作詞が菊田一夫、作曲が古関裕而、唄が川田正子の「鐘のなる丘(とんがり帽子)」は、戦後間もない、1947年にはやった歌です。
1 緑の丘の赤い屋根
とんがり帽子の時計台
鐘が鳴ります キンコンカン
メーメー小山羊(こやぎ)も啼(な)いてます
風がそよそよ丘の上
黄色いお窓はおいらの家よi
2 緑の丘の麦畑
おいらが一人でいる時に
鐘が鳴ります キンコンカン
鳴る鳴る鐘は父母(ちちはは)の
元気でいろよという声よ
口笛吹いておいらは元気
3 とんがり帽子の時計台
夜になったら星が出る
鐘が鳴ります キンコンカン
おいらはかえる屋根の下
父さん母さんいないけど
丘のあの窓おいらの家よ
4 おやすみなさい 空の星
おやすみなさい 仲間たち
鐘が鳴ります キンコンカン
昨日にまさる今日よりも
あしたはもっとしあわせに
みんな仲よくおやすみなさい
1950年の夏に、父は、「四人の子を、東京で教育したい!」と考えて上京しました。東京で少年期を過ごした父だったこともあり、戦後の混乱も少しづつ収まり始めたころでしたから、自分も懐かしい東京に戻りたかったのかも知れません。新しい仕事も都内にあったようです。それで、現在のJR新宿駅の南口の近くや、大田区の東急線沿線(父はそこにある旧制中学に通っていました)に家を探したのですが、結局中央線の日野駅の近くに物件を見つけ、それを買ったのです。駅のそばに農家がまだ残っていたほどで、旧友たちの何人もが農家の子でした。かつては甲州街道の宿場だった街で、級友のS君の家は、宿場の中心的な役割をに担っていたそうで、遊びに行きますと、門構えも、家の中の柱や長押(なげし)もがっしりして、江戸時代を感じさせてくれるほどでした。
恵まれて戦後を過ごした私とは違って、戦争でお父さんや家族や家を失った子どもも多くいました。新宿や上野などに行きますと、よく「戦争孤児」を見かけました。まだ国が、彼らの面倒を見ると言った制度がなかった時代でしたから、新宿のガード下には、大勢の子どもがいたのです。ヌクヌクとして過ごしていた私たちとは違って、厳しい現実を生きていたのです。そんな頃に、よくラジオから聞こえてきたのが、この歌でした。今、歌いますと、あの頃の情景が思いの底から浮かび上がってまいります。「・・・おいらはかえる屋根の下 とうさんかあさんいないけど・・・」と歌詞にあります。あのジブリが作った「火垂(ほたる)るの墓」の兄妹の姿を彷彿とさせられます。
<緑の丘に赤い屋根の家>があって、そこで、そう言った子どもを見兼ねた人たちが世話をしていたのです。そのモデルとなった「おいらの家」が、岩手県奥州市に残されているようです。繁栄の時代の今では、想像もできないことですが、こう言った過去を、しっかりと記憶にとどめておく必要があるようです。その家に住んでいた子どもたちも、もう七十代、八十歳にもなっておいででしょうね。厳しい境遇を跳ね返して、強靭に生きてきて、老いを迎えておられるのでしょうか。この時代は、「あしたはもっとしあわせに」と願われ、世話を受けた、彼らの上に出来上がったわけです。<とんがり帽子の・・・>のフレイズに強烈な印象があります。
(写真は、歌で歌われた「おいらの家」です)