蕎麦の味

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蕎麦はまだ 花でもてなす 山路かな 芭蕉

信州や甲州の寒村に、よく蕎麦が植えられています。蕎麦の美味しい土地は、米の実のらないほどに痩せているのだそうです。そばの花の咲く頃に訪ねたことのなかった私は、テレビの番組の中で、初めて「蕎麦畑」が一面に花を咲かせているのを見ました。その花は「清楚」だけど「芯」の強さを感じさせられたのです。そばの開花期は、八月の下旬だそうです。夏休みも終盤、新学期の準備の頃ですから、旅で訪ねる人も少なくなってくる時期になります。一度見てみたい光景の一つです。旅を住みかとした芭蕉が、山あいの山路を歩いていた時に、目にしたのがこの花だったのです。訪ねる家では、きっと蕎麦でもてなされることなのでしょうけど、それ以前に、蕎麦の花が自分をもてなしてくれていると感じたのでしょうか。

新蕎麦を待ちて湯滝にうたれをり   水原秋櫻子

この俳句も、美味しい蕎麦を、しかも新蕎麦を粉にして打ってくれたものでもてなしてくれる。その前に、湯滝に打たれて、一風呂浴びることにしたのでしょうか。湯上りの蕎麦への期待感が高まり、蕎麦通には何とも言えないひと時なのでしょう。山里の温泉の長閑な風情が感じられ、旅に誘われそうになってしまいます。酔狂な俳人は、ずいぶん心や時の贅沢さを満喫していたのでしょうね。

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夜通し働いた仕事を終えて、朝方、家に帰らないで、山路を車で飛ばすと、入浴させてくれる温泉宿がありました。眠さを堪え、湯に体を沈めると、本当に生き返るような心地がしてくるのです。本業の他に、月に数度の仕事を終えた達成感を覚え、深夜作業の疲労を癒されるようでした。入浴を終えて食べた蕎麦の味は、忘れることができません。そんな時に感じたのは、「ああ、日本人っていいなあ!」だったのです。ああ言った「息抜き」を時々したので、辛い仕事を何年も何年も、続けることができたのだと思うのです。

私の父が、蕎麦好きでしたから、よく出前をとっては食べさせてくれたことがありました。蕎麦屋の縄暖簾を、父の後にくっついて行って、くぐったことも何度あったことでしょうか。そんな子どの頃の体験が、人の「嗜好」を形作るのでしょうか。信州の伊北に、何度も寄った「蕎麦屋」がありました。初孫の誕生前後に、良く訪ねた時の道筋にあった店です。「じいじ」と「ばあば」になった、こそばがゆさと喜びの交錯した思いが、何となく「蕎麦の味」のように感じられるのが不思議でなりません。

(写真上は、信州・佐久の「蕎麦畑」、下は、「ざる蕎麦」です)

おおいに楽しみ!

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次女から、「ファミリーツリー」というタイトルのメールが送られてきました。孫たちの学んでいる小学校で、親や祖父母に「家系」を聞いて、調べる必要が出てきたようです。「教えてくれますか?」と言われたのですが、聞こうと思う間もなく父が亡くなり、母も昨年、召されましたから、確かめる術がないのです。そこで母の晩年の面倒を見てくれた次兄に、メールを出して、分かる範囲で教えてもらうことにしたのです。まだ返信がきていないのですが、このような「宿題」を出された覚えのない私にとって、自分の家系を明確にしておくことの必要性を、今更ながらに感じたのです。

二年半ほど前に、教え子の故郷を訪ねたことがありました。彼女のお父様が、一冊のきちんと製本された本を持ち出されて、見せてくれたのです。そこには、ご自分の姓の「H氏」の系図が細かくまとめられていたのです。きっと、「忘れてはいけない!」ことを子孫に残すために、そう言ったことをされたのでしょう。中国のみなさんは、「華僑」や「華人」として外国に移り住んでも、男の子の家系を記録するために、何年かごとに帰国して来るのだと聞いています。「自分が誰か?」、「自分がどこに属しているのか?」を確かめ、子や孫たちに伝え残すために、そう言った努力をしてきているのです。シンガポールに行きました時に、中華系のシンガポール人の方が、「私たちの祖先は福州人です!」と言われ、漢字を書くことができないのですが、家庭では、「福州語を話してきています!」とおっしゃっていました。公用語は、英語ですが、スーパーのレジでは、華僑同士ですと「普通話(中国国内の標準語)」が話されているのです。

父は、「鎌倉武士の末裔」であること、祖となる人が、「源頼朝から拝領した土地に住み続けてきている名門」と言っていました。父の下に弟がいましたが、戦死してしまいましたから、会ったことはありません。三人の妹たちは結婚して姓を変えてしまっていますので、父の四人の子の中から、「誰か、<家名>を継いで欲しい!」と叔母たちに言われたのですが、誰も頭を振りませんでした。まあ、この分だと、父の家の姓は絶えてしまうのですが、仕方がありません。事情があって、父は母の姓を名乗っていましたので。

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父が召された後だったと思うのですが、父のルーツを記した文章があったような気がしているのです。細かな記録は関東大震災や戦災などで消失してしまったのかも知ません。ただ「戸籍法」ができた頃からのものがあったように思うのです。まあ、私としては、父の父くらいでまで分かっていればいいかなと思うのです。五、六歳くらいの父が、祖父の両足の間にいる父を写した写真がありました。きっと、母の残した物の中にあることでしょうか。「優しい好い親父だった!」と父が言っていましたし、「雅、お前が髭をつけたら、俺の親父にそっくりだぞ!」と何度か言ってくれことがありました。髭を三、四度生やしたことがありましたが、父が召された後でした。「家名」よりも、姿かたちや血の中や性質の中に、受け継いでいるものがあるわけです。「良いもの」はみんな先天的で、「悪いもの」は全て、自分の後天的なものに違いありません。

分かる範囲で、先ほど返信したのですが、孫兵衛(まごべー)たちは、自分たちのお母さんの「家系」に何を感じるのでしょうか。彼らの祖母の方の両親とその両親、お父さんの両親とその両親の「木」に何かを発見できるのでしょうか。おおいに楽しみです。

(写真上は、「サザエさんの家系図」、下は、沖永良部島の有名な「カジュマル」です)