底力

 


これでも、数学や物理の好きな理工系志望の中学生でしたので、大人になったら、建築か土木の世界で仕事をしたかったのです。ところが、いつの間にか方向転換してしまい、机の前に座ったり、黒板の前に立ったりする事務屋や教員の道に入り込んでしまいました。

旧国鉄の東海道新幹線計画や、黒部に発電のダムを建設するプロジェクトが建て上げられた時、日本中が湧いたことがありました。戦後の停滞の中から、一気に起死回生する機運が盛り上がったからです。そういった現場は男の職場で、子どもながら私の血が騒いだのを覚えています。

そういった実績を積み上げた日本の技術が、ODA(政府開発援助/Official Development Assistance)で用いられて、アジアの多くの国々に、道路や空港や港湾やダムや橋梁などの土木建設の事業を展開して来た歴史が、私たちの国にはあります。

例えば、北京空港や上海港湾などの土木建設をした実績があります。諸外国に技術援助もして来たのです。私を驚ろかせたのは、土木建築の資材などの製造技術の高さでした。例えば、今、多くの建設現場で使われている、「ハイテンションボルト(高力ボルト)」です。

これは、橋や鉄骨構造物を建設する際に、金属板や鋼材をつなぎ合わせるために、かつては溶接や、鋲(びょう)を打つリベット接合が一般的だったそうです。ところが、「高力ボルト」は、普通のボルトよりも、はるかに強い力で締め付けられるのです。さらに摩擦力によって「摩擦接合」で鉄骨をつなげられます。強い耐久性があって、引っ張りにも強いのです。団塊世代の退職で、熟練に溶接工がいなくなってしまい、それを補う「高力ボルト」の需要が求められました。

海外の製造のボルトでは太刀打ちのできない優れ物なのです。たかがネジやボルト、されどのネジやボルトを製造して来た日本の技術の高さは誇って好いのです。子どもの頃、近くに旧国鉄の〈保線区〉がありました。鉄路の保守点検作業を担当していた部署です。花形の新幹線も、地方を走る貨物列車も、こういった部署の弛まない忠実な作業があって、事故の少ない運送が行われているwのです。

 

 

遊びに行くと、作業場に入れてくれ、説明までしてくれました。キット、この子たちの将来を考えながら、『国の基幹の事業に携わる様になって欲しい!』という期待も込めて、邪魔者扱いをしないで、道具を触らせてくれたのです。よく手入れがしてあり、作業場は整理整頓されていました。

愚直と思われるほどの《プロ意識》が見られました。学校に行き、アルバイトをした様々な職種の職場には、どこにも《プロフェッショナル》がいました。自分の仕事に誇りを持ち、どうしたら作業効率を上げられるかを、日夜工夫しながら、作業をしていた、たたき上げの人たちがいたのです。あの人たちが、日本の《底力》だったのでしょう。

(黒部ダムに工事現場、ハイテンションボルト、保線作業です)

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9年前

 

 

2010年4月2日は、シンガポールの祝祭日で、仕事の休みの長女が、『自転車に乗りに行こう!』と、家内と私を誘い出してくれました。ヨンギ国際空港の裏手にある駐車場に車を止め、「ウビン島」との間を通う艀(はしけ)に乗り込んで、15分ほどで目的地に到着しました。

ちょうど島に着く頃に、雨が降り出してきたのです。急いで駆け込んだレストランは満員でした。数品を注文して待つこと小一時間、あまりにも遅いので、席を立とうとしたのですが、『それでも・・・』と話し合って間もなく、やっとテーブルに運ばれてきました。味は結構よかったので、きれいに3人で平らげてしまい、心の中の文句は消えてしまいました。

《一台一日5シンガポールドル》の自転車を3台借りて、ジャングルの中にこぎ出したのです。雨の上がった午後、結構涼しく感じられる中を、汗をかきながら起伏のある道を行くのですが、祭日の人気スポットでしたから、手放しで右左を見て行くことはできず、行き交う自転車を避けたり、譲ったりのサイクリングでした。

長女が1才の誕生日を迎えた旅行で、私たち家族(当時は長男が3歳で4人でした)は、家内の兄夫妻に誘われて、一緒にグアムを訪ねていました。私の母も同行していましたが。その時、過ごした島の様子と、ウビン島のジャングルがそっくりでした。匂いにも記憶があるのでしょうか、30数年前の匂いがしてきたので、いっぺんにタイムス・スリップをしたようでした。

