暑さをあらわすことばに、「酷暑」、「猛暑」、「炎暑」などがあります。この他に、「炎帝(中国の故事に出てくる夏を司る神なのだそうです)の猛威」といった表現があるようです。今年は、夏になる前に、冷たい雨が続いていましたので、『今年は冷夏なのだろうか?』との私的な心配をよそに、連日の「炎暑」の今日この頃です。私たちの子どの頃には、空調とか扇風機とか冷蔵庫がありませんでしたしが、『暑い!』といったことを感じた記憶がないのですが、みなさんはいかがでしょうか。
アパートの5階から通りを見下ろしますと、上半身裸の男性が、自転車やリヤカーを引きながら通りを往来する姿が、何人も見られます。また、シャツをまくりあげて、お腹を丸出しで歩いている方もおいでです。さらには、木陰の石畳の上に、裸で寝込んでいる人もいるのです。いつでしたか、雨降り後の水たまりに、お腹をつけている「犬」を見たことがあって、『何と賢いのだろう!』と感心してしまったことがありました。何しろ、この街の下には温泉の水脈があって、地熱を下からの上げているのですから、どれほどかがおわかりかと思います。
そんな暑さの中をバス停からバスに乗り込みますと、今度は、ものすごく車内が冷えていて、汗をかいた背中がスーッと冷たくなったりして、その温度差に、なかなかついていけないほどなのです。どんなに夏が好きでも、「炎帝の猛威」には、ほとほと参った感がいたします。『今頃、北海道や信州は、涼しいだろうなあ!』と羨ましく思ってしまうのは、私だけではないようです。
今日、書類を整理していましたら、「安禅は必ずしも山水を須(もち)いず、心頭滅却すれば火も自ら涼し」と、父が記したメモが出てきました。右肩上がりの特徴的な筆跡を眺めていたのですが、この詩は、中国の後梁(こうりょう)の時代(六世紀)の「杜筍鶴(とじゅんかく)」が、詠んだものだと言われています。 いつでしたか、アメリカ人の英語教師に、『禅寺に一緒に行って下さいませんか!』とお願いされて、いっしょに出かけたことがありました。その住職から禅に関する書物や物をもらったのですが、『それらを返したいので!』といったのです。神秘的な東洋の宗教に憧れて門を叩いたのですが、改宗した彼には、その贈り物が重荷だったのです。
この方にお会いして、彼が自分の気持の変化を話し始めたら、その若い住職は、烈火の如く怒り始めたのです。怒りを表した人とは何度も出会ったことがありますが、彼の怒りはその最右翼でした。『この人はまだ修行が足りないな!』と結論して、怒りの収まらない彼を残して、帰ってきたのです。いったい私の父は、「心頭滅却」の境地に至ったのでしょうか。至らなかったので、父もまた改宗してしまいました。「火」のような暑さを解消するには、涼をとる以外にありません。なぜなら、「暑さ」は、物理的で生理的なものだからです。精神的には涼しくならないに違いありません。ところが、私がだらだらと汗を流しているのに、涼しい顔をしている人が時にはおられるのには驚かされています。
来週は、バスに乗って海に行ってみようかと思っています。バスターミナルから二度乗り換えると、海に行けるからです。海岸線が長くて広い浜辺で、海水に足をつけたら、きっと涼感を満喫できるのではないでしょうか。その前に、明日はスイカを買ってきて、冷蔵庫で冷やして、食べようかなと思っています。食欲がなくならないのは、健康な証でしょうか。ご安心下さい。
(写真は、「海と波」です)