二度とふたたび立ち上がることなどないほどに、日本全土が焼土と化し、日本人の誇りが打ち砕かれてしまいました。私はまだ幼くて、そういった日本の置かれた情況を知らないで、両親の愛の手で幼児期を過ごしていたのです。都会では食糧不足で大変だったのですが、中部山岳地帯の一角に住んでいたわが家には、食べ物が潤沢にあったので、「ひもじい」と言った経験をしたことがありませんでした。時代の激変の中で、『4人の子どもたちを食べさせていかなければならない!』という必要が父にあったので、しゃにむに敗戦後のどさくさを生きて、育ててくれたのです。
戦役についていた兵隊たちが復員してきて、瓦礫の片付けから初めて、奇跡的な復興を遂げていき、10年後には、目を見張るほどの国になっていました。日本人が長く培ってきた「底力」や「勤勉さ」が、こういった復興をしてきたのです。ところが、この復興には、二つの戦争が深く関わっていたのです。一つは、1950年6月25日 に始まり、1953年7月27日に休戦した 「朝鮮戦争」でした。そしてもう一つは、1960年代初頭の「べトナム戦争」だったのです。その戦争に関わる物資の調達を、アメリカ軍が日本企業に求めてきたのです。つまり「戦争特需」でした。軍用トラックや武器などが、高い技術と能力と、地理的な近さを買われて製造されていったのです。これが、戦後復興を後押しした大きな力だったのです。
そういった千載一遇の機会と、日本人の勤勉さが、「東洋の奇跡」を生んだのです。一般的には、企業の業績に脚光を向けてきていましたが、もう一つのことがなされていたのです。城山三郎が、「官僚たちの夏」という小説を書いています。佐橋滋という、通産官僚をモデルに書いた作品で、TVドラマ化もされており、大きな反響を呼んだものでした。この「通商産業省」の役人たちが、戦後の復興に果たした役割は実に大きかったのです。「お役人」と揶揄して、出世や天下りのために、なかなか実務にうといといった印象を持ってしまていたのですが、佐橋滋たちが主導した戦後の経済復興を高く評価する必要があると思うのです。
とくに、『一家に一台の自家用車!』という国民車構想、そのスローガンを掲げて、国産車の製造を推進していった熱意に、戦後の復興を遂げさせた一点があるに違いありません。日本製品が優秀なばかりに生じた経済摩擦、アメリカとの繊維交渉、石炭から石油へのエネルギー革命、沖縄や小笠原の返還といった困難な交渉もありました。私が子どもの頃に過ごした家の近くに、「大和田橋」という橋があったのです。この橋の袂を折り返しに、「日野自動車工場」で製造された車が試運転をしている様子を、甲州街道の脇に座り込んでベーゴマを磨いていて、毎日のように眺めていました。「産業用のトラック」から「自家用車」への夢を描いて、アメリカに追いつき追い越そうとしていったのです。それは打ちひしがれていた「日本人の心」を元気にしたことになります。
やがて、その夢が実現していくのです。これまで何度かアメリカに参りましたが、フリーウエイで見かける車に、日本車が多いのに驚かされたのを覚えています。今も、中日の摩擦が大きいのですが、こちらでも一番多く走っているのは日本車なのです。こういったことに世代交代があるのでしょうけど、企業努力だけではなく、官僚の指導があったことを知って、この方たちの評価を変えてしまったのです。この佐橋滋が、事務次官を退任しても、天下りをしなかったことに、彼の「愚直さ」を見たようです。
(写真は、Tokyo空襲後の様子です)