庶民には、「高嶺の花」と言われていた、「帝国ホテル」に、一度だけ泊まったことがあります。いえ、正確にいますと、『泊まらせていただいた!』というべきでしょうか。都心で行われた会議に出席を予定していた私に、知人のお父様が、このホテルを予約してくださったのです。東京には兄弟たちがいましたから、泊まる場所に困ることはなかったのですが、そのご好意で、初めての贅沢をさせてもらいました。素晴らしい部屋に泊まったのですが、「敷居が高い」とか「不釣り合い」といったほうがいいのでしょうか、馬子が上下(かみしも)を身に着けたような感じで、申し訳ないのですが、居心地が悪かったのです。
この「帝国ホテル」の隣に、明治16年(1883年)に、「鹿鳴館(ろくめいかん)」が落成しています。欧米列強に遅れをとっていた日本は、「明治維新」を経て近代化、欧米化の道をまっしぐらに進んでいました。その動きの1つとして、欧米にも負けないような豪華絢爛な「社交場」を設け、外国人使節を接待する必要があったのです。洋服を着こなした明治の紳士淑女たちが、「舞踏会」を催し、洋舞を舞い、グラスを傾け、談笑したと言われています。昨日まで髷(まげ)を付け、大小(刀剣のことです)を腰にしていた侍と、その夫人たちが、古式ある伝統を捨てて欧化していったのです。このへんの変わり身の速さが、日本人の特徴だと言われています。中国や朝鮮半島のみなさんは、伝統に拘って、なかなか西洋の物真似はできなかったようです。それが近代化の遅れをもたらせたのですが。
その翌年の1984年には、「東京倶楽部」が作られ、外国使節や商社マンとの和やかな交際をするために、会員制のクラブが設けられたのです。このクラブは、英語だけが話され、日本語もその他の言語も禁止されていたのだそうです。明治のリーダーたちの、英語の習得力は、ものすごいものがあったことになります。このような鹿鳴館や東京倶楽部の外交政策は、当時の国粋主義者にとては鼻持ちならないものであったそうです。それででしょうか、主唱者であった外務大臣の井上馨の辞任と共に、いわゆる「鹿鳴館時代」が終わってしまうのです。落成から4年ほどのことでした。
やはり「背伸び」し過ぎたのでしょうか。さらに、この時期の遅れに追いつくために、力を入れたのが、「富国強兵」でした。少々俗な言い方をしますと、「いけいけどんどん」の国策でした。「日清戦争」に勝利した日本の産業界や軍部が、そういった掛け声をかけたのです。いわば、「猪突猛進(ちょとつもうしん)」だったのではないでしょうか。中国語の「猪」は、「豚」のことを言いまして、「いのしし」は「野猪」といいますが、まるで脇もふらずにまっしぐらに突き進んでいったことになります。この「猪」がたどり着いたのが、自他ともに多くの犠牲者を生んだ、第二次世界大戦での敗北だったのです。
「海軍」の家系に生まれた自分ではありますが、軍事力の増強、「軍」の呼称の回復などが行われることを願いたくないのです。「軍事力」がなくては、二十一世紀の「外交」は行えないのでしょうか。歴史を学びますと、日本政府の「外交」の稚拙さや失敗が、戦争に駆り立てたのだといえるからです。「平和」は、右手に握った「刀剣」なしには実現できないのでしょうか。中学校3年生の「国語」の教科書(光村図書)に、「二つの悲しみ」というエッセイがあります。息子をなくした父親、父をなくした小学校3年生の少女の様子を、当時の「復員援助局」の職員が綴ったものです。読んで、悲しくて涙が流れました。再び「戦争への道」に、息子や娘や孫たちを辿らせたくないと思うこと仕切りです。
(絵は、明治の華と言われた「鹿鳴館」の舞踏会の様子を描いたものです)