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上の写真は、オレゴンにかかったもの、下は栃木市にかかった虹です。同じ弧を描いていていることが分かります。
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サンフランシスコ湾の海辺の公園に咲く花だそうで、昨日送信してくれました。春を感じた自然界は、いっせいに花開き始めています。閉じ籠り症候群の私たちに、長女が綺麗をお裾分けしてくれています。もう何年も前に、サン・ホゼに行った時に、案内していただいて、サンフランシスコに、ジャイアンツのアメリカン・リーグの野球の試合を観に行きました。
この街にある一帯は、多くの日本人や中国人の農業移民の地で、多くの移民のみなさんの汗と涙を受け止めた地なのです。作詞が佐伯孝夫、作曲が佐々木俊一、渡辺はま子が歌った「桑港(サンフランシスコ)のチャイナタウン」と言う歌があります。
桑港(サンフランシスコ)のチャイナタウン 夜霧に濡れて
夢紅く誰を待つ 柳の小窓
泣いている 泣いている
おぼろな瞳 花やさし霧の街
チャイナタウンの 恋の夜
桑港のチャイナタウン燃えて
泪顔ほつれ髪 翡翠の篭よ
忘らりょか 忘らりょか
蘭麝(らんじゃ)のかおり 君やさし夢の街
チャイナタウンの 恋の夜
桑港のチャイナタウン 黄金(きん)門湾の
君と見る白い船 旅路は遠い
懐しや 懐しや
故郷の夢よ 月やさし 丘の街
チャイナタウンの 恋の夜
この街は、浪漫チックに歌われたのですが、日本人や中国のみなさんの勤勉と我慢が作り上げたと言えるでしょう。来る春くる春に、美しく咲き出す花は、移民のみなさんを慰め励ましたことでしょう。
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先週の土曜日の晩、11時過ぎに、東日本大震災を思い出させる様な、地震の揺れを感じた私は、一瞬驚き起きました。広範囲に被害が出たそうです。でも津波被害がなかったことを喜んでいます。あの大地震の余震ではないかと言われ、今後、土曜日の晩の余震も続くとニュースが伝えています。
"3.11"の時には、家内の入院手術を前にした時で,息子の家の二階にいて、大きく揺れ、広い場所に出ようと、近くのCOOPの駐車場に行きました。まだ、電線が大きく揺れていて、本物の地震を初めて身に感じたのです。
お隣の国から帰国して2年、地震国の日本を感じながら、時々揺すぶられていますが、長く住んだ華南の街では、ただ一度だけ、台湾での地震を感じたことがありました。7階の友人の家で、夕食に招かれてた時だったでしょうか。
あの"3.11"の地震では、津波の被害に驚かされたのです。北上川だったでしょうか、その川を遡上していく津波が、ヘリコプターから捉えられていて、テレビで放映されていました。畑も家も車もなぎ倒して、呑み込んでいくのです。
その威力の凄さに、私は息を呑み込ました。上空からは見下ろせても、川の周辺の地上にいる人は誰も、その遡上に気付いていないのです。危機を予測できても、どうすることもできない自分が、何か申し訳ない思いにされてしまいました。” ヤマサ醤油 “ のサイトに、「稲村の火」の次の様な記事があります。
『1854年(安政元年)11月4日、5日の2回にわたって襲った南海の大地震に際し、偶然故郷の紀州・広村(現在の広川町)に戻っていた梧陵は、海水の干き方、井戸水の急退などにより、大津波が来ることを予期しました。梧陵は村民を避難させるため、田圃に積んであった収穫された稲束(稲むら)に火を投じて急を知らせ、村民の命を救ったといいます。この行為に感動した明治の文豪・ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、「仏の畠の中の落穂拾い」という短編集の中で、‘A Living God(生ける神)’として梧陵を紹介しています。のちにこれをもとにして、小学校教師であった中井常蔵氏が著した物語「稲むらの火」は、昭和12年から昭和22年まで国定の小学国語読本に採用されました。』
この物語は、史実とは違うそうですが、「防災の逸話」としては意味がありそうです。茨城も津波被害にあって、次兄と弟とその孫と一緒に、津波の被害を見ておきたくて出掛けたことがありました。近くの海岸の枯れた葦の間に、倒れた墓石が、津波の衝撃を物語っていたのです。
その茨城の五浦(いずら)には、岡倉天心や横山大観の別荘や教室があった地です。そこに彼らが、今後の日本の美術に思いを向けた「六角堂」という由緒ある記念物もありました(津波にさらわれて再建されてありました)。大観の別荘を移築した室を持つホテルがあって、弟の教え子が、そこの女将で、泊めていただきました。
