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「レビ人のうち、ケハテ族の人口調査を、その氏族ごとに、父祖の家ごとにせよ。それは会見の天幕で務めにつき、仕事をすることのできる三十歳以上五十歳までのすべての者である。(民数記4章2~3節)」
イスラエル民族の宗教の中心は、「幕屋(神殿)」でした。そこで仕える氏族は「レビ人」だったのです。彼らは、神によって選ばれていました。下働きから大祭司まで、人が選んでもいませんし、自ら志願することもできず、神よって選任されていたのです。さらに幕屋の建設も設営秩序も、一切のことが、細かく、神にって定められていました。
その奉仕者のレビ人には、「仕事をすることのできる年齢」の規定がありました。当時と現代とでは、人の寿命や余命は比べることができませんが、三十歳から五十歳までの二十年間に決められていたのです。それが適正な年齢枠だったのです。わが国では一般的に「六十歳定年」が定められていますが、最近では定年延長の動きがあります。
創造の神が、人と会われる会見の幕屋での奉仕は、容易なことではありませんでした。加齢によっての粗相のない様に年齢が定められていたのかも知れません。現代の一般社会でも、自営業の世界は違いますが、私たちの国では、公務員も、会社員も、団体職員も、ほぼ60歳で定年退職をします。
まあ十分に働いて来て、子育ても終わり、社会的な責任も、後進に譲るには、肉体的にも精神的にも社会的にも、よい年齢なのかも知れません。年配の国会議員が、議事堂で居眠りをしている写真が出回っていますが、長時間にわたる議事、重大な案件の決定など、もう無理なのでしょう。
「わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄(平和)を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄(平和)は、あなたがたの繁栄(平和)になるのだから。(エレミヤ29章7節)」
まだ余力のある間に、課せられた職を、潔く後進に譲るべきです。私も、四十代で、恩師の勧めもあって、次の奉仕への思いを抱きつつ、時節の到来をを待っていました。やっと61歳で職を辞しました。怪我をしてしまったので一年超過したのですが、後進に譲って、新しい地に出たのです。私の願いは、残された日を、父の世代の過ちの償いに当てようとしました。それは主の御心であったと信じたのです。そうしましたら、大陸中国への扉が一つ一つ開いたのです。
戦前戦中、軍需産業の一翼を担った父は、爆撃機や特攻機の製造に関わりました。私が過ごしました華南の街には、「5000年の歴史」の中に日本軍による攻撃の記録も、大きな河川の壁に、石工の手で石板に刻まれていました。その街で出会った方が案内してくださって、あの戦争の戦時下の事実を知らされたのです。
その隣街には、旧日本軍の航空隊があって、その飛行場から、日本軍の爆撃機が、中国各地に攻撃を仕掛け、建物を焼失し、多くの命を奪っていました。その石板には、爆撃されて亡くなられた、その街の方の数も刻まれていたのです。まさに父が関わった爆撃機の仕業だったわけです。
教壇に立ち、講壇に立っても、過去の謝罪を私がしますと、『あなたの責任ではありません。あなたの前の世代の過ちですから、あなたは謝る責任はありません!』と言ってくださる方が多くいらっしゃいました。でも、日本軍の軍需産業の責任者として、父は俸給を軍、政府からもらっていて、それで産着や布団やミルクを、私はあてがわれていたのです。
そんな思いで、住んだ街の「平和」を祈りながら、過ごした大陸での13年は、私の《人生双六》の上がりだったと、今思うのです。もう少しの命を、北関東の歴史ある街で、過ぎた日を思い起こしながら、これからの日をワクワクした思いで迎えたいと念じています。体は、年相応に弱くなってきていますが、心の思いはまだ強いかなと思っております。
(イスラエル共和国の国花の「アネモネ」です)
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