級友

 

 

中学の同級で、バスケットボール部で一緒に汗を流し、上級生やOBにしごかれた仲良しが、大学を終えて、寿司職人になるために修行を始めたのです。新聞記者だったお父上の退職金で、自宅を改装して、鮨屋を始めるためでした。東京郊外のJRの駅前でした。近くに湖があって、中学時代は、よく遊びに行っては、湖上でボートを漕いだりして遊んだ、悪戯(いたずら)仲間でした。

ところが、店を始めて、軌道にのった時期に、病気で亡くなってしまったのです。同級生では最も早く召された一人でした。確か男の子が、三人いたと思います。夫人が、彼の遺志を継いで、その鮨店を続けたのです。鮨職人が残られて、営業し続けたのです。

昨日、彼のことを思い出し、あの店が続いているのかが気になり、"google"のサイトで検索してみたのです。そうしましたら2006年の記事が見つかり、夫人の名義で、店を営業しているのが分かったのです。以前訪ねた時、息子さんが店を継いでおいででしたから、親子で経営されている様です。その記事は、40周年のものでした。それから12年が経っていますから、「創業50周年」を過ぎたことになります。

家内といっしょにお邪魔したこともあって、ご夫人と名前が同じ好(よしみ)で、「三浦綾子」のフアンだと言うことで、新刊書を、家内が差し上げたことがありました。われわれ世代ですから、今も"女将(おかみ)"をしているか、息子さんの夫人に譲っておいでか、どうされておいででしょうか。

この級友に、OBの大学生が、渾名をつけていたことがあったりで、結構面白く、人気のあった仲間でした。教室の天井裏に登って、授業中なのに、国語の教師に叱られたりした仲間でした。大人の付き合いに入る前の別れでしたから、やはり「死」を真剣に考えた時期でした。

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21世紀

 

 

若い頃から思い続けてきたことがあります。将来の[人口の増加と食糧の自給の予測]とか、[大気や水質などの汚染による環境問題]、[犯罪の凶悪化]、[国際紛争]などを聞いたり読んだりして、私は考えたのです。その考え、思い続けてきたことと言うのは、『21世紀はあるのだろうか?』という懸念でした。

今年の夏から秋にかけ、日本や台湾や大陸、そして世界のあちらこちらで、台風(ハリケーン)、それに伴う水害や洪水や山の斜面の崩落、異常気温、地震、火山の爆発が起きていて、あの思ったことは、『あながち間違えではなかったのではないか!』と思い返しているのです。今世紀も、18年が経っていますし、楽観視できない世界的な状況の様に感じるのです。

『では、明日の予報です。明日も太平洋高気圧に覆われて、朝から強い日差しが照りつけそうです。予想最高気温は東京、名古屋で44度、大阪で43度、札幌でも41度と記録的な暑さが続きそうです。』、これは環境省がネットで配信した、<2100年未来の天気予報>です。これは、50年後、30年後にあっても不思議でない、もしかして5、6年後の《未来予測》かも知れませんね。

気象庁ではなく、環境省が、そう予測したという実感があります。今年、ここ華南の街で生活しながら、かつてないほどの暑さ、発汗、倦怠感は、年齢のせいばかりではなさそうです。ですから、みなさんが感じておいでの様に、秋になって、胸をなぜ下ろしているところです。

私は、いわゆ<預言書>の市販されている類の書物を、書店で買い求めて読んだり、図書館の書庫から引き出して読んでいたのではないのです。また、『大変だろうなあ!』と、つくづく思うのは、ここ中国の人口が、13億人とか15億人と言われて、多くの人々の毎日の食料や光熱水などをを賄わなければならない、国や地方の政府の責任者や担当者のご苦労です。並大抵のことではないのでしょう。

かつて大きな災害や飢饉に見舞われた国なのに、このところ自然災害だけで、国が豊かに潤っている影で、どんなに大変な行政がなされているかを考えることがあります。スイッチを入れると電気がつき、コックを開くと水が出、栓を緩めるとガスが出るのです。かつて、井戸水を汲み、薪を割ったり、炭に火を起こして、母の手伝いをしたことのある私は、当たり前のことではなく、深い感謝を覚えてるのです。外国人にも分け隔てなく、供給してくれるのを感謝を覚えています。

今春、私が運転免許証を更新しないで、失効させたのは、長く運転をしなかったからだけではなく、<排ガス規制>や<地球の保全>に協力したかった気持ちもあったのです。バスや電車、時にはタクシーに乗った方が、もう好いからです。国が対策をし始めるというよりは、個人が、それをし始める以外にないのではないでしょうか。車を三台も持っていた時期がありました。今はゼロ、自転車に乗りたいのですが、“ワイフストップ”がかかっています。そう、『歩け!』なのですね。

18年も過ぎた21世紀、いつ終わっても、いつまで続いても、一日一日、生かされている間、生き続け、歩き続け、食べたり飲んだり、過ぎたことにクヨクヨしないで、そうし続けようと思います。泣いたり笑ったり、落胆したり感動したり、悲しかったり嬉しかったり、恥じたり得意がったり、前に向かって期待しながら、そうし続けようと思っています。

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第2期目

 

 

これは、先月9月25日に掲載したアサガオです。本年第1期目の花に代わって、第2期目の秋蒔きの種が芽を出しました。次男夫婦が来てくれた時に、アサガオの種を持参してくれたものを蒔いたのです。すくすくと、二代目が育っています。咲きましたら、またアップしたいと思っています。

昔から「兄貴」と慕っていてくれる友人が、検査入院をした後、面会謝絶の状態にあると、夫人が知らせてきました。お嬢様もアトピー症で大変な状態にある様です。娘婿も、娘が1週間の出張で、術後を一人で家で過ごしています。次兄は、術後の検査で順調とのこと。みなさんの回復を願った朝でした。

今日は日曜日、好い祝日であります様に願っております。

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クコ

 

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これは、「枸杞子(クコ)」の「花」、「果実」、「乾燥した実」の写真です。わが家の乾物ケースの中には、常時、この乾燥した「枸杞子の実」があり、スープを作る時に、家内は、これを入れています。中国の家庭の常備の乾燥滋養食材です。こちらの多くの方は、水筒持参で通勤、通学しますから、その水筒の沸かしたお湯の中に、薬草などの体によい乾燥した実や葉を入れます。この「枸杞子の実」も、よく使っているのを見掛けます。

こんなに綺麗な花を咲かすことを、[HP/里山を歩こう]が知らせてくれました。広島県の呉市安浦町の山に咲いているそうです。秋の花には、紫や黄色の花が多いのでしょうか。今頃の里山をハイキングで歩いたら、気持ちが好さそうですね。高尾山から相模湖に抜けるコースは、何度歩いたことでしょうか。 しばらく、この街の森林公園や、そこからのハイキングコースを歩いていませんから、秋晴れの日に、「おにぎり」をザックに入れて歩いて見たいものです。その折、「枸杞子の実」入りの水筒を持参しましょうか。

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けじめ

 

 

日本文化の特徴的な一つは、上と下、右と左、内と外、公と私とを、はっきりと分けることにあるのでしょう。背広にネクタイを着て職場に出て行った主人は、帰宅後、Tシャツにバミューダショーツや甚平に着替えたり、また外で履いた靴を脱いで、裸足で家の中を歩くと言った様な変化を厭わないのです。今は、「公」の自分ではなく、「私」の自分だという主張をしたいのです。

こちらの学校で教え始めた時、学生が、教室に入ってくる時、『おはようございます!』、帰っていく時、『さようなら!』と言わないことが気になったのです。「礼」の国で、その「礼」を身につけていた私は、戸惑ったのです。それで、日本文化と日本語を教える身として、私は、こちらから、挨拶の言葉で学生を教室に迎え、そして送ったのです。どの学年の学生も、最初は戸惑っていましたが、やがて、それが習慣化していったのです。

この日本人の感じ方というのは、《けじめ》の有無なのでしょうか。どうも私たちは、《けじめ》無しには、事を始めたり、終わったりできない文化や習慣の人間の様です。この《けじめ》は、動詞になって、「けじめをつける」という使い方をするわけです。

長年勤め続けた会社を辞める時に、その内外で関わりを持った方たちに、「挨拶回り」をして、会社勤めの、「けじめをつける」わけです。そうしないと、退職後の生活が始まらないと感じるからなのです。若い世代の人たちは、《けじめ》をつけられないで、いつの間にか消えて、去って行ってしまう傾向が強いのです。これって、後腐れがなくて、ドライでいいのでしょうか。

