上杉のお殿さま

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 《一度訪ねて見たい街》があります。その一つは、蔵王山で有名な米沢(山形県)です。スキーをしたり、美味しい米沢牛を食べたいからでもありません。もちろんスキーが出来て、米沢牛にステーキを食べられたら好いのですが。若い頃に読んで感動した本がありまして、その本の中で、旧米沢藩の藩主・上杉鷹山のことに触れてあって、その高潔な人格に心が揺すぶられたからです。その鷹山が治世をし、生涯を過ごした街に行ってみたいのです。

 内村鑑三が、「代表的日本人」として、西郷隆盛、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮と、この上杉鷹山の五人の歴史上の人物を取り上げて、紹介しているのです。内村は、1906年に、アメリカのニューヨークで、“Japan and The Japanese” と言う題で、英語で書きました一冊の本を出版しています。鎖国を打ち破って、国際社会に参入して行く中で、日本と日本人を、欧米人に知らせようとしたのです。と言うよりは、自らの「日本人としてのアイデンティティー(日本人像)」を明確にしたかったのだと評されております。

 鎌倉時代の日蓮以外の他の四人は、徳川幕藩体制下に生きた人でした。私が感じ入った上杉鷹山は、藩財政に逼迫していた米沢藩を、建て直すために善政を行った稀代の藩主でした。1751年に、九州の日向高鍋藩主・秋月種美の次男として、江戸藩邸で生まれています。十歳で、出羽国米沢藩の幸姫の婿養子となって、第九代の米沢藩主となっています。
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 奥方の幸姫は、発達障害を持っていて30歳で亡くなっています。この方は、妻のために雛人形を自ら作って上げたりして、生涯変わることなく愛し続けたのです。子を設けることがができなかったので、世継ぎの子を得るために、側室を持ちます。しかもただ一人、自分より十歳も上の女性を得て、子をなすのです。

 また藩改革の中で、特異なことを行っています。藩内の遊郭を取り潰したのです。遊郭がなくなれば、欲情のはけ口がなくなり、もっと凶悪な方法で社会の風紀が脅かされるという反対がありました。でも、鷹山は『欲情が公娼によって鎮められるならば、公娼はいくらあっても足りない。』と言い切ったのです。実際、廃止しても領内には何の不都合も生じませんでした。

 この鷹山の葬儀の日、その死を悲しみ惜しむ人々の弔問の列が、米沢の街に途切れることがなかったそうです。「蓋棺自定(がいかんじてい)」、人は死して、その徳が正しく評価されるのですが、鷹山は、農民にも慕われた名君だったのです。この街を訪ね、米沢ラーメンを食べたら、そんな息吹を感じられるのでしょうか。米沢気質に触れてみたいものです。

(米沢城と市花の東石楠花〈アズマシャクナゲ〉です)

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