家内は天津で乗っていた自転車を、知人に上げてしまってから、その日まで乗ることがありませんでしたから、3年半ぶりの自転車だったようです。いい運動をして、帰りには刺身を切り揃えてくれるレストランで、3種類ほどの刺身に海苔巻きの鮨を数点と味噌汁で夕食を済ませました。美味しく食べた私たちは、家に帰って、しばらくの交わりの後、シャワーを浴びて寝てしまいました。家内、私、そして長女の順でした。

翌朝、散歩に行こうと思って、5時半に起きました。寝しなに、帽子の中に家のカギと小銭とを入れて、机の上に置いて準備していたはずなのに、帽子が見あたらないのです。カギを締めてから出ないわけにいきませんので、20分ほど探したのですが、それでも見つかりませんでした。

それで、『昨日は、自転車に十分乗って疲れたこともあるし・・・!』と心に決めて、また布団に戻って寝てしまったのです。その時、何時も閉まっている長女の部屋の扉が空いていたので、『おゃっ!』と思っていたのですが、そのまま寝てしまい、7時過ぎに起きました。また帽子を探したのですが見当たらない。それで、土曜日でも長女は出勤でしたから、何時ものように味噌汁を温め、コーヒーを挽いて淹れ、ご飯をチンをして、彼女の起きるのを待っていました。

そうしましたら、『お父さん。携帯知らない?』と起きてきた娘が聞くので、ソファーを探したのですが、ありませんでした。そうしたら『カバンもない!』と彼女は言うのです。それで分かりました、小銭とカギの入った帽子も、娘のカバン(査証、カード類、日本円とシンガポール・ドルとアメリカ・ドルの現金、カギ類等在中)、携帯電話、次男にもらったカメラも、寝ている間に侵入してきた盗賊に持っていかれていたのです。

原因は、玄関の鍵を内側から閉め忘れたことにありました。『悔しい!』と思いましたが、命をとられなかったことは不幸中の幸いと思って諦めることにしました。カード等の停止、警察の連絡を、娘は済ませました。在シンガポールの大使館に、査証の紛失届をしようと思いましたが、緊急連絡先は、終にでませんでした。緊急時に連絡の取れない、日本大使館の対応の仕方に、盗賊よりも腹がたちました。

こういった感情はいけないのでしょうか?在留邦人の安全のために大使館員が勤務しているのに、土曜日の朝に連絡を取れない実情に、『何をやってんの?』と思ってしまいました。ところがシンガポール市警は、電話後10分足らずで来てくれたのです。

そうしましたら、どこかの領事が、高額の絵画を何幅も買い込んでいたニュースが思い出されてしまいました。もちろん、カギを掛けないで、泥棒に機会を与えたのですから、『盗まれる方がいけない!』のですが。早速、《シンガポールの犯罪情報》をサイトで見ましたら、少々前の統計で、『強盗事件は日本の4倍位です!』とありました。日本の犯罪率の低さと言うのでしょうか、社会生活の安全、警察の威力などを思って、海外では、『注意!注意!』と心に念じるべきなのでしょうか。

そう言えば、『石川や 浜の真砂は つきるとも 世に盗人の 種はつきまじ』と詠んだのは、《安土桃山のルパン》石川五右衛門でしたね。東南アジアにも彼の子孫がいたのでしょうか?それで、隣りのスーパーで、頑丈な錠前を買ってきて、セットしたのです。そんな9年前の出来事を思い出し、治安の好い日本の生活に感謝したところです。

(ルパン3世です)

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留学

 

 

 フジテレビで、放映された「若者たち」というドキュメンタリー番組を、娘が紹介してくれて、家内と観ました。二人の中国からの留学生の足跡を追ったものです。家内と私は、六十を過ぎてから、天津の国際語学学校、華南の街の大学に留学した経験がありましたので、興味津々で観ました。

 1人は19才の女性の王尓敏さん、もう1人は26才の男性の韓松さんです。1996年に、2人とも日本語学校に通いながら日本の大学受験を目指して来日したのです。王さんは片言の日本語が話せるのですが、韓さんは全く話せません。言葉の通じない国でアルバイトをしながら勉強をしなくてはならないが、バイト先はなかなか見つからず、手持ちの資金は底をつく。

 中国では一流の社会人だった韓さんは、奥さんと子を国に残し、義理の父親からは、『どんなことがあっても成功するまであきらめるな。帰ってはならない!』と言われて来日しました。4畳半のガスコンロだけのアパートで、韓さんは『余りにも現実が違いすぎる。私の父は中国では、共産党の要職の地位にあり、母は学校の先生で、私に会えるだけでも大変なことなのに・・』と呟くほどでした。昼間は日本語学校、夜は皿洗いのアルバイトを2つ掛け持ちし、睡眠時間も3時間ほどの生活が続きました。

