サンフランシスコ

 

 

太平洋を望み見るサンフランシスコ近郊を撮影した写真を、娘から送られてきたものです。初期の北米移民のみなさんは、この海を渡って、農業に従事し、日本人の意気を表し、子育てをし、アメリカ市民として受け入れられて行ったのですね。

悲しくも辛い経験をしながら、一旗あげた人も多かったに違いありません。ハワイやブラジルなどにも、多くの移民が渡って行かれたのです。農家の次男、三男坊は、海外に活路を求めたからです。「からゆきさん」と行って、ボルネオのサンダカンなどに、娼婦として売られた少女もいました。

終戦間もない1950年に、「サンフランシスコのチャイナタウン(作詞が佐伯孝夫、作曲が佐々木俊一、歌は渡辺はま子)」が発売されています。

桑港(サンフランシスコ)のチャイナタウン
夜霧に濡れて
夢紅く 誰を待つ 柳の小窓
泣いている 泣いている おぼろな瞳
花やさし 霧の街
チャイナタウンの恋の夜

桑港のチャイナタウン
ランタン燃えて
泪顔 ほつれ髪 翡翠の籠よ
忘らりょか 忘らりょか
蘭麝(らんじゃ)のかおり 君やさし夢の街
チャイナタウンの恋の夜

桑港のチャイナタウン
黄金門湾(きんもんわん)の
君と見る白い船 旅路は遠い
懐しや 懐しや 故郷の夢よ
月やさし 丘の街
チャイナタウンの恋の夜

 

 

ハワイやサンフランシスコは、戦後日本人の憧れの街だった様です。敗戦後の暗く貧しい世相の中で、それらを克服するために、海外雄飛を、多くの若者が夢に見ていたのでしょう。遥か南米のアルゼンチンに逃げ出したかった十七の私は、スペイン語を学び始めて必死でした。でも、そこへの門戸は開きませんでした。

サンフランシスコは、坂のある街で、そこを訪ねた私に会いに、長女がロサンゼルスからやって来ました。通りすがりの街の案内所で、中華料理店を紹介してもらって、ご馳走になったことがあったのです。そうしましたら、その歌を、懐かしく思い出してしまいました。

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