂しさが、そう言った行為に連れて行くことがあるそうよ!」とコメントしていました。「窃盗症(せっとうしょう)」を、ウイキペディアは、「アクレプトマニア (kleptomania) の訳語であり、経済的利得を得るなど一見して他人に理解できる理由ではなく、窃盗自体の衝動により、反復的に実行してしまう症状で、精神疾患の一種である。病的窃盗ともいう。」と説明しています。

それを聞いて、自分にも子どもの頃に「盗癖」のあったことを思い出したのです。「みよちゃん」という駄菓子屋が、私の住んでいた街の大通りにありました。母親にもらった五円や十円を握っては買いに行ったのです。一時期、何度も何度も、おばさんが向こうを向いている隙に、利き腕の右手でお菓子や飴玉を握っては、ポケットの中に盗み取っていたのです。それで、この店の前を通ると、やましさが心の中から湧き上がってきて、自責の念に駆られるのが常でした。二十歳の時に、よその街に越し、さらに仕事で遠くの街に越したのです。しかし上の兄が、その街で仕事をしていましたから、時々訪ねていました。駅を降りて左に行くと兄の仕事場、右に行くと「みよちゃん」の店があるのです。

結婚して子どもが生まれて 、幼稚園に行き始めた子育て真っ盛りの頃でした。「<みよちゃんの店>に行って、お詫びをしろ!」という思いが、たびたび湧き上がってくるのです。親として清算すべきことを思い出させられたわけです。その思いを、払い除けるのですが、消すことができませんでした。ちょうどその頃、兄の所に行く用があったのです。「今度こそは、<みよちゃん>の店に行って、おばさんに・・・!」と、心に決めて出かけたのです。駅を降りて左に行かずに、右に行き、「みよちゃん」の店の前に立ったのです。あの「みよちゃん」が、子どもの頃のようにして店にいました。「おばさん。ぼくが子どもの頃、おばさんが向こうを向いてる隙に・・・」と、罪を告白したのです。みよちゃんは、キョトンとした顔をして、苦笑いで聞いてくれたのです。「・・・・それで、これ少ないですけど、お詫びの分です!」と言って、3000円を手渡したのです。すると、「いいわよ、そんなの!」と言って取ってくれないので、強引に握らせて、「じゃあ!」と言って去ったのです。

それ以来、「みよちゃん」の店を訪ねていません。まだ店をやってるのかどうかも分かりません。「みよちゃん」は元気なのでしょうか。何度も何度も買いに行った客だった私の顔も、どこの誰の息子かも、狭い街でしたから知っていたのです。「娘の頃に、万引きをしたことがあった女校長が、退職を間近して万引き事件を犯して逮捕される!」という話を、松本の「女鳥羽講演会」で聞いたことがありました。「親になったのに、何か精神的ストレスが原因で、盗癖の根がノキノキと出てきて、再び盗みを犯してしまったらどしよう?」と恐れたのが、清算の動機だったのでしょうか、「恥な過去」の良心の責めだったのでしょうか。でも、過去の過ちの清算をして好かったと、今切々として思うのです。決して「他人事(ひとごと)」ではないからです。

(写真は、今でもある「駄菓子屋」の店頭です)

美談

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森鴎外の名作に、「高瀬舟」があります。この舟は、高瀬川の流れを利用して、人や物を運んだといわれています。役人の手で、弟殺しの犯人が護送されるのも、この舟でした。この作品には、船中での二人のやり取りが記されています。この川は、琵琶湖から流れ出し、宇治川となり、やがて淀川となって下って行くのです。この淀川で、人命救助があったというニュースが、今週ありました。

「経験したことのない大雨」が、台風18号の襲来で、近畿圏や中部圏を中心に降りました。最近の大雨は、「ゲリラ豪雨」とは言わないようで、「想像を絶した大雨」と言う方が、的確なのではないかと思ってしまいます。半端な降り方ではないのです。16日のことでした。その大雨で増水した淀川に、足を滑らせて流された小学生を、一人の青年が救助したのです。その方は、中国人の留学生、厳俊さんでした。10mほど泳いで岸に、小学生を連れ戻したのです。

救助されたのは、9才の男児で、たまたまジョギングで通り掛けた厳さんが見つけ、川に飛び込んで助けたのです。それは考えていたらできない行為で、きっと咄嗟(とっさ)飛び込んだに違いありません。大水でしたから、ご自分だって危険が予測できたのでしょうに、そんなことを顧みずに、人を助けるという行動は、見上げたものです。私も、中国の空の下から、「ありがとうございました!」と拍手して感謝したところです。

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中国の青年のみなさん、私たちが出会ってきた彼らは、一様に優しい心の持ち主でした。背筋をしっかりと伸ばし、堂々として生きていますし、いつもあたりに気配りをしておいでです。教育のせいというよりは、中国の伝統的な良い精神的な遺産を継承しておられるのだと、感じるのです。昨年の今頃、「尖閣諸島」の購入によるデモが、中国の多くの街で起こり、中日関係が最悪の事態になり、その後も思わしくなく推移しているのですが、この「人命救助」の「美談」が、中日友好関係の好転に変えられていくサインのように感じています。民間レベルでの愛の交流が、関係改善に寄与していくのではないでしょうか。

厳俊さんは、来春、大阪市立大学の大学院の博士課程に進学を予定しているそうです。その前途を、心から祝福いたします。

(写真上は、浮世絵に描かれた「淀川」、下は、「厳俊さん」です)