 当時の中国では、1ヶ月分の食費代が、日本では1日分ほどでした。韓さんは土日も働きながら勉強を続け、日本語検定1級を取得し義理の父親が勧めてくれた明治大学を、2年経ったら受験するつもりでした。それは、最初で最後、1回限りのチャンスだったのです。妻の反対を押し切り、仕事を辞めてまで日本にやって来ました。刻苦勉励、努力と我慢の末に、ついに明治大学商学部に合格するのです。

 

 

 1996年、成田空港で、持って来た五つの荷物の一部が見つからず、泣き顔でカメラに語っていたのが、19才の王さんでした。彼女は、コンビニと飲食店のバイトをしながら学費と生活費を自分でまかない、1年後に千葉大学に合格するのです。

 合格して、中国に里帰りした時、お父さんは、次の様に王さんのことを話してました。『娘は、何度も国に帰りたいと言いましたが、私は許しませんでした。あの子が本当に一人の人間として生きていけるようになって欲しかったからです。!』

 隣で聞いていたお母さんは泣いていました。5年後の2001年、4年生の王尓敏さんは、日本の企業に就職が内定した。明治大学在学3年の韓さんは、『今、私はどこの国へ行っても生きていける。そして、そのことを妻子や国の人たちに伝えることができる。何故なら、それは私自身がこうして証明しているからだ。・・・来日当初の自分が恥ずかしい!』と回顧してしています(卒業後、三菱重工に就職している様です)。

 私たちの子どもたち四人も、留学をしましたので、同じ様な苦しみと喜びの体験をしたのだろうと思ったのです。留学中の細かなことはみんな語りませんでしたが、涙を流す様な辛い経験も超えて来ているのでしょう。自分たちの前に開いた扉から、自分の人生を生き行くために入って、いまを生きていくためには、それらは貴重な体験であったはずです。

(神田駿河台の明治大学商学部の校舎です)

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若葉

 

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友人が撮影した写真です。若葉をすいて初夏の陽が見えて、なんとも言えず風流です。梅雨入り前に撮影されたのでしょうか、素敵な写真に癒されます。華南の街のわが家は、今では、もう夏の佇まいでしょうが、春先には、同じような様々な薄緑に輝いていたことでしょう。

小区の中が、公園の様に、よく整備されていて、心和んだのです。南側のベランダの近くに植えられた木は、日陰になるように植えられていまして、もう葉が茂っているのでしょう。例年、タネを蒔き、朝顔を、そのベランダで楽しんだのですが、今年は、北関東の家の軒下で、楽しむことにしています。

以前は、この家の庭が綺麗だったそうですが、長く住まない間に荒れてしまって、ちっと残念ですが、刈り込んだ庭木にも枝が伸び、葉が茂ってきています。下草も手鉋(てがんな)で取っています。少し庭らしく再生してきたでしょうか。この一劃がなかなか日本の住居の素晴らしさを表していて素敵なのです。

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昭和

 

 

ここ北関東は、昨日は一日雨でした。関東甲信地方も、やはり梅雨入りしたそうです。英語では、〈梅雨〉を “ East Asian rainy season ” と言うそうです。大正7年9月に、作詞が北原白秋、作曲が弘田龍太郎の「雨」が、「赤い鳥」に発表されました。私の母が、一才半の時でした。梅雨になると思い出される、物悲しい歌です。

1 雨がふります 雨がふる
遊びに行きたし 傘はなし
紅緒(べにお)の木履(かっこ)も 緒が切れた

2 雨がふります 雨がふる
いやでもお家で遊びましょう
千代紙折りましょう 疊みましょう

3 雨がふります 雨がふる
けんけん小雉子(こきじ)が今啼いた
小雉子も寒かろ 寂しかろ

4 雨がふります 雨がふる
お人形寢かせど まだ止まぬ
お線香花火も みな焚(た)いた

5 雨がふります 雨がふる
昼もふるふる 夜もふる
雨がふります 雨がふる

 

 

戦後の昭和26年に、小学校に入学したのですが、当時も、下駄履きで、傘は〈番傘/蛇の目傘〉をさして雨の日は登下校していました。友人の夫人のお母様が長く住んだ家に、私たちは住み始めたのですが、お母様が、お住まいになっていたままの家なので、洗濯機がおかれている脇に、この〈蛇の目傘〉が置かれたままなのです。きっと長く使われ、懐かしくとって置かれたのでしょう。

