「危機管理の優先順位」

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朝の未明に家を出て、高速を走り、東関東自動車道の浦安インターを降りて、「東京ディズニーランド」に、何度、出掛けたことでしょうか。「子どもたちを喜ばしたい!」からでした。その一回目で、親の私が好きになってしまいました。開門前、まだ駐車場に一台も車が止まっていないで、一番乗りだったこともありました。月収に比べて、「入場料が高い!」と思いましたが、丸一日、園内で楽しんでから、帰り道では、「こんなに楽しめたのだから、高くないか!」と思ったことでした。人を喜ばせ楽しませると言った娯楽事業として、この事業展開は大成功でした。行かなくなってから、「ディズニー・シー」が増設され、名称も、「ディズニー・リゾート」と呼ばれているようです。「行ってみたい!」と、こちらの学生さんたちも興味津々のようです。

一体、その成功の秘密は何なのでしょうか。東日本大震災の揺れが襲った直後に、「東京ディズニーリゾート」の従業員がとった対応が「語り草」になっています。来園者の混乱が予想された時に、店頭のぬいぐるみや菓子を配り、笑顔で声をかけ続けたのです。「収益を上げる!」、「客を喜ばす!」だけではなかったのです。数えきれない人の利用する施設、会場、交通機関などは、「混乱が予測される時に、どのように避難させ、誘導するか?」の「危機管理」が徹底されている必要があるのです。この「危機管理」で、素晴らしい模範となったのが、この「東京ディズニーリゾート」の対応でした。

日頃、従業員に徹底していたことがありました。「行動基準の優先順位」が定められていたのです。第一に「安全」、次に「礼儀正しさ」、「ショー」、「効率」と定めているのです。「効率」が偏り過ぎると、「儲け主義」になり、「安全対策費 」を削り始め、ついには軽微な事故が起こり、それをないがしろにいていくうちに、やがて「大事故」が発生してしまいます。 「ハインリッヒの法則」が、そういったことを言っています。「東京ディズニーリゾート」では、日頃、そう言った優先順位で、従業員の訓練がなされ、「安全優先の原則」が、一人一人に徹底されていたのでしょう。だから、咄嗟の時に、正しく行動がとれたのです。

たかが「縫いぐるみ」や「菓子」ですが、それと共に、優しくにこやかに声掛けをしたところが、素晴らしい対応でした。これまで、私は何度か「パニック」に遭遇してきましたが、オッチョコチョイの割には、危機に臨んで、案外冷静に行動をとってきているように思うのですが。何時でしたか、アパートの上の階で、ガス爆発事故がありました。爆発の瞬間、玄関の戸が開き、窓ガラスが粉みじんに崩れ落ちましたが、次男をお腹に宿していた家内も、三人の子も無事でした。それを確認した私は、寝巻き姿で階上に駆け上がって消化活動をしました。「引火していてもおかしくない状況でした!」と、検証の消防署員が言っていましたから、「守られた」という以外にはありません。我が家は、「火を潜って生き延びた過去」を持っております。

今、住んでいる街には温泉が豊富ですから、火山帯の上に住んでいることになり、「いつでも地震の起こる確率は高いです!」と聞いています。少なくても、「非常持ち出し品」を用意しておく必要があるようです。「危機管理」は、国や地方自治体だけではなく、各人が心掛けるべきことなのでしょう。「蘇州号」で、「何かあったら、躊躇しないで、すぐに帰国した方がいいですよ!」と、大阪空襲を体験された方が忠告してくれました。これは、「行動基準の優先順位」の知恵深い言葉であります。

(写真は、「東京ディズニーリゾート」です)

あの表情、あの一言

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「雅仁、皮肉を言ってはいけない!」と、注意されたことがありました。もう35年以上も前のことになります。私の師の友人で、熊本で事業を展開しておられ、数年前に帰米されていたアメリカ人実業家にでした。久しぶりに彼が訪ねてきて談笑をしていたところに、一人の独身のご婦人が来たのです。この方は、昼頃まで寝ていて、夕方我が家にきては、よく食事をしていました。食後も、10時過ぎまで我が家にいて、取り留めのない話を家内にしていました。家内は、早朝にヤクルトの配達や、日中は訪ねてくる人の相談に乗ったりし、何よりも4人の子育て中でした。私たちも、「そろそろ時間だから帰ってください!」と、なかなか言えなかったのがいけなかったのですが、そう言ったことがたびたびあったのです。極めて迷惑な訪問客だったのです。

彼女は、東京にいた頃からの家内の知り合いで、私の師を慕って引っ越してきたのです。私たちが紹介した幼稚園で、週に数日のアルバイトの英語教師をしていました。その彼女に、私が皮肉めいたことを言ったのです。どう表現したのか、はっきりと覚えていませんが、彼女の生活ぶりを、上手に皮肉ったわけです。それを聞いていたロックさんが、「皮肉を言ってはいけない!」と言ったのです。私の皮肉を理解できるほどの日本語力を持っていなかったのに、「雰囲気」で分かったようです。私は、決して「皮肉屋」ではありませんでした。遠まわしで言うよりは、直接はっきりと言って生きていたからです。よほど、彼女の我が家での長逗留が腹に据えかねていたので、つい皮肉が飛び出した様です。

しかし、そのロックさんの注意は、私への決定的な「叱責のことば」になったのです。それ以来、「決して皮肉めいたことを言わない!」と決心させ、今日まで、一度も言わないで生きてくることができたのです。今でも感謝を忘れないでおります。その後、彼女は縁あってアメリカ人と結婚をされ、一人の男の子をもうけたのです。だいぶ経ってからですが、「離婚された!」と風の噂で聞きました。

このことを思いだ出したのは、私の師も、その友人たちも、みなさんが「天の故郷」に帰って行かれて、もう「叱ってくれる人」、「忠告してくれる人」が、訪ねて来てくれなくなってしまったからです。荒削りで未熟、短気で喧嘩っ早く、野生種の駄馬の様な私に、やって来ては、交わりの手を差し延べ、「人の生きる道」を教えてくれ、優しく諭してくれた方たちでした。自分を矯正し、行くべき道を指し示してくれたこと、それを素直に聞き入れられた、あの時期は、最も充実し、有益な時だったことを思い出すのです。

「秋分の日」が過ぎ、暑さの中にも、「人恋しく思う秋」がやって来たからなのでしょうか。あの一瞬、あの場面、あの表情、あの一言が感じられるほどの「秋」であります。

(写真は、インディアナ州の州の花の「ボタン」です)