あの地震、津波、原発崩壊などの災害は、人によって生き方に変化を与えた様です。有名な歌人は、原発の放射線被害の影響を避けて、東京を引き払って沖縄に転居したと聞きました。安全なところで子育てをしたかったからです。一方では、長く封鎖され、今は解除された南相馬市に転居して行った、「JR上野駅公園口」で全米図書賞翻訳部門受賞した小説家の柳美里(りゅうみり)がいます。津波や放射能の被害者を受けた人たちとともに生きるためでしょうか。この方の生き方が潔く感じているのです。
「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。(ピリピ人への手紙2章6~9節)」
人は危機に直面した時に、それを避けて生きるか、危機の只中にいる人と共に生きるか、対照的な生き方の違いがありそうです。罪と汚辱と悪とに満ちた人の世に、神の子が来られて住まわれ、短い生涯の後に、十字架に死なれたのがイエスさまでした。私の罪の受けるべき分を、代わってお受けくださったのです。自分の人生に激震が起きて、生き直すことができて、今の自分があります。
(南相馬に伝わる「野馬追」の行事です)
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雨上がりの昨日の夕方、西から晴れ間が見え、おあつらえ向きの虹の出る状況で、東の空を見上げると、半円形の虹がくっきりと見えました。よく見ると、その外側に、もう一つが見え《二重虹》でした。なにか得したように思って、小朋友に電話したのですが、通じませんでした。創造の美に感動して欲しかったからです。
現代人は、地上と地上に起こっていることばかりに目を向けて、神々しい天然に、目を向け、心を溢れさせることをしなくなっている様です。ノアの洪水の後に、次の様に、神はノアに語られました。
「わたしとあなたがた、およびあなたがたといっしょにいるすべての生き物との間に、わたしが代々永遠にわたって結ぶ契約のしるしは、これである。わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現れる。わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。」(創世記9章12~16節)」
虹を見るたび、この約束を思い出すのです。華南の街から、友人の「老家(中国語でlaojia/ふるさとのこと)」に連れて行ってもらう時にも、この虹が見えました。じつに大掛かりな虹でした。
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先日、歴史家でジャーナリストだった半藤一利さんが、惜しまれて亡くなられました。この方を、先日のNHKのラジオ放送で、保坂正康さんが、『ベルリンの壁が崩壊した直後に、半藤さんがそこを訪ねて、その崩れ落ちた壁の前で踊ったのです!』と語っておいででした。そんな多くの人の前で、自然な振る舞いのできた日本人って、珍しいなあと思って聞いていました。
その談話の中で、亡くなられる前に、『墨子って偉いなあ!』と、半藤夫人に語ったそうで、それが最後の言葉だったそうです。中国の戦国春秋の時代に、「諸子百家」と言う学者たちがいて、孔子や老子が有名ですか、その中に、「墨子」と呼ばれた方がいました。
墨子は、名を「翟(てき)」と言ったそうで、その姓や親の職業などは不明です。墨子の「墨」が姓であったかどうかも定かではなく、一説では、墨子は、手工業者の奴隷出身ではないだろうかと思われていました。当時の手工業者の中には、奴隷出身の者が多く、その逃亡防止のため、奴隷はみな「入墨」をされていました。それで、他人から墨者と言われ、それが姓になったのだという説がありますが、事実は分かりません。
この人は、社会に奉仕するために、頭は罪人のように丸刈りにしており、冠もかぶらず、素足で歩いていたと伝えられています。その生活ぶりは一般庶民とすこしも変わらないで、質素で倹約を旨としていたそうです。私の丸刈りは、第一回目の腱板断裂手術後に、同じ病室にいた同じ年齢で、故郷が沢違いの村の出身の病友が、大怪我で入院されてて、意気投合した私は、看護師さんに彼が丸刈りにされたので、一緒にしてもらって以来なのです。
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さて、この墨子の特徴は、戦争のない平和な時代を迎えるために、武器を開発し、それを利用して小国を支援したことです。戦争をしかけてくる大国に対抗した人だったそうです。大国主義、強大な国家建設を掲げる人たちの多い時代に、平和主義者だったのでしょう。