私も懐かしくて、手にとって開いてみたのです。もう破れてしまっていて、梅雨に入ったのですが、さして使うことはできません。器用に竹細工仕上げなのです。この家の5軒ほど向こうの通り側に、竹細工をされているお店があります。日柄、板の間に座り込んで、初老のご主人が竹細工をしておいでです。今も需要があって卸しておられるのでしょうか。

この辺りには、「昭和の風情」が色濃く残っています。もう閉じられてしまったのですが、幟(のぼり)とかタオルの染物看板を下げた店も、そのまま残っています。隣は、材木置き場で、夫人のおばさんに当たる方が嫁いだ先で、手広く商いをしていたそうですが、今では一箇所に材木が残っていて、閑散とした空き地になっています。この辺りは、かつては賑わっていた名残を、かすかに感じさせてくれます。

(じゃれ合う昭和の子どもたちです)

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憧れと幻

 

 

日本では、桜が咲くと、春の到来を実感させられます。南米などでは「ジャカランダ(紫雲木)」、中国の東北の満州里では、「アゴニカ」が、まさに春を告げる花なのでしょう。中国名で何と言うのか分かりません。作詞が島田芳文、作曲が陸奥明の「満州里小唄(※雪の満州里)」が、昭和16年に発表されました。この歌の中で、「アゴニカ」の花が歌われています。

1 積もる吹雪に 暮れゆく街よ
渡り鳥なら つたえておくれ
風のまにまに シベリアがらす
ここは雪国 満州里(まんちゅうり)

2 暮れりゃ夜風が そぞろに寒い
さあさ燃やそよ ペチカを燃やそ
燃えるペチカに 心も解けて
唄えボルガの 舟唄を

3 凍る大地も 春には解けて
咲くよアゴ二カ(※オゴニカ) 真っ赤に咲いて
明日ののぞみを 語ればいつか
雪はまた降る(※雪も森森) 夜(よ)はしらむ

極北の凍る大地の間だから、顔を出す真っ赤な花が「アゴニカ」、ロシア語の「オゴーニカ(小さな灯火)」だそうです。日本名は、「モミジアオイ」と呼ぶと言われているようですが、定かではありません。中国黒龍江省とロシアとの国境沿いに咲くそうです。

 

 

このアゴニカを、一度でいいから見たくて、満州里に行く計画を立てていたのですが、咲き始める頃も、ずいぶんと寒そうで、尻込みしてしまったままです。春になると、凍土も溶けて、美しい花を咲かせる自然界に生命の躍動は、私たち人に向かって、『生きよ!』と告げているに違いありません。まだ見ぬ《憧れの花》、《幻の花》なのです。

(上はモミジアオイ、下はジャカランダです)

 

来訪

 

 

『友あり遠方より来たる!』で、華南の街で、行き来をした夫妻が、留学中の息子を訪ねて、その足で、家内を見舞ってくれました。夏期休暇に入ってから来れば便利なのに、息子の学期中に、わざわざやって来られたのです。わが家に二日泊まって、今日は、三人一緒に、『江ノ島電鉄に、父と母を乗せてあげたい!」と、息子が言って帰って行きました。

そこは、自分の好きなアニメの舞台だそうで、中国東北の大学に学んでいた時に、観たのでしょうか、若者の様に若いご両親に、同じ感動を伝えたいのでしょうか。一昨日は、食材を蔵の街のスーパーマーケットに買いに行ってくれ、〈中華料理〉を、お母さんが美味しく作ってくれました。

海辺の漁村で育ったお母さんですから、海鮮料理でした。家内を喜ばそうとしてくれたのです。昨夕は、こちらの友人夫妻が、「天婦羅」を揚げてくれて、〈日本料理〉でもてなしてくれました。友人夫妻は、水曜日に夕食を、わが家で作ってくれ、一緒の交わりを持とうとしてくれていて、ちょうどその日でしたので、七人でご馳走になったのです。

お父さんは、華南の街に母子を置いて、広州と上海で、電気技師、設計士として長年働かれ、息子が瀋陽の大学に入学を機に、お母さんも上海に居を移し、ふるさとのお母様を訪ねて帰って来るたびに、交流をして来たのです。息子は、帰省中に、家内から日本語を学んで、大学に戻ると電話で日本語で交流して来ていました。

