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先週の土曜日の晩、11時過ぎに、東日本大震災を思い出させる様な、地震の揺れを感じた私は、一瞬驚き起きました。広範囲に被害が出たそうです。でも津波被害がなかったことを喜んでいます。あの大地震の余震ではないかと言われ、今後、土曜日の晩の余震も続くとニュースが伝えています。
"3.11"の時には、家内の入院手術を前にした時で,息子の家の二階にいて、大きく揺れ、広い場所に出ようと、近くのCOOPの駐車場に行きました。まだ、電線が大きく揺れていて、本物の地震を初めて身に感じたのです。
お隣の国から帰国して2年、地震国の日本を感じながら、時々揺すぶられていますが、長く住んだ華南の街では、ただ一度だけ、台湾での地震を感じたことがありました。7階の友人の家で、夕食に招かれてた時だったでしょうか。
あの"3.11"の地震では、津波の被害に驚かされたのです。北上川だったでしょうか、その川を遡上していく津波が、ヘリコプターから捉えられていて、テレビで放映されていました。畑も家も車もなぎ倒して、呑み込んでいくのです。
その威力の凄さに、私は息を呑み込ました。上空からは見下ろせても、川の周辺の地上にいる人は誰も、その遡上に気付いていないのです。危機を予測できても、どうすることもできない自分が、何か申し訳ない思いにされてしまいました。” ヤマサ醤油 “ のサイトに、「稲村の火」の次の様な記事があります。
『1854年(安政元年)11月4日、5日の2回にわたって襲った南海の大地震に際し、偶然故郷の紀州・広村(現在の広川町)に戻っていた梧陵は、海水の干き方、井戸水の急退などにより、大津波が来ることを予期しました。梧陵は村民を避難させるため、田圃に積んであった収穫された稲束(稲むら)に火を投じて急を知らせ、村民の命を救ったといいます。この行為に感動した明治の文豪・ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、「仏の畠の中の落穂拾い」という短編集の中で、‘A Living God(生ける神)’として梧陵を紹介しています。のちにこれをもとにして、小学校教師であった中井常蔵氏が著した物語「稲むらの火」は、昭和12年から昭和22年まで国定の小学国語読本に採用されました。』
この物語は、史実とは違うそうですが、「防災の逸話」としては意味がありそうです。茨城も津波被害にあって、次兄と弟とその孫と一緒に、津波の被害を見ておきたくて出掛けたことがありました。近くの海岸の枯れた葦の間に、倒れた墓石が、津波の衝撃を物語っていたのです。
その茨城の五浦(いずら)には、岡倉天心や横山大観の別荘や教室があった地です。そこに彼らが、今後の日本の美術に思いを向けた「六角堂」という由緒ある記念物もありました(津波にさらわれて再建されてありました)。大観の別荘を移築した室を持つホテルがあって、弟の教え子が、そこの女将で、泊めていただきました。
あの地震、津波、原発崩壊などの災害は、人によって生き方に変化を与えた様です。有名な歌人は、原発の放射線被害の影響を避けて、東京を引き払って沖縄に転居したと聞きました。安全なところで子育てをしたかったからです。一方では、長く封鎖され、今は解除された南相馬市に転居して行った、「JR上野駅公園口」で全米図書賞翻訳部門受賞した小説家の柳美里(りゅうみり)がいます。津波や放射能の被害者を受けた人たちとともに生きるためでしょうか。この方の生き方が潔く感じているのです。
「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。(ピリピ人への手紙2章6~9節)」
人は危機に直面した時に、それを避けて生きるか、危機の只中にいる人と共に生きるか、対照的な生き方の違いがありそうです。罪と汚辱と悪とに満ちた人の世に、神の子が来られて住まわれ、短い生涯の後に、十字架に死なれたのがイエスさまでした。私の罪の受けるべき分を、代わってお受けくださったのです。自分の人生に激震が起きて、生き直すことができて、今の自分があります。
(南相馬に伝わる「野馬追」の行事です)
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