墨子に感化された半藤さんは、少年期の悲惨な戦争で、燃え広がる東京の向島で、街が延焼し、人が亡くなっていく様子を目撃していました。この方の世代は、戦争被害の恐ろしさを実体験され、真に恐ろしさをご存知なのです。そんな経験から、墨子の思想や生き方や在り方に意気投合したのでしょうか、大国主義、覇権国家を目指す様な考えを持たない平和主義者でした。
「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。(ルカ2章14節)」
何年も前に、父の世代の方とお話をしていて、戦争が始まった頃の世相に、この頃の世相が似ていると嘆いていたのを思い出します。戦争を直接知らない世代が、軍事的な強い国を目指している動きを、この方は嘆いておいででした。『地の上に平和を!』と願い、戦争しないで済むことを考えるのが、先決に違いありません。自分の過ごして来た時代は、戦争を避けられたのですが、これから孫たちの時代はどうなることでしょうか。平和であるのを願う朝です。
(ベルリンの壁が崩された時の様子です)
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「兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。(1ヨハネ3章15節)」
あるアメリカの動物園に、〈一番こわい動物〉という案内が掲げられた檻がありました。恐ろしい猛獣、怪獣が何か興味津々で、その檻を覗いたら、鏡があって、そこに見学者の顔が映っていたそうです。腹を立てるよりも、事実、あらゆる動物の中で、人間ほど怖い生き物はいないのは、当を得たことでうなずいてしまいます。
確かに人間は、そこまで悪くなれるのかと震えるほどの怖さがあります。おびただしい人を殺した政治指導者、独裁者、虐殺者として名が挙げられるのは、ドイツのヒトラー、旧ソ連のスターリン、中華人民共和国の毛沢東、カンボジアのポルポト、ウガンダのアミンです。そこまで人は残忍、冷酷になれるのに震えてしまいます。
百獣の王ライオンは、無目的に襲って、傷付けたりしないのです。その日の家族の食料になる分だけを襲って、捕獲して、子に分けてその日の分に当てるのです。熊が流れの中に入って、遡上する鮭を捕獲するのも同じです。家族を養える分だけ、生きるためにしか襲わないのです。
ところが人間は、恐怖心や憎しみに駆られたり、復讐心に燃えて、人の命を奪います。警察庁によると、殺人の動機には、「怨恨」,「憤怒」,「痴情(のもつれ)」,「けんか・口 論」,「(暴力団)抗争」,「心中目的」,「遊興費欲しさ」,「借金 返済」,「生活苦」などを列挙しています。上記の様なことばがあります。
人を殺す前に、人の心の中にあるものが、使徒ヨハネによって挙げられていて、「憎しみ」だと言っています。ヨハネは、人を憎んだ時に、殺人が始まっていることを言っているのです。心の思いの中で、相手の死を願うほどの「憎しみ」を抱く時に、すでに殺人を犯しているのです。
ずる賢いのも人間でしょうか。罪を犯したのは事実なのに、『私の〈未熟さ〉が、そんなことをさせたと!』 と、自分の責任ではないかの様に誤魔化し、全く筋違いなことを言っている輩がよくいます。微塵も罪の呵責がないのです。警察がいるのは、そんな言い訳が効かないからです。流行りの詐欺だって、性差別も、人種差別も、人の命の尊厳を阻害する〈殺人行為〉に違いありません。
(世界最古のオーストリアのウイーンにある「シェーンブル動物園」です)
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昨晩十一時過ぎに、マグニチュード7.3の地震がありました。東日本大震災に余震という見方をしていて、ここ栃木南部は、〈震度5強〉でした。長く強かったのですが、棚からもにが落下することはありませんでしたし、停電もありませんでした。寝しなの地震でしたこの土地の年寄りの弁ですと、『強い岩盤の上に街ができてるので、これまで地震被害がなかった!』と聞いています。
怖いもの地震、雷、火事、コロナの今、ベッドから飛び上がって降りてしまいました。関東大震災者の経験をした父は、『準、玄関と窓を開けろ!』と、強い調子で大声を出していました。退路を確保する知恵でしょうか。不肖の三男は、カーテンを開けて、近所の様子を見るのみでした。玄関は、鉄の頑丈な門扉ですから、歪んだら出られなくなるので、これからは、玄関開放に努めます。
すぐに、次男、若いお母さん、長男の順で、『大丈夫?』と心配してくれました。今日は日曜日、素敵な日であります様に、心から祝福します。
(近所の方から家内がいただいたピンクの椿です)
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「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。(イザヤ53章3節)」