昨秋、東京都下にある大学の大学院に留学し、医療ロボットの研究を始めている青年です。実に《好青年》で、自分の息子にしたいほどです。東京の事務所の友人が、彼のために、骨身になって家を探してくれ、そのアパートに住んでいますが、研究で忙しくなるので、大学院の寮に入ると言っていました。

彼らは、私を休ませようと必死でした。お陰で、ずいぶん楽をさせていただいた二日間でした。来年も来たいそうで、その時には、p家内が元気になっていて、一緒に、日光線や鬼怒川方面にある温泉に行けたらいいと、言っていました。実に感謝な家族でした。(6日記)

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ホトトギス

 

 

「子規」と言えば、正岡子規(しき)ですが、そのペンネームの由来は、彼が結核に感染して、喀血をしたことから、自分を、鳥の「ホトトギス」になぞらえて命名したと言われています。

どうして「ホトトギス」なのかと言いますと、この鳥を、日本語では、杜鵑、杜宇、蜀魂、不如帰、時鳥、子規、田鵑などと、漢字で表記したり、また異名を持っているのです。ホトトギスを見ますと、喉のところが、赤い色をしています。これについて、中国には、次の様な故事が残されています(ウイキぺディア)。

『ホトトギスの異称のうち「杜宇」「蜀魂」「不如帰」は、中国の故事や伝説にもとづく。長江流域に蜀という傾いた国(秦以前にあった古蜀)があり、そこに杜宇という男が現れ、農耕を指導して蜀を再興し帝王となり「望帝」と呼ばれた。後に、長江の氾濫を治めるのを得意とする男に帝位を譲り、望帝のほうは山中に隠棲した。望帝杜宇は死ぬと、その霊魂はホトトギスに化身し、農耕を始める季節が来るとそれを民に告げるため、杜宇の化身のホトトギスは鋭く鳴くようになったと言う。また後に蜀が秦によって滅ぼされてしまったことを知った杜宇の化身のホトトギスは嘆き悲しみ、「不如帰去」(帰り去くに如かず。=何よりも帰るのがいちばん)と鳴きながら血を吐いた、血を吐くまで鳴いた、などと言い、ホトトギスの口の中が赤いのはそのためだ、と言われるようになった。』

血の赤さに、ホトトギスの故事に重ねて、自分を「子規」と名乗ったわけです。かつての俳人や小説家が、どれほど、中国文学の造詣に深かったことを知って、驚かされます。子規の友人だった夏目漱石も、自分のペンネームを「漱石」にしています。その名の由来に、次の様な解説があります。

『中国西晋の時代、孫楚(そんそ)は、隠遁しようと決心して、友人の王済に「山奥で石を枕にし川の流れで口をすすごう」と言うべきところを「石で口をすすぎ、流れを枕にしよう」と言ってしまった。それを指摘されると「流れを枕にするのは、汚れた話を聞いた耳を洗うためで、石で口をすすぐのは歯を磨くためだ」と言い張った。』

夏目金之助は、頑固で屁理屈の多い人だったそうです。それで、自分を知っていた金之助は、この故事の「漱石枕流」から、自分を、「漱石」と呼んだのだそうです。明治の文人に比べ、昭和生まれの私は、「美しい日本語」に魅了されながらも、及びもつかない自分を知らされてしまいます。そう言えば、ここ北関東で、駅から5分ほどのところに住んでいて、ホトトギスの『ホーホケキョ!』を、六月なのに聞いていないのです。

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サンフランシスコ

 

 

太平洋を望み見るサンフランシスコ近郊を撮影した写真を、娘から送られてきたものです。初期の北米移民のみなさんは、この海を渡って、農業に従事し、日本人の意気を表し、子育てをし、アメリカ市民として受け入れられて行ったのですね。

悲しくも辛い経験をしながら、一旗あげた人も多かったに違いありません。ハワイやブラジルなどにも、多くの移民が渡って行かれたのです。農家の次男、三男坊は、海外に活路を求めたからです。「からゆきさん」と行って、ボルネオのサンダカンなどに、娼婦として売られた少女もいました。

