誰に何を

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 『誰に聞き、何を読み、如何(どう)情報を得るか?』、これらに注意する必要があります。これは博学以上のことです。《聞き》、《読み》、《得る》を教えられて今日まで、私は生きてきたのです。怪情報、作為的な勧め、悪意に満ちた曲解が、今も私たちの周りに溢れているからです、誰もが自分の意見を発信できる機会が得られるのは、言論統制のあった昔に比べるなら驚くべき自由と特権です。でも様々な分野に騒ぎと混乱を起こして大衆操作をし、惑わす様な時代が、またやって来そうです。

 戦時中に、軍部の発信する情報を、私たちの父たちの世代は鵜呑みにさせられてしまいました。各新聞社の情報の流布の功罪、その罪は、実に大きかったのを忘れてはなりません。真実を伝えるという使命に命をかけて始まった情報機能が、強権に追い迫らて節を曲げて利用されてしまったわけです。この時代でも、ある団体や個人の都合で、押し曲げられた情報が多く発信されているのではないでしょうか。

 私たちは、長く時間を経て、《正統》と認知されてきた教えに留まるべきです。それは真理を曲げず、取り除かず、また付け加えずに、試され、闘われて、錬られて、正当性や基本性が証明された教えだからです。ところが、懐疑的な立場から「斬新な教え」、「画期的な教え」との触れ込みで、長い年月に亘って、試されて叩かれて純化された教えに、混ぜ物を加え、小さな故意の解釈をこじ付けをして、まるで〈化粧00直し〉の様にして登場し、古い教えとして認知されたものを、否定や訂正してしまい、若い未熟な世代を惑わす教えが流布されています。

 とくに〈新しい教え〉や〈啓示的な教え〉に、人は弱いのです。私のアンテナは、けっこう敏感に、耳触りの良さの中に、隠された〈おかしさ〉を検知してしまうのです。そして小さな綻(ほころび)が、全体を崩れ落ちさせてしまうのに気付いてしまいます。

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 エルサレムの城壁に、「ミロ」と言われる部分がありました。そこから敵が這い上って来るので、どうしてもその破れ口を補修する必要があったそうです。私たちの心にも、思考にも、人生そのものにも、隠された小さな罅(ひび)、見付けづらい裂け目があったら、それを早期に《修復》する必要があります。そこから不義、不正の教えが侵入してくるからです。例えば、欠陥や不足、劣等感や苦味、赦せない思いをたどって、核心が崩されてしまうのです。

 さらには世に公にされた非常識な人、性倒錯者、道徳感の欠けた人、不正な金銭感覚の人、醜聞のある人、曲解する様な者の意見や教えは聞くことを私はしません。引用もしません。おかしさが分かった時点で、そう処してきました。今日日のコロナ情報も終末情報も錯綜しています。私の愛読書に、次の様にあります。

 『良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる」とシオンに言う者の足は。 (イザヤ書52章7節)』

 「良い知らせ」は、不変、不動、生命横溢、将来安泰、善意、平和の告知です。人を励まし、生かし、再生します。人の情報には、不純なものがありますが、造物主からの情報だけが、確かです。このお方から啓示を受けた人の語る言葉にだけを聞く様に、教えられ学んできたからです。私の愛読書に、『真理を買え。それを売ってはならない。知恵と訓戒と悟りも。 (箴言23章23節)』とあります。売ってしまわないで買えと言う勧めです。

(エルサレムです)

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