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 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ人への手紙8章28節)」

 私たちの国では、月の名を、独特な名称で呼び、記してきました。その中に、「神無月(かんなづき)」と言う月があって、「十月」を言っています。この国には、〈八百万(やおよろず)の神〉がいるそうで、その神々が、十月には、出雲国に召集されてしまうので、日本列島の他の街々村々には、神がいなくなってしまうので、そう名付けたそうです。

 出雲大社に集まった神々が、何をするのかと言いますと、国や国民の繁栄や安寧、それに縁結びや五穀豊穣などを取り決めになるのだそうです。そんな宗教都市で、神々のそんな取り決めをする社のお膝元でありながら、母は婚外子として生まれてしまったのです。とうてい養育できない十代の生母は、子のいない知人夫婦に養女として預けてしまったのです。

 一人っ子だと思っていた母は、貧しいながら幸せに生活していたのですが、お節介な親戚の人から、誕生の真実を知らされてしまいます。それは十代の母には過酷な告知でした。その頃、近所の仲良しから誘われて、カナダ人宣教師が始めた教会に行く様になっていました。そこで、神々ではなく、天地万物を創造され、それを統治される神を知るのです。その神が、「父なる神」だと知って、産みの親に捨てられた母は、本当の神と出会い、その後、九十五歳で帰天するまで、確かな信仰を持ち続けるのです。

 不幸な境遇で生まれる人は多くありますが、それを超えていく力を、母は付与され、何よりも《祈り》を知ったのです。歴史を支配される神に、イエスの御名によって、まさに父親に語る様に、自分の必要を申し上げることができたのは、救いだったのでしょう。お転婆で勝ち気でしたのですが、孤独との闘いは厳しいものだったのでしょう。ふと寂しい表情を、母が見せたこともありました。

 父と出会い、母として四人の子をなして、丈夫に育ててくれたでしょうか。服役もせず、後ろ指を指されずに社会人として、可もなく不可もなく、私たちのは生きる様子を見て、母は満足だったのです。大病を二度も患いながら、父よりも三十年以上も多く生きることができました。

 その母のお陰で、退職後の静かな時を、私たちは生かされています。今あるのは、母によるに違いありません。私たち四人の子の向こう側で、母は、祈り、賛美し、聖書を読み、礼拝を守り、知人や隣人に証をし、パートで働きながら献金に励んで生きていました。父には妻として、四人の子の私たちには母として、神の前には一人のはしためとして生きたのです。
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 こんな出来事があったそうです。十七になった母は、実母が奈良に嫁いでいると言うことを初めて聞いて、飛ぶ様にして訪ねたのです。でも幸せな家庭を築いていて、その幸せを壊して欲しくない母親は、自分を娘として受け入れてくれませんでした。その無念の思いで、そこを去った母を考えると、胸がはち切れそうで、殴ってやりたい衝動に、若い私は駆られたものです。

 その実母が亡くなった時、その死の床の枕の下に、私たち四人の子の写真(それぞれ小中高大でした)があったのです。私たち家族が住んでいた街の写真館で、父に言われて撮った写真が、隠されていたそうです。母が、出雲の親戚に送った写真が、何らかの方法で奈良に送られていたのでしょう。それを知らされた母は、自分が産み落とし、苦労して育てた子たちの写った写真を眺めていた実母を知って、どんなに慰められたことでしょう。

 人生って奇なるものです。でも、母は養育を放棄した母親を赦すことができたのです。そして自分の人生を、運命論で捉えなかったのです。逆境を順境に捉え直させてくださる神に任せたのです。子どもの頃に、母が持っていた古写真の中に、親族の集合写真の、ある顔の部分が引っ掻き消されてある写真がありました。それを見て不思議に思ったことがあったのです。そんな幼い母の辛い思いが分かったのは、私が大人になってからでした。

 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます(使徒行伝16章31節)」

 信仰の継承、五体を父母から受けただけではなく、母の信仰を、父も二人の兄も弟も、私たちの四人の子どもたち、さらには四人の孫たちもが継承できていると言うのは、「すべてのことを働かせて益としてくださる神」の哀れみと恵みの業に違いありません。

(島根県の県の魚の「あご(飛び魚)」、出雲市花の「菊」です)

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