何時も思い返すのですが、これまで生きてきた道中に、様々な出来事がありました。所帯を持ってから48年間の最大の危機は、田舎のマンショに住んでいたとき、上の階の女性の部屋で、ガス爆発があったのです。初夏の明け方のことでした。ベランダの鳥籠の鳥が焼け死に、干してあった洗濯物が焼け、二部屋の窓ガラスは木っ端微塵に砕け落ち、玄関の戸は爆発の瞬間的に開いてしまいました。
家内のお腹には、その年の8月に生まれた次男がいたのですが、爆発の瞬間を彼女は覚えていなかったのです。その家内は、未明に、3人子どもたちが窓の近くに頭を向けて寝ていたのを、何か感じたのでしょうか、敷布団を引っ張って室内の奥の方に移動させていました。体重の重い私だけは、身重な彼女は動かせず仕舞いだったのですが。
爆発の瞬間、飛び起きた私は、ベランダから外を見ましたが、どうも上の階のガス爆発だと言うことが分かって、肌着のまま3階に駆け上がり、消化器を手にして消火活動をしたのです。ところが、爆風で開け放たれた玄関と窓からは、火のついた新建材からでしょうか、黒煙がモクモクと吹き出ていました。中から、女性のうめき声も聞こえていましたが、進入して助け出せなかったのが非常に残念でたまりませんでした。娘たちを家に中に呼び込んでは、この方が可愛がってくれましたから、助けたかったのですが、手をこまねくだけだったのを思い出します。
家内が未明に起きたのは、臭いに敏感な妊娠中でしたから、上の階から降りてくるガス臭を感じたのかも知れません。後に、消防署の現場検証のおりに、調査員の方が、『こういった情況では、必ずガスが下の階に充満していて、引火することが通常あって、爆発を起こすのですが!』と驚いておられました。妊娠中の家内と子どもたちを放ったらかしにして、上階に駆け上がった私に、家内は呆れていました。先ず家族の安全を確保しなければいけないのにです。でも家内も子どもたち3人の無事なのを、私は確認していたのですが。
駆けつけた消防団と消防署の消火活動で、我が家の殆どの物が、今度は水浸しになってしまったのです。幸いなことに、近くに仕事場がありましたので、その事務所に避難しましでバタバタしていた私でしたが、爆発で砕け落ちたガラスの破片が、頭に刺さっているのに気づかなかったのです。近所の整形外科に跳んでいきましたら、30数箇所にガラス片を見つけて、治療をしてくれました。
あれは、まさに火焔の海からの《エクソダス(脱出劇)》でした。引火爆発をしなかったこと、家内が爆発の瞬間を憶えていなかったこと、子どもたちが守られたこと、消防署員の方が言われたように、あれは《奇跡》だったと言えます。
そんな火をくぐって助かった長女が、『お父さん。わたしが小さい頃だけど、理由が分からないで、ピンピンされたことが何度あるけどねえ。あれはトラウマだよ!』と何度も言って文句を言っています。アメリカ人実業家と一緒に働いていた7年間、彼の子育てに倣って(「むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。」)、鞭を使って、厳しく育てたことは事実ですが、1つ1つのことは覚えていません。そんな思いを、長男も次女も次男も持っているのでしょうか。それなのに、「母の日」や「父の日」には感謝を表してくれるのですから、『大したトラウマではないのかな?』、と思ってしまうのです。
そんな子育中に、名古屋の家庭裁判所の調査員をされてた方が、「愛は裁かず」と言う本を書かれ、それを読んだ私は、この方に講演を依頼したことがあったのです。『私は決して鞭を、子どもたちに当てたことがありません!』と、私の質問に答えてくれました。私のアメリカ人上司とは子育法の対局にいる方で、それを聞いた私は、鞭を使ったことを迷ってしまったのです。彼の子どもさんたちは、みな立派に育っているのだそうです。そんなことを思い出して、長女の弁を耳にして、『私の子どもたちは立派に育っただろうか?』と心配になってしまいました。
そう言えば、彼を名古屋に車で送ったときに、『広田さん。《五平餅》食べましょう!』と、3時間ほどの道中2回も誘われ、人生のように甘塩っぱい味をご馳走してくれました。先日は、ほの甘い《よもぎ饅頭》の味を楽しんだのですが、口の中に《五平餅》の味が思い返され、これらが人生の機微をうがつのでしょうか。
(五平餅です)
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