留学

 

 

 フジテレビで、放映された「若者たち」というドキュメンタリー番組を、娘が紹介してくれて、家内と観ました。二人の中国からの留学生の足跡を追ったものです。家内と私は、六十を過ぎてから、天津の国際語学学校、華南の街の大学に留学した経験がありましたので、興味津々で観ました。

 1人は19才の女性の王尓敏さん、もう1人は26才の男性の韓松さんです。1996年に、2人とも日本語学校に通いながら日本の大学受験を目指して来日したのです。王さんは片言の日本語が話せるのですが、韓さんは全く話せません。言葉の通じない国でアルバイトをしながら勉強をしなくてはならないが、バイト先はなかなか見つからず、手持ちの資金は底をつく。

 中国では一流の社会人だった韓さんは、奥さんと子を国に残し、義理の父親からは、『どんなことがあっても成功するまであきらめるな。帰ってはならない!』と言われて来日しました。4畳半のガスコンロだけのアパートで、韓さんは『余りにも現実が違いすぎる。私の父は中国では、共産党の要職の地位にあり、母は学校の先生で、私に会えるだけでも大変なことなのに・・』と呟くほどでした。昼間は日本語学校、夜は皿洗いのアルバイトを2つ掛け持ちし、睡眠時間も3時間ほどの生活が続きました。

 当時の中国では、1ヶ月分の食費代が、日本では1日分ほどでした。韓さんは土日も働きながら勉強を続け、日本語検定1級を取得し義理の父親が勧めてくれた明治大学を、2年経ったら受験するつもりでした。それは、最初で最後、1回限りのチャンスだったのです。妻の反対を押し切り、仕事を辞めてまで日本にやって来ました。刻苦勉励、努力と我慢の末に、ついに明治大学商学部に合格するのです。

 

 

 1996年、成田空港で、持って来た五つの荷物の一部が見つからず、泣き顔でカメラに語っていたのが、19才の王さんでした。彼女は、コンビニと飲食店のバイトをしながら学費と生活費を自分でまかない、1年後に千葉大学に合格するのです。

 合格して、中国に里帰りした時、お父さんは、次の様に王さんのことを話してました。『娘は、何度も国に帰りたいと言いましたが、私は許しませんでした。あの子が本当に一人の人間として生きていけるようになって欲しかったからです。!』

 隣で聞いていたお母さんは泣いていました。5年後の2001年、4年生の王尓敏さんは、日本の企業に就職が内定した。明治大学在学3年の韓さんは、『今、私はどこの国へ行っても生きていける。そして、そのことを妻子や国の人たちに伝えることができる。何故なら、それは私自身がこうして証明しているからだ。・・・来日当初の自分が恥ずかしい!』と回顧してしています(卒業後、三菱重工に就職している様です)。

 私たちの子どもたち四人も、留学をしましたので、同じ様な苦しみと喜びの体験をしたのだろうと思ったのです。留学中の細かなことはみんな語りませんでしたが、涙を流す様な辛い経験も超えて来ているのでしょう。自分たちの前に開いた扉から、自分の人生を生き行くために入って、いまを生きていくためには、それらは貴重な体験であったはずです。

(神田駿河台の明治大学商学部の校舎です)

.

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください