「◯◯良いとこ 誰言うた 櫟林のその中に 粋な学生がいると言う 一度は惚れてみたいもの、都立公立 古臭い・・・」、「僕は◯◯の一年生 紺の制服よく似合う あなたは女子部の白百合よ 紺のセイラーがよく似合う・・・」、これらは替え歌の文句で、上級生が教えてくれたものです。中学に入学して、隣の校舎には、おじさんのような高校三年生がいて、クラブ活動には、大学生や社会人が出入りしていました。また高校の教師が、中1の私たちを教えてくれたのです。とくに同じ学校の先輩と後輩というのは、近く親しく感じるものなのです。ああ言った関係が、とくに強かったと思います。
「面倒をみる」とか「可愛がる」とか「奢(おご)る」とか言った関係でつながり、私たち後輩は、それを受けていたのです。もちろん、その中には、今では問題となっている「ビンタ(張り手のことです)」もありました。「制裁」とか「共同責任」とかで、頬を張りとばされたのです。「暴力」に違いないのですが、何だか「大人扱い」をされた気持になり、先輩への従順や敬意でさえ感じました。家庭や友達との間にはなかった真新しい世界の「上下関係」だったのです。中には、怒り心頭で殴った先輩もいましたが、例外でした。
十歳も十五歳も年上ですと、戦時中に教育された先輩たちもいましたから、「軍事教練」を受けた世代になるのです。そんな先輩たちだったことになります。教師たちは、それを伝統とみなして、認めていたのです。教師の中には、OBもいましたから。「早く大人になりたい!」と言った願望で思いの中が溢れていました。ですから吸収力が旺盛で、いいことも悪いことも教え込まれた時でした。民主主義の教育を受けたのですが、古い価値観も残っていたことになります。
あの時一緒に練習をした同級生たちと一緒に、都内の高校で試合があると、ボール運びと応援で連れて行かれました。帰りは、決まって新宿で下車して、西口の線路ぎわの小汚い食堂で、ご馳走になりました。美味かったのです。肉と言っても、何の肉だか分からないものだったのではないでしょうか。そんなことを考えなかった時代でした。仲の良かった友人は、四十前に亡くなってしまいました。同じ帽子と制服で紅顔の美少年だった仲間たち、先輩たちは、どうしていることでしょうか。全てのことが、昨日のように感じられてしまいます。
(写真は、1960年頃の「新宿の街」です)