5時の虹

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 雨上がりの昨日の夕方、西から晴れ間が見え、おあつらえ向きの虹の出る状況で、東の空を見上げると、半円形の虹がくっきりと見えました。よく見ると、その外側に、もう一つが見え《二重虹》でした。なにか得したように思って、小朋友に電話したのですが、通じませんでした。創造の美に感動して欲しかったからです。

 現代人は、地上と地上に起こっていることばかりに目を向けて、神々しい天然に、目を向け、心を溢れさせることをしなくなっている様です。ノアの洪水の後に、次の様に、神はノアに語られました。

 「わたしとあなたがた、およびあなたがたといっしょにいるすべての生き物との間に、わたしが代々永遠にわたって結ぶ契約のしるしは、これである。わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現れる。わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。」(創世記9章12~16節)」

 虹を見るたび、この約束を思い出すのです。華南の街から、友人の「老家(中国語でlaojia/ふるさとのこと)」に連れて行ってもらう時にも、この虹が見えました。じつに大掛かりな虹でした。

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平和

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 先日、歴史家でジャーナリストだった半藤一利さんが、惜しまれて亡くなられました。この方を、先日のNHKのラジオ放送で、保坂正康さんが、『ベルリンの壁が崩壊した直後に、半藤さんがそこを訪ねて、その崩れ落ちた壁の前で踊ったのです!』と語っておいででした。そんな多くの人の前で、自然な振る舞いのできた日本人って、珍しいなあと思って聞いていました。

 その談話の中で、亡くなられる前に、『墨子って偉いなあ!』と、半藤夫人に語ったそうで、それが最後の言葉だったそうです。中国の戦国春秋の時代に、「諸子百家」と言う学者たちがいて、孔子や老子が有名ですか、その中に、「墨子」と呼ばれた方がいました。

 墨子は、名を「翟(てき)」と言ったそうで、その姓や親の職業などは不明です。墨子の「墨」が姓であったかどうかも定かではなく、一説では、墨子は、手工業者の奴隷出身ではないだろうかと思われていました。当時の手工業者の中には、奴隷出身の者が多く、その逃亡防止のため、奴隷はみな「入墨」をされていました。それで、他人から墨者と言われ、それが姓になったのだという説がありますが、事実は分かりません。

 この人は、社会に奉仕するために、頭は罪人のように丸刈りにしており、冠もかぶらず、素足で歩いていたと伝えられています。その生活ぶりは一般庶民とすこしも変わらないで、質素で倹約を旨としていたそうです。私の丸刈りは、第一回目の腱板断裂手術後に、同じ病室にいた同じ年齢で、故郷が沢違いの村の出身の病友が、大怪我で入院されてて、意気投合した私は、看護師さんに彼が丸刈りにされたので、一緒にしてもらって以来なのです。
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 さて、この墨子の特徴は、戦争のない平和な時代を迎えるために、武器を開発し、それを利用して小国を支援したことです。戦争をしかけてくる大国に対抗した人だったそうです。大国主義、強大な国家建設を掲げる人たちの多い時代に、平和主義者だったのでしょう。

 墨子に感化された半藤さんは、少年期の悲惨な戦争で、燃え広がる東京の向島で、街が延焼し、人が亡くなっていく様子を目撃していました。この方の世代は、戦争被害の恐ろしさを実体験され、真に恐ろしさをご存知なのです。そんな経験から、墨子の思想や生き方や在り方に意気投合したのでしょうか、大国主義、覇権国家を目指す様な考えを持たない平和主義者でした。

 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。(ルカ2章14節)」

 何年も前に、父の世代の方とお話をしていて、戦争が始まった頃の世相に、この頃の世相が似ていると嘆いていたのを思い出します。戦争を直接知らない世代が、軍事的な強い国を目指している動きを、この方は嘆いておいででした。『地の上に平和を!』と願い、戦争しないで済むことを考えるのが、先決に違いありません。自分の過ごして来た時代は、戦争を避けられたのですが、これから孫たちの時代はどうなることでしょうか。平和であるのを願う朝です。

(ベルリンの壁が崩された時の様子です)

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