闇と光

 

 

私の同級生に、アメリカ合衆国第35代大統領のジョン・F・ケネディが、大好きなM君がいました。東京の有名な私立校の出身で、喫茶店で話をするたびに、ケネディのことを話題にしていました。彼が傾倒していたのが、この大統領の掲げた<ニューフロンティア精神>でした。

『・・・今日、我々はニュー・フロンティアに直面しています。1960年代のフロンティア、未だ知られぬ機会と道、今だ満たされぬ希望と脅威を孕(はら)んだフロンティア私はあなた方の一人ひとりにこの新しいフロンティアの新しい開拓者となるように求めたい。』というチャレンジに、M君は強く興奮していました。

そのケネディが、私の大学に入学した半年後の1963年11月に、ダラスで暗殺されてしまったのです。それは、テレビで観た、もっとも衝撃的な映像の一つで、アメリカ史上、特筆される事件だったのです。とくにM君にとっては辛い経験だった様です。

この事件を契機に、ケネディ個人と彼の家系の秘密が、様々に露わにされていきました。”American Dream“を与える国の大統領についての醜聞は、きっとM君の見た夢を潰(つい)えさせ、がっかりさせてしまったことでしょう。人間崇拝が、あまりにも誇張されてしまうと、それが崩されると言うのは、ある面では、世の中が公平であると言うことでしょうか。

ジョン・ケネディの一歳違いの妹が、大きな障碍を負っていたことが隠蔽(いんぺい)されていたのも、<名門の誉れ>を傷付けることだからでしょうか。自由と平等の国にも、そういった家族に障碍者がいたことを、知られたくない家庭があったことを知って、驚いたのを覚えています。理想の国家や人間などいないと言うことなのでしょうか。

どんなに豊かな国でも、<とかく世間は住みにくい>の例外はないことになりそうで、どこも同じなのでしょう。父親の果たせなかった夢を、手段を選ばずに、自分の子に実現させたのが、ジョン・ケネディの大統領就任だったとしたら、私の知ってる素敵なアメリカとアメリカ人からは、随分かけ離れている様に感じられてならないのです。人や出来事の中に、醜聞や闇が潜んでいたわけです。それが白日の元に晒されるのは、好いことなのでしょう。

私の恩師と、その友人たちは、みなさん、豊かな国の市民でありながら、物質的には豊かではありませんでしたし、全くの無名でした。それなのに、精神的には素晴らしく《高潔》でした。どなたも弱さを持っていましたが、決して隠すことはありませんでした。と言うことは、彼らが《正直に生きていた》ことになりまず。まさに闇の中に、燦然と光が輝いている様でした。必要以上に人が崇められ、高められてしまわないのは、どうも好いことなのでしょう。

.