美談

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森鴎外の名作に、「高瀬舟」があります。この舟は、高瀬川の流れを利用して、人や物を運んだといわれています。役人の手で、弟殺しの犯人が護送されるのも、この舟でした。この作品には、船中での二人のやり取りが記されています。この川は、琵琶湖から流れ出し、宇治川となり、やがて淀川となって下って行くのです。この淀川で、人命救助があったというニュースが、今週ありました。

「経験したことのない大雨」が、台風18号の襲来で、近畿圏や中部圏を中心に降りました。最近の大雨は、「ゲリラ豪雨」とは言わないようで、「想像を絶した大雨」と言う方が、的確なのではないかと思ってしまいます。半端な降り方ではないのです。16日のことでした。その大雨で増水した淀川に、足を滑らせて流された小学生を、一人の青年が救助したのです。その方は、中国人の留学生、厳俊さんでした。10mほど泳いで岸に、小学生を連れ戻したのです。

救助されたのは、9才の男児で、たまたまジョギングで通り掛けた厳さんが見つけ、川に飛び込んで助けたのです。それは考えていたらできない行為で、きっと咄嗟(とっさ)飛び込んだに違いありません。大水でしたから、ご自分だって危険が予測できたのでしょうに、そんなことを顧みずに、人を助けるという行動は、見上げたものです。私も、中国の空の下から、「ありがとうございました!」と拍手して感謝したところです。

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中国の青年のみなさん、私たちが出会ってきた彼らは、一様に優しい心の持ち主でした。背筋をしっかりと伸ばし、堂々として生きていますし、いつもあたりに気配りをしておいでです。教育のせいというよりは、中国の伝統的な良い精神的な遺産を継承しておられるのだと、感じるのです。昨年の今頃、「尖閣諸島」の購入によるデモが、中国の多くの街で起こり、中日関係が最悪の事態になり、その後も思わしくなく推移しているのですが、この「人命救助」の「美談」が、中日友好関係の好転に変えられていくサインのように感じています。民間レベルでの愛の交流が、関係改善に寄与していくのではないでしょうか。

厳俊さんは、来春、大阪市立大学の大学院の博士課程に進学を予定しているそうです。その前途を、心から祝福いたします。

(写真上は、浮世絵に描かれた「淀川」、下は、「厳俊さん」です)

ひと夏の思い出(5)

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かつて名の知れない小さな漁村だった「横浜村」が、ペリーの黒船来航以来、近代日本の窓口として、外交や商業の主要都市となっていきました。それ以来、貿易港としての使命を果たし続けてきているのです。この夏、所用があって、代官山から東横線の電車に乗って、みなとみらい線の「馬車道駅」まで出掛けました。横浜には友人がいて、彼の家に泊まりに行ったり、一緒に町歩きをしたりしたことがありました。当時は、横浜には地下鉄も「みなとみらい線」もなかったのですが、今では、多くのビルが建ち並んで、さながら「未来都市」のようになっていました。

日曜日の朝、訪ねた所は、四十年ほど前に、友人の結婚式があって、一度行ったことがありました。その建物は、明治の初期に建てられたのですが、関東大震災の被災で壊滅してしまい、その後再建されています。その建物も戦争中には空襲で焼かれてしまったのです。戦後、改修されて今日に至っており、周りの近代的なビル群の間で、「デン!」と構えて歴史を誇るかのようでした。それは、学校で学んだ「ヘボン式ローマ字」を作ったヘボンと関わりがある由緒ある建造物なのです。

用を済ませた私は、駅前にある「神奈川県歴史博物館」に入ってみました。父の出身の横須賀に関わる展示物などもあり、「横浜開港」前後の様子を描いた絵が展示されているのが興味深かったのです。一時間半ばかり館内を見学して駅に向かいました。息子に、「中華街で中華饅頭を買ってきて!」と、出がけに頼まれましたので、二駅向こうの「横浜中華街駅」に向かいました。日曜日の昼過ぎ、駅からはき出される人の波で、街は溢れていました。中国情緒の好きな人ばかりなのでしょうか、かくいう私も「中日友好の士」ですから、けっこう人の波に押されながら、碁盤の目のような中華街を徘徊してしまったのです。道筋に八百屋があって、自分の好きなトマトときゅうりを買い、それに頼まれた「饅頭」も買って、帰宅したのです。