終戦間もない1950年に、「サンフランシスコのチャイナタウン(作詞が佐伯孝夫、作曲が佐々木俊一、歌は渡辺はま子)」が発売されています。

桑港(サンフランシスコ)のチャイナタウン
夜霧に濡れて
夢紅く 誰を待つ 柳の小窓
泣いている 泣いている おぼろな瞳
花やさし 霧の街
チャイナタウンの恋の夜

桑港のチャイナタウン
ランタン燃えて
泪顔 ほつれ髪 翡翠の籠よ
忘らりょか 忘らりょか
蘭麝(らんじゃ)のかおり 君やさし夢の街
チャイナタウンの恋の夜

桑港のチャイナタウン
黄金門湾(きんもんわん)の
君と見る白い船 旅路は遠い
懐しや 懐しや 故郷の夢よ
月やさし 丘の街
チャイナタウンの恋の夜

 

 

ハワイやサンフランシスコは、戦後日本人の憧れの街だった様です。敗戦後の暗く貧しい世相の中で、それらを克服するために、海外雄飛を、多くの若者が夢に見ていたのでしょう。遥か南米のアルゼンチンに逃げ出したかった十七の私は、スペイン語を学び始めて必死でした。でも、そこへの門戸は開きませんでした。

サンフランシスコは、坂のある街で、そこを訪ねた私に会いに、長女がロサンゼルスからやって来ました。通りすがりの街の案内所で、中華料理店を紹介してもらって、ご馳走になったことがあったのです。そうしましたら、その歌を、懐かしく思い出してしまいました。

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深淵

 

 

この画像をご覧になって、何だとお思いになられるでしょうか。「木の実」か「色付きの極小のボール」か「編み物」に見えるでしょうか。これは、友人が、一昨日、見せてくれた映像を、メールで転送して頂いたものなのです。実は、これは、宇宙の広がりを電子操作によって映像化したものなのだそうです。

まさに、《120万の銀河( 1.2 million galaxies)》の地図、「そらへのポータルサイト SORAE」に、次の様に解説されてあります。

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上の砂が集まったようなフェルトの生地のような不思議な画像、これは6500億立方光年の空間に存在する銀河の集まりを表した3D天体地図なんです。赤や黄色、オレンジや紫のドットそれぞれが星ではなく120万個の銀河を示していると思うと、この地図の示している宇宙の広さがわかると思います。
 
6500億立方光年と聞いてもその大きさはまったく思い浮かびませんが、これは現在知られている宇宙の4分の1しか示していません。また観測に用いられたのは、光学望遠鏡によって宇宙の地図を作るスローン・デジタル・スカイサーベイのBOSSプロジェクトです。
 
なお、地図では紫が地球から遠い銀河、黄色が近い銀河を示しています。これらのデータを知ることにより、科学者は銀河の相対的な運動を観測し、お互いが離れる移動速度を知ることができるのです。
 
そもそも私達の銀河の他にも銀河があることや、それらの銀河が我々から遠ざかっていることが判明したのはエドウィン・ハッブル氏の1929年の観測からでした。ハッブルは遠い天体から発せられる電波が赤方偏移(スペクトルが赤い方にずれること)することから宇宙が膨張していることを実証し、さらにこの説はビッグバン理論にも結びつきます。
 
さらに1998年には我々の宇宙の膨張スピードが加速しているとの仮説が発表され、その膨張にはダークエナジーが関与していると予想されています。そして、今回の天体地図の作成は宇宙の膨張やダークエナジーの研究に貢献することが期待されているのです。
 
Image Credit: CORNELL UNIVERSITY LIBRARY
■This new map of the universe charts out 1.2 million galaxies
http://www.theverge.com/2016/7/15/12199668/universe-map-galaxies-3d-hubble-boss

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私も、果てし無い大空に目を向けて、とくに夜空に煌(きら)めく星を見るのが好きで、子どもの頃から、その神秘さに圧倒されてきています。内モンゴルの呼和浩特(フフホト)に参りました時に、草原のバオの外で見た、満天の星には、度肝を抜かされてしまたことがありました。《降る様な》という表現が一番ふさわしいほどの星々だったのです。

この画像では、星を想像することができませんが、《星の集合体》が、私の頭の上に、無限に広がっているのだと言われると、チッポケなことでくよくよしたり、怯えたりしている自分が、もっとチッポケな者に見えてきてしまいます。それに比べ、宇宙の遠大さは計り知れないのです。科学者は、見上げる大空には「果て」があると言うのです。

イスラエルの古典に、「天のこの果てからかの果てまで」とありますから、「果て」があるのでしょう。この広がりを、どう捉えたら好いのでしょうか。科学する心が、私の内に、ムクムクと起き上がってきそうです。「天を堅く立て、深淵(しんえん)の面に円を描かれた」お方がいらっしゃるに違いありません。

(上は120万の銀だ、下は月と金星です)

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