でも私たちの世代は、何か中途半端で終わってしまう<もどかしさ>を感じてしまうのです。最近有名な女優さんが亡くなられました。私たちの世代の方で、ご病気が分かってから、ほぼ10年の間、《けじめ》をつける、周到に「終活」をされていた様です。でも、“フワッ”と消えていくのもいいかなって、最近、私は思うのです。

どうしてかと言うと、《けじめ》をつけることに縛られてしまって、もっと大切なことをし忘れる事だってあるからです。遺品を調べていて、夫の秘密が暴露されて、その慌てぶりを天国で、”ワッハッハッハ“と笑ってしまうのもいいかなと思うのです。

書庫に残された本のページの間に一万円札や100ドル札を見つける喜びを、妻や子に与えるのも、いいかも知れませんね。借金はないし、あるとしたら約束不履行が、この私にはあるかも知れません。幼い男の子が、『カレーをご馳走するね!』と、私が言った言葉を覚えていていました。ところが私は忘れていたのです。それで上海に、お父さんが転勤する前に、わが家に食べに来たことがありました。あの子は、まさに「けじめの子」でした。

昔、『どっか連れてって上げるね!』と家内に約束したことがあった様ですが、まだ果たしていないかも知れません。《けじめ》のためではなく、「約束」だけは果たしておきたいものだと思う、秋色の濃くなりつつある今日この頃です。子どもたちとも約束したことがあったでしょうか。

(懐かしい秋の味覚の一つ「アケビ」です)

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開聞岳

 

 

18才の夏休みに、友人が小倉と鹿児島にいて、彼らを訪ねて九州旅行をしました。宮崎、長崎、熊本、大分の各県に行きましたから、ほぼ九州全域を旅したことになります。學生の貧乏強行旅行でした。移動は電車とバスと船でした。実は、自動車の運転免許を取るために、父からまとまったお金をもらっていたのを、無斷で、この旅行に流用してしまったのです。ちょっと後ろめたい気持ちがあったのですが、おかげさまで、日本と歴史の探訪の旅ができたのです。

この写真は、鹿児島の薩摩半島の南端にある「開聞岳(かいもんだけ)」で、近くに長崎鼻という岬があって、実に美しい所でした。海の近くのキャンプ場の堀立小屋に泊まったのです。この開聞岳は、知覧や鹿屋(かのや)にあった特攻基地から、飛び立った特攻機が、沖縄に向かう折に、まず進路目標とされた山だったそうです。遠くからこの山を眺めつつ、この上空を飛んで、故国を後にした後、沖縄の上空で、多くの青年たちが散ったわけです。

 

 

それは私が生まれた頃の出来事でした。二十代の青年たちが、この作戦に命を捧げてから、ほぼ20年ほど経った時の旅行でした。平和な時代に育って、死など思うこともなかった私が、ただ『美しい山だ!』と思いながら、この開聞岳を眺めたわけです。二度と帰ることができず、死に逝ったみなさんと同世代でした。ただ、その折、「知覧」には行けませんでした。訪問を避けたのかも知れません。

今、半世紀前の旅行を思い返して、戦後の平和と、自由と、豊かさの中で育った自分たちと、そう言ったものを私たちが享受するために、多くの青年たちの命や青春や理想が、犠牲にされたわけです。ある人たちは、『無駄な死だった!』と言ったのですが、ギリギリで特攻を避けて生き残った元特攻隊員が、『われわれの仲間の死は、決して無駄な死ではなかった。少なくとも平和の時代をもたらすための礎だったのです!』とおっしゃった手記を読んだことがあります。

この「平和」と「自由」と「繁栄」への貴い代償があって、私たちは、戦後を生きてこれたわけです。様々なことがあった「昭和」が終わり、間も無く「平成」も終わろうとしています。できれば、もう一度、開聞岳を訪ねてみたいと思っています。その時には、特攻基地のあった「知覧」を訪ねてみたいと願っています。下の息子が、以前、「知覧茶」をくれたことがありました。掛川茶や森茶などと同じく、美味しいお茶でした。やっぱり平和って有難いですね。

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おにぎり

 

 

今朝のベランダの寒暖計は、6時半の時点で19℃、小雨の朝です。ここの秋は短いのですが、今年は少し長くなりそうな感じがしています。気温の日較差が大きくて、日中薄着で出かけて、夜分に帰ると、風邪を引きそうに、薄着を悔やむほどです。もう台風の襲来はないのでしょうか。今年は、祖国日本と、今住む街に、台風が来るか逸れるかで、台風情報に関心を向けて続けていました。終息したのでしょうか。

