すみません

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Mimosa pudica, a creeping annual or perennial herb of the pea family

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 個性的に生きるよりも、周りのみんなと仲良く生きていきたい日本人が、もっともよく使う言葉があります。『すみません!』です。相手に対しての謝罪の気持ちを表す言葉で使いますし、敬語でもあります。何かをお願いする時にも、ありがとうの思いを込めて感謝する時にも、また家を訪ねた玄関で、玄関に人を呼ぶために、そう言ったりして使っています。

 その語源は「済む」の打ち消しで「ぬ」をつけたもので、丁寧語の『すみません』と言ったりします。でも一番は、事を済ませなかったので、し終わらないことの「謝罪」で使うのです。だいぶ卑下した言葉でもあります。

 社会生活をする上で、この一言を言うか言わないかによって、世間の目は全く違ったものになります。言われた方は、それを聞いて、『すまないと思ってるなら、まあいいか!』と言う気持ちにされて、不問にふしたり、『次からは気をつけてね!』と言ってくれるのです。

 病院の待合室で、看護師さんが、『お待たせしました!』と言いましたら、40ほどの患者が、『すまねえじゃあねえよ、こんなに待たせて!』と、正直な思いを口にしていました。そう言うことが多いからでしょうか、診察前の医師の最初の言葉は、『長らくお待たせしてすみません!』を、『如何でしたか?』を言うよりも、会うなりに言ってます。きっと、そう言う様な話し合いがあっての取り決めなのでしょう。

 ところが、その一言を言わないばかりに、仲間外れにされたり、はたまたは〈村八分〉にあったり、先程の怒れる男の様な目にあいます。ペコペコするのが嫌いな私は、〈事実としての《理由》を言って、へんに詫びないのです。それで謝罪のない人は、人に嫌われてしまいます。

 日本人は、三十の息子の不始末を、親が人々の前で謝罪します。有名な女優の息子が、犯罪に手を染めた時に、マスコミの前で謝罪していたのを見聞きしました。また学校の教師が社会的な犯罪をした後も、校長が、マスコミに前に身を晒して、『すみませんでした!』と、よく言っています。企業犯罪の場合もも同じです。

 それは、世間やマスコミを納得させるために、どうしても必要だとされる一言です。でも、それっておかしいのではないでしょうか。知事や市長になれる年齢なのに、本人の代わりの様にしての謝罪を、母親がするのはおかしいのです。母親の一言に「涙」が添えられるなら、『まあいいか!』を世間から生み出せるのです。

 お隣の韓国など、東アジアでは、どこでもありそうなことですが、島国日本では傑出して多いのです。欧米諸国では、〈個人責任〉で事を収めています。

 〈任命責任〉が問われることがあります。自分の派閥の議員が汚職をしたり、反社会的な行為をしたり、世間を騒がせた時に、派閥の長に求められる〈謝罪〉です。でも、会社の上司が謝罪して、4、5人の会社の幹部が横になって、九十度頭を下げて、『申し訳ありませんでした!』と頭を下げている光景はよく目にしますが、国政の派閥の長がするのは見たことがありません。大人扱いをしてるのでしょうか。

 『あれは、もう大人なのですから、あれに聞いてください!』と言う、成長した社会に、日本がなるのは難しいのでしょうか。少なくとも選挙権を与えられた年齢以降は、個人で謝罪をし、事を収めたらよいのでしょう。折しも、オリンピック委員会の会長が、昨日の女性蔑視の発言に、〈すみませんでした〉をしたと、ニュースが伝えています。それで、辞任は解消になるのです。撤回を即座に受け入れてしまう寛容(?)な社会だからです。

(オジギソウです)

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舟と船

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 バスコダ・ガマなどの航海時代の100年も前のことです。中国は明の時代に、鄭和(ていわ)が、大船団を従えて、見果てぬ海を、アフリカまで航海をしています。福建省泉州に行きました時に、港に古代の巨大な船の残骸が残されていたのを見ました。それは鄭和の船ではなかったのですが、それを彷彿とさせるほど大きかったのです。鄭和の率いた船は、全長130mもの巨大な木造船の船団でした。

 ところが遠洋に出ることができない、わが国の北前船や千石船は、日本の港から港をつなぐ商用船で、京大阪に諸国の米や染料や海産物などを運んだのです。北前船は30mほどの大きさでした。また多くの河川では、「舟運」が行われていて、わが家の脇を流れる巴波川でも、部賀舟でくだり、渡良瀬川の合流地近くで、高瀬舟に荷を載せ替えて、江戸との間を商用が行われていた歴史があります。

 『行きはよいよい帰りは怖い!』で、江戸へは流れを下るので容易でしたが、利根川を上る道も、帆を使ったり、手漕ぎもありましたが、支流に入る脇道を、「網手道」と呼ばれる土手があって、上り舟を、人力で曳いて上がった道で、男衆の大変な労働に支えられていた様です。それでも盛んな舟運が行われていたのです。
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 いつか、ここを浅底の舟に乗って、思川、渡良瀬川、利根川、江戸川を下って、東京湾へ行ってみたいのです。でも河川って、勝手に舟で上ったり下ったりできるのでしょうか。若い頃に、富士川を下ることを考えていたことがありましたが、治水のための堰(せき)があったりで、自然の流れにしたがっては下れないのを確かめて、諦めました。

 さらに華南の街の大きな河川を、小型船で上る計画を、外洋航路の船長をされた方に持ちかけたまま、帰国してしまいました。小さなエンジンをボートにつけたらだいぶ上流まで上れそうでした。池に木っ端を浮かべただけでは満足できない子の幼い日の夢でした。

 上海から蘇州号で、大阪に着く丸二日間の旅は楽しかったのです。飛び魚と競走している様に、大海のど真ん中を行く船旅は、船内に風呂場があって、喫水線あたりに波の飛沫を見ることができ、船風呂を楽しめたのです。あの阿倍仲麻呂には経験できなかった優雅でのんびりな船旅でした。
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 海洋国家の日本は、北前船に見られる様な「廻船(かいせん)」が行われ、江戸期以前は、御朱印船などで海外に出かけることが多かったのです。江戸の前期、山田長政はシャム(今のタイです)に出掛けた人で、ついにはシャムで王にもなっています。その話を子どもの頃に聞いて、冒険心を呼び覚まされたことがありました。
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 “ Covid-19 “ の影響で、外出も旅行もままならない今、海に出て行った人たちのことを思いながら、鄭和や長政や船頭さんたちのことを思ってみると、ちょっと閉塞感が広げられてきそうです。
(鄭和の船団、航路、高瀬舟、北前船、山田長政の乗った船です)

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