勘違い

20131025-151859.jpg

小学校の時に、「賞状」をもらったことがあります。街の文化祭に、絵と工作とが出展された時でした。優等賞も皆勤賞もらったことはありませんし、これからももらうなどありませんから、生涯ただ二枚の賞状です。「銅賞」でしたから、第三位で佳作の一つ上です。そんな賞状も、なんども引越しをしているうちになくなってしまいました。

そこに「右者」とありました。これを、多くの人は、「みぎのもの」と読むのです。昔の校長や教育長は、「みぎは」と、正しく読んだのですが、「誤読」されやすい漢字の一例です。国語学者の大野晋が、国語力や漢字力の低下について、ご自分の経験を通して、「私の師である橋本進吉教授に比べると、私の・・・」、「橋本先生もその師に比べて・・・」と述べています。年々低下傾向にあることになります。作家で戯曲家の井上ひさしが、「難読漢字」に触れた記事を書いています。「読めない漢字が私にも多くあるのです!」と謙遜に言っています。そうしますと、幼稚園の頃から漢字だけで養育を受けている中国のみなさんの「漢字能力」が、いかに高いかということに感心してしまうのです。

「誤用」も多くあるそうです。「辞書の日」である10月16日(米国の辞書編修者、ノア・ウェブスターの誕生日/1758年)を記念して、「間違った意味で使われる言葉ランキング」と「言い間違いされる言葉ランキング」を発表しています(ウエブスターは、 英語辞書で最も有名で高く評価されている辞書の編集者で,「アメリカの学問と教育の父」と言われています)。例えば、
「ハッカー」➡「インターネットなどの知識が豊富で詳しい人」という意味です。
「確信犯」➡「信念に基づいて『正しいことだ』と思い込んでする犯罪」のことです。
「破天荒」➡「だれもなしえなかったをすること」のことです。
「姑息」➡「一時しのぎ」のことです。
「失笑する」➡「思わず笑い出す」ことです。
などがあります。

私の母が勘違いして、訪ねてきたおじさんと話をしていたのを、父が聞いていて、よく、その話の間違いの言葉、「スクラム、スクラム!」と言っては母を困らせていたことがありました。「そうですね!」と相槌をうっていたおじさんも、よく分かっていなかったようです。「また、そんなことを、お父さんは言って!」と、母がやり返していました。いたずらな父でした。その父が、第一版の「広辞苑」を買ってくれました。この辞書を引いては、言葉を覚えたのです。

(写真は、大野晋の編纂した角川書店刊の「類語新辞典」です)

「普通の人」

20131025-141252.jpg

「ミーハー」を、yahooの辞書で調べると、「[名・形動]《「みいちゃんはあちゃん」の略。ふつう「ミーハー」と書く》軽薄な、また、流行に左右されやすいこと。また、その人や、そのさま。「―な発想」「―向けの商品」」とあります。しかし、「ミーちゃん」は、女性の好物の「あんみつ」のことであり、「ハーちゃん」は、女性に圧倒的な人気のあった「林長二郎」、後の長谷川一夫のことだそうです。随分な人気だったそうで、父よりも二歳上でした。 普通の男性なのですが、作り上げられた「憧れのスター」は、いつの世にもいるようです。

自分にも、自分の配偶者にもできないようなことを、銀幕やテレビの中で代わって演じてくれる「俳優」や「歌手」さらには「スポーツ選手」に、とくに女性は血道を上げるのでしょうか。以前、大挙して「韓流ドラマ」の俳優を訪ねて旅行のツアーが行われていたことがあったのですが、「アレ!アレ!」と言った思いで眺めていました。平凡な家事に明け暮れている主婦の心の中が見えてきそうでした。裏返すと、夫と違って美男子で仕草も洗練されている姿を、スクリーンやテレビの中に眺めて、ついている「ため息」が聞こえてきそうでした。

そういえば男性も同じです。級友に「高倉健フアン」がいて、彼に誘われて、新宿だったでしょうか、映画館に連れて行かれたことがありました。昔の剣劇、時代劇の昭和バージョンと言えるのでしょうか、「アウトローの世界」の活劇でした。チョンマゲををつけていない時代劇です。二十歳前後の私たちと同世代、おじさんたちも大勢いたでしょうか、男のムンムンとした息が溢れている映画館でした。普通に生きている学生やサラリーマンにとっては、足を踏み入れられない任侠の別世界だから、そこに距離があるからこそ、日常性を超えた世界を求めているのだと思わされたのです。映画がはねて、ゾロゾロと出てくる男たちは、みんな「健さん」でした。「出来得ないことの代役」を俳優が演じてくれるので、いつの時代もスターが消えては出てくるのです。

「娯楽」は、yahooの辞書に、「[名](スル)仕事や勉学の余暇にする遊びや楽しみ。また、楽しませること。「―施設一つない山間の地」「―映画」「装飾は人の心目を―し」〈逍遥・小説神髄〉」とあります。昔は、踊ったり歌ったり、または人の踊りや歌うのを見聞きすることが、明日の平凡な生活を生かして行く力だったのでしょうか。年中行事の「正月」や「桃の節句」や「夏祭り」や「秋祭り」などは、庶民にとって待ち遠しかったのです。日常性に大きな変化をもたらしたからでしょう。ところが現代では、「もうすぐお正月だ!」と言った待望感がなくなってしまい、毎日が娯楽している時代です。好いのか悪いのか・・・・。

息子さんのことでインタビュウーを受けていた有名人の顔が、「普通の人の顔」だったのを見て、テレビの中の顔が、「営業用の顔」だったことを知らされて、今更という感がしました。有名人も日常は「普通の人」なのです。でも、同じ顔で、何時でも生きていける幸せもあるのだと気付かされた秋でもあります。

(写真は、私の好物「あんみつ」です)