他人事ではない

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有名なテレビの司会の息子の窃盗事件のニュースを聞いて、幼児教育をしばらくしていた家内が、「寂しさが、そう言った行為に連れて行くことがあるそうよ!」とコメントしていました。「窃盗症(せっとうしょう)」を、ウイキペディアは、「アクレプトマニア (kleptomania) の訳語であり、経済的利得を得るなど一見して他人に理解できる理由ではなく、窃盗自体の衝動により、反復的に実行してしまう症状で、精神疾患の一種である。病的窃盗ともいう。」と説明しています。

それを聞いて、自分にも子どもの頃に「盗癖」のあったことを思い出したのです。「みよちゃん」という駄菓子屋が、私の住んでいた街の大通りにありました。母親にもらった五円や十円を握っては買いに行ったのです。一時期、何度も何度も、おばさんが向こうを向いている隙に、利き腕の右手でお菓子や飴玉を握っては、ポケットの中に盗み取っていたのです。それで、この店の前を通ると、やましさが心の中から湧き上がってきて、自責の念に駆られるのが常でした。二十歳の時に、よその街に越し、さらに仕事で遠くの街に越したのです。しかし上の兄が、その街で仕事をしていましたから、時々訪ねていました。駅を降りて左に行くと兄の仕事場、右に行くと「みよちゃん」の店があるのです。

結婚して子どもが生まれて 、幼稚園に行き始めた子育て真っ盛りの頃でした。「<みよちゃんの店>に行って、お詫びをしろ!」という思いが、たびたび湧き上がってくるのです。親として清算すべきことを思い出させられたわけです。その思いを、払い除けるのですが、消すことができませんでした。ちょうどその頃、兄の所に行く用があったのです。「今度こそは、<みよちゃん>の店に行って、おばさんに・・・!」と、心に決めて出かけたのです。駅を降りて左に行かずに、右に行き、「みよちゃん」の店の前に立ったのです。あの「みよちゃん」が、子どもの頃のようにして店にいました。「おばさん。ぼくが子どもの頃、おばさんが向こうを向いてる隙に・・・」と、罪を告白したのです。みよちゃんは、キョトンとした顔をして、苦笑いで聞いてくれたのです。「・・・・それで、これ少ないですけど、お詫びの分です!」と言って、3000円を手渡したのです。すると、「いいわよ、そんなの!」と言って取ってくれないので、強引に握らせて、「じゃあ!」と言って去ったのです。

それ以来、「みよちゃん」の店を訪ねていません。まだ店をやってるのかどうかも分かりません。「みよちゃん」は元気なのでしょうか。何度も何度も買いに行った客だった私の顔も、どこの誰の息子かも、狭い街でしたから知っていたのです。「娘の頃に、万引きをしたことがあった女校長が、退職を間近して万引き事件を犯して逮捕される!」という話を、松本の「女鳥羽講演会」で聞いたことがありました。「親になったのに、何か精神的ストレスが原因で、盗癖の根がノキノキと出てきて、再び盗みを犯してしまったらどしよう?」と恐れたのが、清算の動機だったのでしょうか、「恥な過去」の良心の責めだったのでしょうか。でも、過去の過ちの清算をして好かったと、今切々として思うのです。決して「他人事(ひとごと)」ではないからです。

(写真は、今でもある「駄菓子屋」の店頭です)

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