さて、今朝、起き抜けに食べたくなったのが、「おにぎり」でした。「塩むすび」がいいなと思っていたら、私の故郷では、「地菜(じな)」と呼んでいた漬物で、信州では「高菜」と言いますが、その高菜で包んだ「おむすび」を思い出したのです。私の育った町では、「おにぎり」、他の地では「おむすび」と言いますが、ここ中国では「饭团fantuan」と言っています。

その高菜のおにぎりは、「めはり寿司(目張り寿司)はおにぎりを高菜の浅漬けで包んだ熊野(和歌山・三重)地方・吉野(奈良)地方に伝わる食べ物。紀州・新宮町(現・新宮市)出身の文豪佐藤春夫をして、「故郷のうまいものは、1にめはり、2にさんま」と言わしめたこの地方を代表する郷土料理の一つだ。」と説明があります。

母が作ってくれたのは、梅干しやおかかや明太子を入れた「おにぎり」で、時々海苔で包んでくれたのです。出雲の出身でしたから、独特な呼び方があったのでしょうか。中に入れる具も独特なものがあったのでしょう。父と生活している間に、<関東風>に変えられ、「雑煮」も煮物も、関東風でした。いやー、ちょっとお腹を壊してしまって、「おかゆ」を食べていたので、ちょっと硬めでふっくらした「おにぎり」が食べたくなった様です。

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若き盛りの美

 

 

この写真は、広島県庄原市・国営備北丘陵公園で、[HP/里山を歩こう]が、小学生の総合学習(自然観察教室でしょうか)の講師で出かけられ、そこで撮影されたものを、配信してくださったのです。今では、挙式の前に、花嫁を、プロのカメラマンがいない様に見受けられるので、友人たちによって、撮影がなされているのでしょうか。庄原市での慣例なのでしょうか。花婿の姿が、ここには写り込んでいませんが、花嫁だけなのでしょうか。

この私たちの住む街でも、結婚式が挙げられる前に、省内や市内の名所旧跡を、プロの写真家、着付け係、案内人が、二人を車で移動しながら撮影し、ものすごく豪華な写真集を作るのです。芸能人の写真集の様な私家版です。それが結婚式の一部なのでしょうか。そう言った流行りなのでしょうか。どなたも、それをするのです。写真集をいただいたことがありませんから、親族やご本人たちの記念なのでしょう。

これを「前撮り」という様です。花嫁にとっては人生の《若き日の盛り》のもっとも綺麗な時の記念となるのでしょうね。水を差す様ですが、あんなに綺麗だったのに、歳をとると、美貌が外面ではなく、内面に移って行くのでしょうか。跳ねる様に美しかったオードリーヌ・ヘップバーンの晩年の写真を見た時に、その落差の大きさに驚いたことがありました。彼女は、そんな美貌の衰えた自分を恥じることなく、晩年を生きた女性で、素晴らしいなと思ったのです。やっぱり、女性の美しさとは、内面なのでしょうか。

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銀漢

 

 

漢詩といえば、李白と杜甫と白楽天です。この二人に匹敵する詩人は、宋代の詩人の「蘇軾(SuShiそしょく)」でしょうか。国語で学んだ漢詩には、次の有名な二首があります。

「春夜」

春宵一刻値千金  春宵 一刻 値千金
花有淸香月有陰  花に淸香有り月に陰有り
歌管樓臺聲細細  歌管 樓臺 聲細細
鞦韆院落夜沈沈  鞦韆 院落 夜沈沈

春の宵は一刻が千金に価するほどすばらしい
花は芳しく香り月の光がさやかだ
先ほどまでの歌舞管弦もいまはひっそりと静まり
中庭ではブランコがゆったりと揺れ、夜が更け渉って行く

「中秋月」

暮雲収盡溢清寒   暮雲(ぼうん)収まり尽きて清寒(せいかん)溢る
                                   銀漢無聲轉玉盤   銀漢 声無く  玉盤を転ず
                                                                             此生此夜不長好   此の生 此の夜 長(とこしなへ)に好(よ)からず
                             明月明年何處看   明月 明年 何れ(いずれ)の処にか看(み)ん