明治8年4月に「勲章従軍記章制定ノ件」が公布され、私たちの国の勲章制度が始められていると言われています。国に貢献し、功績を挙げた人たちを表彰するためでした
私が中高と学んだ学校は、大正デモクラシーの動きの中で誕生した、穏やかな校風の私学でした。この母校の記念誌が刊行された時に、その巻頭に、設立者で校長の写真が載っていました。なんと、胸いっぱいに、数え切れないほどの「勲章」を下げておいででした。ご自分でそうされたのか、家族か学校の役員に勧められたのか、まさに〈勲章男〉でした。
〈教育者と勲章〉は不釣り合いの感じがして、ページをすぐに閉じてしまいました。私も教育者の端くれでしたから、教師の勲章は、錦糸銀糸の紐のついたメタルではなく、《教え子》ではないかと信じていたのです。社会の中で、家庭人として、職業人として、目立たなくてもよい、一市民として謙虚に生きていることだと思っていました。ですから、〈勲章の校長〉は、とても意外でした。
私の霊的な恩師たちは、『金と名誉と異性を求めるな!』と、口を酸っぱくして教えてくれました。そんな誘惑に負けそうな私の弱い資質を見抜いたからかも知れません。としますと、『名誉や勲章を求めずに生きよう!』と願ったのでしょう。
若い頃の父の写った、父の親族との集合写真の中に、帝国海軍の軍人がいて、この方も勲章男でした。どうも軍人も、二十一世紀の政治家も、勲章を得た誇りを大切にしたいのかも知れません。『俺は、この国に、この団体に貢献したんだ!』という自慢(中国語は〈自誇zikua〉)の表明なので、名誉職を求めてやまないのです。
五十年以上、この私が従い仕えて来たお方は、蔑まれ除け者にされたお方でした。一冊の本も著すことなく、高き座を求めず、王冠も勲章も与えられませんでした。かえって十字架で刑死され、他人の墓に葬られたお方です。でもその墓を破り、死を破り、蘇られたのです。今、創造の神の右の座に着座され、信じる者を執り成し、助け主である聖霊を遣わされ、信じる者を迎える場を設け、やがて迎えに来てくださるお方だと、不信心だった私は信じられたのです。
この分だと、勲章はおろか、ビールの蓋の偽勲章でさえも、私は貰えることなく終わることでしょう。でも《神国の市民権》を得たことは、言葉では言い表せない喜びで、今朝も心が溢れています。
(” photoAC “ の「毛嵐〈けあらし〉」です)
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今年は、関東地方では、2月4日に「春一番」が吹いたとニュースが報じていました。コロナ旋風のただ中に、いつもよりも早い春の到来でした。その後は朝晩マイナスの気温で、ちょっと宣言が早過ぎていないかな、と思わされています。
次女が生まれた年に、よく聞こえて来たのが、作詞と作曲が穂口雄右、キャンディーズが歌った「春一番」でした。
1 雪がとけて川になって 流れて行きます
つくしの子が恥ずかしげに 顔を出します
もうすぐ春ですねえ
ちょっと気取ってみませんか
風が吹いて暖かさを 運んできました
どこかの子が隣の子を 迎えにきました
もうすぐ春ですねえ
彼を誘ってみませんか
泣いてばかりいたって 幸せはこないから
重いコートぬいで 出かけませんか
もうすぐ春ですねえ 恋をしてみませんか
2 日だまりには雀たちが 楽しそうです
雪をはねて猫柳が 顔を出します
もうすぐ春ですねえ
ちょっと気取ってみませんか
おしゃれをして男の子が 出かけて行きます
水をけってカエルの子が 泳いで行きます
もうすぐ春ですねえ
彼を誘ってみませんか
別れ話したのは 去年のことでしたね
ひとつ大人になって 忘れませんか
もうすぐ春ですねえ 恋をしてみませんか
雪がとけて川になって 流れて行きます
つくしの子が恥ずかしげに 顔を出します
もうすぐ春ですねえ
ちょっと気取ってみませんか
別れ話したのは 去年のことでしたね
ひとつ大人になって 忘れませんか
もうすぐ春ですねえ 恋をしてみませんか
もうすぐ春ですねえ 恋をしてみませんか
日本には「四季」があり、けっこうはっきりした季節感の特徴があります。春には、その季節季節の象徴があって、春には桜の開花の時期に「入学式」があって、4人の子どもたちの入園式や入学式の思い出があります。いつからいつまでが、その捉え方が様々にある様です。
「暦」の上では、一年は冬の一月から始まるのですが、春夏秋冬の順に並んでいます。
「季節の色分け」ですと、春は〈青〉、夏は〈朱〉、秋は〈白〉、冬は〈黒〉と四色に配列されて、青春、朱夏、白秋、黒冬と言っています。
「文学の世界」では、「春」は〈立春〉から〈立夏〉の前日までを言います。
「気象学」では、三月・四月・五月を春と言います。
「太陰暦」では、一月・二月・三月が春です。