久しぶりの「横浜」でしたが、様変わりが激しくて戸惑ってしまいました。その印象は、「日本って平和で豊かな国だなあ!」というのが本音でしょうか。着ている服、履いている靴、持っているバッグ、手にしている携帯、彼らを呼び込む店の物量の多さ、何を見ても、そう感じた今年の日本、とくに横浜の夏でした。

(写真は、横浜の「中華街」です)

ひと夏の思い出(4)

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私の生まれた年に流行った歌に、「ラバウル小唄」があります。作詞が若杉雄三郎、作曲が島口駒夫で、「遠洋航路」の別名もあります。

1
さらば ラバウルよ また來るまでは
しばし 別れの 涙がにじむ
戀し懷し あの島 見れば
椰子の 葉かげに 十字星

2
船は 出てゆく   港の沖へ
いとし あの娘の  打ちふるハンカチ
声をしのんで  こころで泣いて
両手 合わせて  ありがとう

3
波の しぶきで 眠れぬ夜は
語り あかそよ デッキの上で
星が またたく あの星 みれば
くわえ 煙草も ほろにがい

4
赤い 夕陽が 波間に沈む
果ては 何處ぞ 水平線よ
今日も はるばる 南洋航路
男 船乗り かもめ鳥

5
さすが男と   あの娘は 言うた
燃ゆる 思いを  マストに かかげ
ゆれる 心は  憧れ はるか
今日は 赤道  椰子の下

この歌詞 に出てくる「ラバウル」は、パプア・ニューギニアのブリテン島にある町で、かつて旧日本軍の航空隊の基地がありました。この歌は、軍歌ではなかったのですが、兵士たちに好んで歌われたようです。大阪港から「蘇州号」に乗って上海に向かった船の中で、この歌を思い出した私は、波を見ながら歌っていました。ところが二日目、台風が行ったばかりの外海は、荒波が立っていたのです。これまで5回ほど乗船経験があり、この歌の三番の歌詞の「波の しぶきで 眠れぬ夜は 語りあかそよ デッキの上で・・・」のように、道連れになった方たちと語り合うことが多くありました。しかし、今回は、そんな気分はなれなかったのです。「船員も船酔いしていたようです!」と後になって聞いたように、船が前後に揺れて、朝食を摂ったあとは、昼も夜も食事を食べずに、水分補給だけはして、船室のベッドに横になるばかりだったのです。さながら船内は「ゴーストタウン」のように静まり返っていました。小さな子どもたちでさえも、走り回らなかったのです。

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そんなこんなの船旅で、上海で下船したのですが、上海は朝から真夏日が照り付けていました。「動車(中国番の新幹線)」のチケットを買っておいてくれた学生さんと落ち合う喫茶店に、何と徒歩で向かったのです。近いはずなのに、体力がなかったので遠く感じられ、荷は重くて倒れるばかりでした。その朝も食べられなかった私は、息子が「はい、おやつ。持っていって!」と渡してくれた「干しイチジク」を食べていたので、どうにか持ち堪えることができたのです。Nさんと会えて、始発駅まで送っていただきました。彼女に荷物を一つ持っていただいた時は、彼女が天使のように思えて感謝でいっぱいでした。

Nさんと息子のお陰で、「熱中症」にもならないで、無事に帰宅することができたわけです。「次回は、飛行機!」と決心したのですが、あの何とも言えない船のゆったりした揺れと語らいが、懐かしくなってきていますので、この決心は撤回されるかも知れません。初めて「吐き気」を覚えた夏の出来事でした。

(写真上は、上海と大阪間を就航する「蘇州号」、下は、「上海」です)