野の花の如く

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 「なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。(マタイの福音書6章28~30節)」

 私たちの国には、〈無我夢中〉な時代がありました。封建徳川が終わって、明治維新政府は、大きな遅れを取り返す様にして、「富国強兵」を貪欲に推し進めようとしました。そのために欧米諸国から様々な分野の技術者を雇い入れ、また多くの人材を西欧諸国に送り出して、学ばせました。

 結局は、その貪欲な覇権国家を作り上げようとした日本大国主義による国家建設は、「無条件降伏」で終わりました。国際社会に伍そうとしたのは、産業や軍事ばかりではありませんでした。住み良い国を作ろうとした人たちが、多くいました。貧困や差別をなくそうとして「社会改良」をしていこうとしたのです。

 戦前は、社会改良は、社会主義や共産主義を奉じる者のすることであって、国の発展を大きく損なう者たちが企てていることの様に考えられて、思想統制をし、その働きを弾圧しました。私の恩師は、優しい方で、社会の弱者に目を向け、貧しい人や心身に不自由を覚えている人たちが、幸せになり、生きる歓びを持てる様に願っていた方でした。

 この恩師が、『野の花の如く!』という一筆をしたためた色紙に、野花のスケッチも添えて、卒業して行く私にくださいました。恩師の願う社会改良が、国策に合わないとの理由で、監獄に収監されました。その監獄で拷問を受けたせいでしょうか、お身体が虚弱で脚が不自由でした。でもその目は優しく輝いていました。私は、野に咲く名のない花の様に、咲いて生き様と決心したのです。

 その独房の窓から、飛ぶ鳥を見、囀る鳥の声を聴き、獄の隙間から、わずかな土に咲く花を眺めたのでしょう。その境遇を神の御手から受け、天然自然に慰められ、励まされて生き延び、戦争が終わって解放され、教壇に戻ったのです。そして私たちに多くのことを教えてくださいました。

 この恩師と雰囲気の似た方に、その後お会いしたのです。神学校で長く教えてこられ、その師の最終講義を聴かせていただきました。どんなことを話されるのか、興味津々で聞き耳を立てたのです。師が開いたのは、「申命記」でした。
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 「隣人に何かを貸すときに、担保を取るため、その家に入ってはならない。
あなたは外に立っていなければならない。あなたが貸そうとするその人が、外にいるあなたのところに、担保を持って出て来なければならない。
もしその人が貧しい人である場合は、その担保を取ったままで寝てはならない。
日没のころには、その担保を必ず返さなければならない。彼は、自分の着物を着て寝るなら、あなたを祝福するであろう。また、それはあなたの神、主の前に、あなたの義となる。
貧しく困窮している雇い人は、あなたの同胞でも、あなたの地で、あなたの町囲みのうちにいる在留異国人でも、しいたげてはならない。
彼は貧しく、それに期待をかけているから、彼の賃金は、その日のうちに、日没前に、支払わなければならない。彼があなたのことを主に訴え、あなたがとがめを受けることがないように。
父親が子どものために殺されてはならない。子どもが父親のために殺されてはならない。人が殺されるのは、自分の罪のためでなければならない。
在留異国人や、みなしごの権利を侵してはならない。やもめの着物を質に取ってはならない。
思い起こしなさい。あなたがエジプトで奴隷であったことを。そしてあなたの神、主が、そこからあなたを贖い出されたことを。だから、私はあなたにこのことをせよと命じる。
あなたが畑で穀物の刈り入れをして、束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。
あなたがオリーブの実を打ち落とすときは、後になってまた枝を打ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。
ぶどう畑のぶどうを収穫するときは、後になってまたそれを摘み取ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。
あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったことを思い出しなさい。だから、私はあなたにこのことをせよと命じる。
(申命記 24章10~22節)」
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 これは《弱者救済の規定》です。生きる手段を持たない、持つことのない人たちを虐げることを禁止し、優しく彼らに接し、共に生きる様にとの勧めです。イスラエルの神、天地万物の創造と統治の神は、社会的弱者に心を向け、手を差し伸べる神だと講じたのです。

 旧約神学の研究者で、長く研究と教授をされてこられた方ですから、終講には深遠な神学論を話されるのだとばかり思っていましたが、この世で忘れられ、疎んぜられている人たちに心を延べ、手を伸べる神さまをお話になられて、驚いてしまいました。神学とは、こう言うことだと諭されたのです。それで、この師の様な思考の奉仕者、説教者になりたいと心に念じたのです。

(野の花、アメリカのある風景、オオアマナ〈べ

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