日暮に雲は消え去り爽やかな涼気が溢れている
                                                                               音も無く流れる銀河(天の川)に宝石で作られた皿のような明月が現れた
                          これほどに素晴らしい人生、素晴らしい夜だが、決してそれは永遠に続くことはない
来年はこの月を、果たして何処で眺めていることだろう。

 

 

その言葉の無駄のない漢詩に、中学生の私は圧倒されました。多く表現したい気持ちが、言葉として溢れてくるのでしょうけど、それを削ぎ落として、詩を詠む気持ちが、何となく分かったからなのでしょうか。

一人の友人が、わが家を訪ねてくれた時に、一冊の小説を持参してくれたのです。先年亡くなった葉室麟の「銀漢の賦」でした。この小説に中に、この蘇軾の「中秋月」が引用されていたのです。上級武士、下級武士、農民の子の三人の身分を超えた友情が、大人になっても変わらない様子が描かれていて、秀作でした。

きっと、日本情緒に浸りたい頃だろうと、友人が考えてくれたのでしょう。それで、題名の「銀漢」がよく分かりませんで、ネットで検索すると、「銀河」のことだと分かったのです。秋になって、小高い山からなら、この銀河が見えそうな季節になってきました。何十年の前に、内モンゴルにいた時、夜空は満天の星が輝き煌(きら)めいていました。あの壮大な光景は、また見上げて見たいなと、そう思う華南の街の夕べです。

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決断

 

 

これまで、いろんなことのために、「決断」をしてきました。それらは、進学、就職、結婚、転職、退職、海外渡航などです。まさに人生の節目での大切な決断でした。振り返って想いますに、それらの決断は、自分の意思だけではなく、何か人生全体に働き掛けている大きな力や意思の介入によった様に思えるのです。ですから、それらの決断は、的確で正しかったと思えます。

でも、ずいぶん短い人生だと思えてなりません。力のあふれていた時期に子育てをし、与えられた仕事や事務や責任を果たせたのです。現役から退いて、悠々自適な時を過ごしながら、瞬きの間の出来事で、その都度出会った人々や機会や場面が、思いの内に蘇ってきます。二度と帰ってこない日々が、いや〜懐かしいものです。

中学の一級上に、若山牧水の孫がいました。話をしたことがありませんでしたが、国語を教えてくれた教師が、彼の担任で、よく牧水の短歌を紹介してくれました。その一つが、

白鳥は哀しからずや 空の青 海のあをにも 染まずただよふ

です。この短歌は覚えていて、空で誦むことができるのです。もう一つは、

白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり

ですが、これは、中学生には好ましくない教材で、清んだ日本酒の旨さを教えたのですから、この教師は、生臭坊主だったのです(本当に、隣町の住職でした)。驚くのが、この短歌は、牧水二十四歳の時のものです。人生の晩期、六十か七十でもあるかの様な、そんな年齢で詠んだと思われてしまいますが。そんなに若い頃から、酒の旨さに心を酔わせて、短歌を詠んだのですから、驚かされます。

牧水は、四十二歳で没しています。心を酔わすことができても、身体は受け付けなかったことになります。この牧水は、漂泊の歌人で、景色や人を求めて旅をしたのでしょうけど、その土地その土地の銘酒を認めての旅だった可能性は大きそうです。この私は、この短歌を詠んだ牧水の年齢のもう一年上の<二十五歳>で酒をやめることができました。自分の意思だけではなく、人生にに働きかける大いなる力に助けられてだった様に思えてなりません。

あの年齢から、ほぼ五十年が経ちます。ちょっと単純計算をしてみましょう。一年が、365日で、毎日ビールを二本ずつ飲んだとしますと、<36500瓶>になります。現在、ビール一瓶の値段を<300円>とすると、《21900000円》になります。いやー、この《2000万円》の数字には驚かされてしまいます。『塵も、いえビールも飲まれれば山となる!』、と言ったところです。

最近、酒害で苦しむ人が、地球上に、数億人もいらっしゃると聞きました。そんな中で、酔わなくても、心が痺れなくても、自分が生きて来れたことは、ただ感謝に尽きません。あの《二十五の決断》は、確かに正解だったのです。酔って中野坂上駅や阿佐ヶ谷駅や高尾駅のプラットホームや、あの中洲の街、柳ヶ瀬の街をフラフラしていた日々も、しっかり覚えています。

(青空を漂う「白鳥」です)

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