舟と船

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 バスコダ・ガマなどの航海時代の100年も前のことです。中国は明の時代に、鄭和(ていわ)が、大船団を従えて、見果てぬ海を、アフリカまで航海をしています。福建省泉州に行きました時に、港に古代の巨大な船の残骸が残されていたのを見ました。それは鄭和の船ではなかったのですが、それを彷彿とさせるほど大きかったのです。鄭和の率いた船は、全長130mもの巨大な木造船の船団でした。

 ところが遠洋に出ることができない、わが国の北前船や千石船は、日本の港から港をつなぐ商用船で、京大阪に諸国の米や染料や海産物などを運んだのです。北前船は30mほどの大きさでした。また多くの河川では、「舟運」が行われていて、わが家の脇を流れる巴波川でも、部賀舟でくだり、渡良瀬川の合流地近くで、高瀬舟に荷を載せ替えて、江戸との間を商用が行われていた歴史があります。

 『行きはよいよい帰りは怖い!』で、江戸へは流れを下るので容易でしたが、利根川を上る道も、帆を使ったり、手漕ぎもありましたが、支流に入る脇道を、「網手道」と呼ばれる土手があって、上り舟を、人力で曳いて上がった道で、男衆の大変な労働に支えられていた様です。それでも盛んな舟運が行われていたのです。
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 いつか、ここを浅底の舟に乗って、思川、渡良瀬川、利根川、江戸川を下って、東京湾へ行ってみたいのです。でも河川って、勝手に舟で上ったり下ったりできるのでしょうか。若い頃に、富士川を下ることを考えていたことがありましたが、治水のための堰(せき)があったりで、自然の流れにしたがっては下れないのを確かめて、諦めました。

 さらに華南の街の大きな河川を、小型船で上る計画を、外洋航路の船長をされた方に持ちかけたまま、帰国してしまいました。小さなエンジンをボートにつけたらだいぶ上流まで上れそうでした。池に木っ端を浮かべただけでは満足できない子の幼い日の夢でした。

 上海から蘇州号で、大阪に着く丸二日間の旅は楽しかったのです。飛び魚と競走している様に、大海のど真ん中を行く船旅は、船内に風呂場があって、喫水線あたりに波の飛沫を見ることができ、船風呂を楽しめたのです。あの阿倍仲麻呂には経験できなかった優雅でのんびりな船旅でした。
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 海洋国家の日本は、北前船に見られる様な「廻船(かいせん)」が行われ、江戸期以前は、御朱印船などで海外に出かけることが多かったのです。江戸の前期、山田長政はシャム(今のタイです)に出掛けた人で、ついにはシャムで王にもなっています。その話を子どもの頃に聞いて、冒険心を呼び覚まされたことがありました。
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 “ Covid-19 “ の影響で、外出も旅行もままならない今、海に出て行った人たちのことを思いながら、鄭和や長政や船頭さんたちのことを思ってみると、ちょっと閉塞感が広げられてきそうです。
(鄭和の船団、航路、高瀬舟、北前船、山田長政の乗った船です)

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