夫婦

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茶道や華道が一番相応しいのに、女性が柔道をすることなど、明治の柔術家は、誰ひとり考えもしなかったに違いありません。しなやかな女性と柔道はミスマッチに思えるのですが、女性が、さまざまな分野に進出し、活躍できるようになったことは、好いことなのでしょう。

ソウル五輪の柔道で銅メダルを獲得し、筑波大学の教師をされておいでの山口香さんが、「畳を降りても」と、講演で語っていました。活躍した世界から引退したことを、そう言った表現で話されるのが、興味深く、面白かったのです。

野球選手、ピッチャーなら「グローブを置く」、野手なら「バットを置く」と言うのでしょう。会社勤めをされた方が定年で退職をすると、何と言うのでしょうか。私は若い頃に教師をしましたから、きっと「チョークを置く」とか、「教壇を降りる」とか言ったらよかったのでしょうけど、言いませんでした。

誰も、命を削り、時間を捧げて生きているわけです。ちょっと格好をつけて、人生を終えるときに、何と言おうかと、健康な内に考えておこうと、今思っているのです。私は、滅んで消えてしまうと思わないのです。母が教えてくれて、《永生の希望》を持っています。

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それで、「お二階に上がる」は、どうでしょうか。ちょっと厳粛な出来事にしては、軽過ぎるでしょうか。父や母や恩師のいる世界に「転居 」も変でしょうか。もう悩んだり、泣いたり、苦しむことがないので、「涙を置く」とか「ため息を置く」、いや「肉を脱ぐ」が好いのかも知れません。

内村鑑三が、「後世への最大遺物」と言う本を残しています。本を残しただけではなく、生きている間に何をし、そして何を残すかを語ったのです。まず「金を残せ」と言いました。誰にもその才覚があるわけではありません。それで、「事業を残せ」と言いました。これも誰にでもできるものではありません。それで、「思想を残せ」と言ったのです。これだって特別な人にしか残せません。それで、「勇ましく高尚な生涯を生きよ」と勧めたのです。

金にも事業にも思想にも、全く縁のない私でも、「勇ましく高尚な人生」は、まだ残せそうです。明治の男の父の陰で、精一杯生き、4人の子を育て上げた母もまた、「どう生きるか」を有言無言に語って示してくれました。そう、『女は弱し、されど母は強し』、山口さんのようなものではない、「強さ」が、母にあったのを思い返しています。

その同じ「強さ」を、糟糠の妻である家内の内に認めるのです。2010年に膵炎で入院し、手術をするまで、肉体も精神も強い女性でした。今は、肉体は弱っても、心強く生き続けて、病と戦っています。昨夕、お風呂に入ったのです。シャワーでしたが、介添えする私に、2度も『ありがとう!』と言って感謝してくれました。それこそが「夫婦」なのでしょうか。

(昨日の散歩で、見かけた白い紫陽花とSFで咲く紫陽花です)
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当番表

 

 

これは、2010年11月24日に、このブログに掲載したものです。8年半ほど前に、市立第二医院に入院した時の様子を記しています。再掲載してみます。「当番表」と言う題です。

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『いつまでもあると思うな親と金!』、これは父が常々言っていた言葉です。子どもを諭す実際的な格言と言えるでしょうか。そう言わないときに、父は、『金が木になるとでも思ってるのか?』とも、浪費を戒めて言っていました。正しく経済的な観念をもって生きるように願った父を、北風が木の葉を拭き落とす初冬の華南の地で思い出しております。

そんな父でしたが、中学に進学する前の年の暮れに、何を考えたのか、『雅、〇〇中に行け!』と、説明なしに一言言ったのです。デモクラシーの自由な風が、教育界にも吹きこんで、新しい理想に燃えて建学された私立の中学に入って学ぶようにと、小学校六年生の私に挑戦したのです。当然、兄たちが学んでいた地元の中学に入るものだとばかり考えていたのですから、寝耳に水の話でした。父が冗談を言ってると思わなかった私は、小学校の教科書や参考書を入念にみなおしながら、いわゆる進学準備にとりかかったのです。昭和31年の12月だったと思います。

この中学の校訓は、「健康・真面目・努力」でした。暁の明星が暗闇の中から踊り出て、世界を照らし、輝かせ、暖かくすることができる人材を育成することを願って建てられた中学でした。たまたまでしょうか、100人ほどの入学者の列に加えてもらって、合格することができました。

