「二つの悲しみ」

.  
「バギオ」

         二つの悲しみ        杉山竜丸

 これはわたしが経験したことです。
 第二次大戦が終わり、多くの日本の兵士が帰国してくる「復員」の事務についていた、ある暑い日の出来事であった。
 わたしたちは、毎日毎日訪ねてくる人々に、『あなたのご主人は亡くなった。』、『死んだ、死んだ。』と伝える苦しい仕事をしていた。留守家族の多くの人は、ほとんどやせ衰え、ぼろに等しい服装が多かった。
 あるとき、ずんぐり太った、立派な服装をした紳士が隣の同僚のところに来た。隣は、ニューギニア派遣の係であった。その人は、
 『ニューギニアに行った、私の息子は、』と、名前を言ってたずねた。
 友人は、帳簿をめくって、
 『あなたの息子さんは、ニユーギニアのホーランジャで戦死されておられます。』
と答えた。
 その人は、その瞬間、目をかっと開き、口をぴくっと震わして、黙って立っていたが、くるっと向きを変えて帰っていかれた。
 人が死んだということは、いくら経験しても、また繰り返しても、慣れるということはない。言うことも、またそばで聞くことも、自分自身の内部に恐怖が走るものである。それは、意識以外の生理現象である。友人は言ったあと、しばらくしてパタンと帳簿を閉じ、頭を抱えた。
 わたしは黙って便所に立った。階段のところに来たとき、さっきの人が階段の曲がり角の踊り場の隅の暗がりに、白いパナマ帽を顔に当てて、壁板にもたれるように立っていた。瞬間、わたしは気分が悪いのかと思い、声をかけようとして足を一段階段に下ろした。そのとき、その人の方がブルブル震え、足元にしたたり落ちた水滴のたまりがあるのに気づいた。
 その水滴は、パナマ帽から溢れ、滴り落ちていた。肩の震えは、声を上げたいのを必死にこらえているものであった。どれだけたったかわからないが、わたしはそっと自分の部屋に引き返した。
 次の日、久しぶりにほとんど留守家族が来ないので、やれやれとしている時、ふと気がつくと、わたしの机から顔だけ見えるくらいの少女がちょこんと立って、わたしの顔をまじまじと見つめていた。
 わたしが姿勢を正して、何かを問いかけようとすると、
 『あたし小学校三年生なの。お父ちゃんはフィリッピンに行ったの。お父ちゃんの名は、◯◯◯◯なの。家にはおじいちゃんとおばあちゃんがいるけど、食べ物が悪いので病気して、寝ているの。それで、それで、あたしに、この手紙をもってお父ちゃんのことを聞いておいでというので、あたし来たの。』
 顔中から汗をひたたらせて、ひと息にこれだけ言うと、大きく肩で息をした。
 わたしは黙って、机の上に差し出した小さい手から葉書を見ると、復員局からの通知書があった。住所は東京都の中野であった。わたしは帳簿をめくって、氏名のところを見ると、フィリッピン諸島の一つ、ルソン島のパギオで戦死になっていた。
 『あなたのお父さんは・・・・・・・・・・』
と言いかけて、わたしは少女の顔を見た。
 やせてまっくろな顔、伸びたおかっぱの下に切れの長い目をいっぱいに開いて、わたしの唇を見つめていた。私は少女に答えねばならぬ。答えねばならぬと体の中に走る戦慄を精いっぱい抑えて、どんな声で答えたかわからない。
 『あなたのお父さんは戦死しておられるのです。』と言って、声が続かなくなった。
 瞬間、少女は、いっぱいに開いた目をさらにパッと開き、そしてワッとべそをかきそうになった。涙が目にいっぱいにあふれそうになるのを必死にこらえていた。  
 それを見ているうちに、わたしの目に涙がふれて、頬を伝わり始めた。わたしのほうは声を上げて泣きたくなった。しかし少女は、
 『あたし、おじいちゃまから言われて来たの。お父ちゃまが戦死していたら、係のおじちゃまに、お父ちゃまの戦死したところと、戦死した情況、情況ですね、それを、書いてもらっておいでと、言われたの、』
 わたしは黙ってうなずいて、紙を出して書こうとして、うつむいた瞬間、紙の上にぽたぽた涙が落ちて書けなくなった。
 少女が不思議そうに、わたしの顔を見つめていたのに困った。やっと書き終わって封筒に入れ、少女に渡すと、小さい手でポケットに大切にしまい込んで、腕で押さえて、うなだれた。涙一滴落とさず、一声も声を上げなかった。肩に手をやって、何か言おうと思い、顔をのぞき込むと、下唇を血が出るようにかみしめて、かっと目を開いて肩で息をしていた。わたしは声を飲んで、しばらくして、
 『お一人で帰れるの。』と聞いた。少女はわたしの顔を見つめて、
 『あたし、おじいちゃまに言われたの、泣いては、いけないって。おじいちゃまから、おばあちゃまから電車賃をもらって、電車を教えてもらったの。だから、行けるね、と何度も何度も、言われたの。』
と、改めて、自分に言い聞かせるように、こっくりと、わたしにうなずいて見せた。
 わたしは体中が熱くなってしまった。帰る途中で、わたしに話した。
 『あたし、妹が二人いるの。お母さんも死んだの。だから、あたしがしっかりしなくては、ならないんだって。あたしは、泣いてはいけなんだって。』
 小さい手を引くわたしの頭の中を、その言葉だけが何度も何度もぐるぐる回っていた。どうなるのであろうか。わたしは一体、何なのか、何ができるのか。  
 戦争は、大きな大きな何かを奪った。悲しみ以上の何か、かけがいのないものを奪った。
 わたしたちは、この[二つの悲しみの出来事]を読んで、何を考えるべきだろうか。何をすべきだろうか。
                    (光村図書刊「中学三年・国語」所収のエッセーです)