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中国では、毎年違うのですが、2021年は、今日、二月十二日を「春節」と呼んで、一年の始まりとしていて、西洋暦とは違う陰暦での正月を大事にしています。滞華中、一月一日は学校や官庁は休みですが、格別に正月気分はありませんでした。でも気分的にも、行事的にも、「春節」が中華圏では「正月」なのです。
中国のみなさんの「春節」への思い入れの大きさや強さに触れて、まさに『もうすぐ春です!』と言う、酷寒の冬が終わり、万物が芽吹く季節の到来への期待が、ものすごく大きいのを感じたのです。『美味しい物が食べられる!』、『晴れ着が着られる!』、『家族親族が帰って来て集まる!』、『お年玉をもらえる!』と言う待望が、心だけではなく、街に溢れていたのを思い出します。
戦争があっても、革命があっても、祝われて来た「春節」なのですが。今年は行動制限、不要不急の外出の自粛、会食の禁止などで、寂しい「春節」を迎えておいでなのでしょう。街々村々では、炸裂する爆竹や花火、あの火薬の匂いがあふれているのでしょうか。足元で追い立てられる様に弾いていた爆竹の音が懐かしく思い出されてまいります。
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「モアブは若い時から安らかであった。彼はぶどう酒のかすの上にじっとたまっていて、器から器へあけられたこともなく、捕囚として連れて行かれたこともなかった。それゆえ、その味はそのまま残り、かおりも変わらなかった。 (エレミヤ48章11節)」
恩師が、ある時、主の家の奉仕をしてる私たちの交流会で、次の様に言いました。『あなた方、” mature “ な経験のある人は、若い人に奉仕の責任を譲って、新しい任地に出て行きなさい!』と挑戦したのです。また、実業界で働いてきた私のすぐ上の兄も、自分の城を大きくしたりしないで、責任を他の人に任せて、新しい働きを始める勧めをしていたのです。
私は、そう言った勧めを聞いて、私たちの仕えてる奉仕は、そう言ったものだと理解したのです。多くの人を集めて、人に褒められる様な働きを誇示する誘惑から出て、新しい一歩を取る様に機会が開くのを待っていました。
居心地のよい〈安定の城〉の中に留まり続けて、別の器にあけられることなくて、葡萄酒が芳醇さを失ってしまう様に、ある方たちの奉仕も、そうなってしまう様子を何度もみてきたからです。それで、宣教師から受け継いだ奉仕の機会を、他に譲ろうと、心に決めたのです。イスラエルの葡萄の醸造の過程では、器から器へあけられたようです。
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私は日本が侵略した過去を持つ国に出掛けたい思いを抱いたのです。中国の四都市を訪問した私は、一つの街で、一人の方と出会って、家に食事に招かれました。その方が、『中国においでください!』とおっしゃったのです。それ以来、ちょくちょく、その言葉が思い起こされたのです。そうすると恩師の挑戦が思い起こされてきては、時の到来を待ったのです。すると、次のみことばが強く迫ってきたのです。
「わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄(中国語訳も英欽定訳も《平和》です)を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから。(エレミヤ書 29章7節)」
それを “ go sigh “ として出掛けたのです。まさに、器から器に移されたかの様に思えたのです。それで天津で一年間漢語を学び、父が若い日に過ごした東北地方に行くのを考えていましたら、長男の友人で華南の街の方が、招いてくれて、その街に行き、そこで12年を過ごすことになった次第です。実に素敵な年月でしたが、家内が病んだのを契機に帰国を致しました。
その年月は一言では語り尽くせません。時々、” face time “ で、華南のみなさんと交わりを持ちますが、いつも、『あなたたちはいつ戻ってきますか?』と言われます。まさに実の兄弟姉妹の様なみなさんと共に過ごした日々が懐かしくて仕方がありません。東京で新しい事業の準備をされておられる、中国人のご家族がいて、彼の友人父子と、先月は、マスク姿で見舞ってくれました。
あの日の決断は、自分勝手な願いによるものではなく、一歩一歩の導きがあったと、今になって思うのです。かつての敵国からやって来た老夫婦が、一緒に座し、共に聖餐に預かり、声を合わせて賛美を歌い、説教をし、そんな交わりをした年月は、主に導かれたものでした。器にあけられ、カスが除かれたからできた日々だったに違いありません。
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