この中学校は、幼稚園から高校まであって、今では四年制大学もあります。ですから小学校から持ち上がってきた20人ほどの級友も、この他にいました。私が学んでいた小学校から、私立の中学に進学したのは、もう一人、同じ街で会社を経営する社長の娘でした。同じクラスの彼女は、私が入学した中学の女子部に入ったのです。

同じ敷地の中にありました。そんな男女別学の学校も、時代の趨勢にみ合って、今では、男女が机を並べた共学校になっています。

その学校で、中学高校と6年間、のんびりと過ごすことが出来たことは、大きな感謝の一つです。まだまだ経済的に力のなかった時代に、私立中学に息子を進学させることは大変なことだったのだと思うのです。同級生たちは、中央競馬会の調教師や、医者や社長の息子たちでした。

そんな父に倣って、私も四人の子どもたちに教育を受けさせることができ、一応の社会人として自立した彼らを送り出すことができたのです。親業を卒業したと判断し、ほっとした私は、『今度はわれわれの番だ!』と一念発起して、天津の語学学校で中国語を学び始めたのです。それが2006年の秋でした。健康にも恵まれて、五年目の秋を華南の地で迎えた今月、家内が「胆石性膵炎」を発症し、市第二医院に入院してしまったのです。

軽率というのでしょうか、脳天気というのでしょうか、幸い健康が与えられて、病気になるということを想定しないで生きてきた私たちにとっては、その軽卒さから目覚めさせる発病と入院でした。『備えあれば憂いなし!』との格言が、思いをよぎるのですが、もう若くない自分たちの軽率さで、4人の子供たちに心配をかけてしまったことを、ほんとうに申し訳ないと思っております。

家内が猛烈な痛みと戦っています時に、私たちの友人が三人、車で駆けつけてくださって、市立二医院(中国では病院を医院といい医院を診療所といいます)に、支えか抱えながら連れていってくれました。点滴を受けながら、救急外来の担当医は、『入院した方がいいでしょう!』とのことで、急遽入院になった次第です。14日の日曜日のことでした。

 

 

入院しましたら、日本のように完全看護ではありませんから、私たちの友人が「当番表」を作って、1週間分の表を作成し、それに従って、19日の夕方の退院の時まで、途切れることなく夜昼、交代しながら、一人、二人、三人と介護してくれたのです。

「魚釣島」の一件が起こり、中国各地で反日・抗日のデモの噂が高まっている中、かつての侵略者「日本鬼子」の末裔の私たちを、温かく支えてくださったのです。点滴が一週、間断なく行なわれていましたから、夜間に眠ることなく、無くなると看護婦を呼び、家内の下の世話、乾ききった唇をぬらし、手や顔を拭くといった愛の行為を続けてくださったのです。

『遠くにいる家族よりも近くの他人』という諺がありますが、歴史的に、感情的に最も距離のある彼らが、家族にするように接してくれたことは、万感胸を打って感謝に耐えないのであります。

発病する前に、面識のある中華系のマレーシア人の方から、『必要に当ててください!』と、けっこうな額のお金が送られてきていました。それを、病院に払い込むことによって、診察が開始され、投薬が始まったのです(中国では精算払いではなく、入金を確認しないと治療が始まらないのです)。感謝な出来事でした。また、ある方も経済的に援助してくれました。だれが、敵の子を援助するでしょうか、でも彼女たちは、『あなたたちは、私たちの家族だ!』と言って助けてくれるのです。

一応の治療を受けた家内の、これからの治療についても、四人の子供たちは、中国で治療を継続する派、日本に帰ってきて治療すべき派と双派に分かれていますが、こちらの友人たちも心配してくれています。この金曜日は、一人の友人叔母さんの知人が、大きな漢方薬局をしているそうで、そこに連れていって下さり、医院での治療の経過を聞きながら漢方薬を調剤してくれるというのです。

そんな、もったいないほどの愛に、蒼白だった家内の顔に赤みが戻り、食欲も出てきております。愛には国境も、過去のわだかまりもなく、邪魔なものの一切を押し流してしまう力があるのでしょうか。つくづく『この国に来てよかった!』と思わされる、「勤労感謝の日(日本)」であります。

(写真上は、お世話の「当番表」、下は、友人の「お見舞いの花束」です)

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