(写真は、少女のお父さんが亡くなったルソン島の「バギオ市」の現代の様子です)

『いけいけどんどん』

.
「鹿鳴館」

 庶民には、「高嶺の花」と言われていた、「帝国ホテル」に、一度だけ泊まったことがあります。いえ、正確にいますと、『泊まらせていただいた!』というべきでしょうか。都心で行われた会議に出席を予定していた私に、知人のお父様が、このホテルを予約してくださったのです。東京には兄弟たちがいましたから、泊まる場所に困ることはなかったのですが、そのご好意で、初めての贅沢をさせてもらいました。素晴らしい部屋に泊まったのですが、「敷居が高い」とか「不釣り合い」といったほうがいいのでしょうか、馬子が上下(かみしも)を身に着けたような感じで、申し訳ないのですが、居心地が悪かったのです。  
 
 この「帝国ホテル」の隣に、明治16年(1883年)に、「鹿鳴館(ろくめいかん)」が落成しています。欧米列強に遅れをとっていた日本は、「明治維新」を経て近代化、欧米化の道をまっしぐらに進んでいました。その動きの1つとして、欧米にも負けないような豪華絢爛な「社交場」を設け、外国人使節を接待する必要があったのです。洋服を着こなした明治の紳士淑女たちが、「舞踏会」を催し、洋舞を舞い、グラスを傾け、談笑したと言われています。昨日まで髷(まげ)を付け、大小(刀剣のことです)を腰にしていた侍と、その夫人たちが、古式ある伝統を捨てて欧化していったのです。このへんの変わり身の速さが、日本人の特徴だと言われています。中国や朝鮮半島のみなさんは、伝統に拘って、なかなか西洋の物真似はできなかったようです。それが近代化の遅れをもたらせたのですが。

 その翌年の1984年には、「東京倶楽部」が作られ、外国使節や商社マンとの和やかな交際をするために、会員制のクラブが設けられたのです。このクラブは、英語だけが話され、日本語もその他の言語も禁止されていたのだそうです。明治のリーダーたちの、英語の習得力は、ものすごいものがあったことになります。このような鹿鳴館や東京倶楽部の外交政策は、当時の国粋主義者にとては鼻持ちならないものであったそうです。それででしょうか、主唱者であった外務大臣の井上馨の辞任と共に、いわゆる「鹿鳴館時代」が終わってしまうのです。落成から4年ほどのことでした。

 やはり「背伸び」し過ぎたのでしょうか。さらに、この時期の遅れに追いつくために、力を入れたのが、「富国強兵」でした。少々俗な言い方をしますと、「いけいけどんどん」の国策でした。「日清戦争」に勝利した日本の産業界や軍部が、そういった掛け声をかけたのです。いわば、「猪突猛進(ちょとつもうしん)」だったのではないでしょうか。中国語の「猪」は、「豚」のことを言いまして、「いのしし」は「野猪」といいますが、まるで脇もふらずにまっしぐらに突き進んでいったことになります。この「猪」がたどり着いたのが、自他ともに多くの犠牲者を生んだ、第二次世界大戦での敗北だったのです。

 「海軍」の家系に生まれた自分ではありますが、軍事力の増強、「軍」の呼称の回復などが行われることを願いたくないのです。「軍事力」がなくては、二十一世紀の「外交」は行えないのでしょうか。歴史を学びますと、日本政府の「外交」の稚拙さや失敗が、戦争に駆り立てたのだといえるからです。「平和」は、右手に握った「刀剣」なしには実現できないのでしょうか。中学校3年生の「国語」の教科書(光村図書)に、「二つの悲しみ」というエッセイがあります。息子をなくした父親、父をなくした小学校3年生の少女の様子を、当時の「復員援助局」の職員が綴ったものです。読んで、悲しくて涙が流れました。再び「戦争への道」に、息子や娘や孫たちを辿らせたくないと思うこと仕切りです。

(絵は、明治の華と言われた「鹿鳴館」の舞踏会の様子を描いたものです)