賢さ

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地球は、大雑把にできているのではありません。人間が生息するために、信じられないほど綿密な構想や計画がなされているのです。地表に生活する人間のための<空気の濃度>は、奇跡的なものです。極点はともかく、通常の生活のための<気温>は、衣服で調整できる範囲に調整されています。雨の降る量も、適量です。燃料も、固形燃料から液体燃料、そして核燃料と、地表から掘り出せるところに埋蔵されてあります。驚くほどに按配されているのです。

そこにあるのは途方もない「知恵」です。造山活動や造陸活動がなされた時、無作為に作り上げられてはいないからです。メガコンピューター以上の計算や設計図があって作られているのです。「偶然 」などと言ったら、地球からごうごうの非難が上がることでしょう。当然の様に、毎日、いえ毎秒吸っている「空気」について、ちょっと調べてみました。その成分は、窒素、酸素、アルゴン、二酸化炭素、ネオン、ヘリウム、メタン、他、です。その濃度も配合も、人間の体が必要としたものになっていて、100年以上吸い続けても無害です。賢く配合されているわけです。

こう言った地球環境に、適合した生物が生成され、生命を持ち始め、個体が出来て、愛したり赦したりできる人間に進化したのでしょうか。私の小さな脳みそでは、そんなことは考えられないのです。この「賢さ」は何なのでしょうか。私は、海が好きなのです。山の中で生まれたので、海への憧れが大きいのだと思っています。人生の一番好い時期(現在も最良と思っていますが、一般的に言って)を、四方を山で囲まれた地で生活した反動かも知れません。また父の家系の<海好きのDNA>を引き継いでいるのかも知れません。

上海の码头(波止場)から、黄蒲江、東シナ海、玄界灘、瀬戸内海を渡って大阪港への船旅をする時、14410トンの「蘇州号」に乗るのですが、岸壁では 、『うわー、大きい!』と思うのです。ところが大海に出ると、木片の様な船、それに命を任し切っている、<人間の小ささ>を感じるのが好きなのです。海の掟に従って、船長が繰る船が、自然の摂理と争わないで、波濤を越えて、前に進んでいる姿が好きなのです。

そうすると、この地球が、宇宙と言う大海原を航行する<船>の様に思えてくるのです。マストもエンジンもスクリュウも操舵桿もないのに、毎日毎日、自転しながら、一年をかけて空中を回っている、<不安定さ>が好きなのです。海に海水が満ちています。太陽に照りつけられると気化してしまいます。ほどほどの量です。それが真水となって雨を降らせ、その水を飲んで、人は生きているのです。その水が大地に注がれて、人の食物を育てるのです。種は、どこから来たのでしょうか。それを受け止めて育む土の成分と滋養分は、どこから来るのでしょうか。

やはり、この地球は、<賢く>機能しているのです。今、その地球が、悲鳴を上げています。壊れ始めているのです。手を打ったり、対策を講じたり、いえ、反省しないと、終いには爆発してしまうのではないかと心配でなりません。

(写真は、”WM”による、月から見た「地球」です)

忘れていること

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私たちが、忘れていることがあります。この地球の内部には、<マグマ>があることをです。<マグマ>とは、”知恵蔵2014”によりますと、

「地下の岩石が融解して生じる高温の液体。それが地表から噴出するのが噴火。マグマが液体状態のまま火口から噴出したものが溶岩。マグマの大部分はケイ酸塩溶融物で、主な構成元素は、酸素、ケイ素、アルミニウム、マグネシウム、鉄、ナトリウム、カリウム。ケイ素の量は、マグマの流動性や、噴火のタイプを左右する。ケイ素が少なく流動性の高いものが玄武岩質マグマで、主に溶岩流として噴出する。以下、含有量が増えるにつれ、安山岩質マグマ、デイサイト質マグマ、流紋岩質マグマと呼称が変わり、流動性が悪くなり、爆発性が高まる。火口からの噴出温度は、玄武岩質が1200℃前後、流紋岩質が900℃前後。マグマの起源は、上部マントルの深さ100km付近かそれ以浅にあり、マントル物質の上昇流の中で、減圧融解により岩石が部分的に溶け、形成されるとみられる。形成直後のマグマはおそらく玄武岩質で、それが上昇する過程で、条件によって鉱物結晶が析出し(結晶分化作用)、また地殻物質と反応して、ケイ素の量が増えていく。」とあります。

岩石が液状化した極めて高温な物質のことなのです。『北海道も、アラスカも、マダガスカルも、自然が溢れていて、感動的な美がある!』と言われて、誰もが行って見たい観光の名勝地なのです。私が生まれた村のそばにも、奇岩の山があり、岩の間からは滝が流れ下り、実に神秘的な美の世界があるのです。その最たるものは、南米に仕事で出かけた時に、連れて行って頂いた「イグアスの滝」なのです。『地球上に、こんな自然があるのか!』と、足がすくみ絶句したほどでした。

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そんな美と神秘の景観の下には、この<マグマ>がうねっているのだと言うこと、何度も見上げて来た「御嶽山」の昨日の噴火で思い出させられたのです。緊張している国際関係も、仁川で行われているアジア大会も、シリアの空爆も、この<マグマ>の上で行われていることになります。一旦、吹き出せば人命も、築き上げて来た文化財も、美しい紅葉も消し去ってしまうのです。これから冬になると、「日向ぼっこ」をしたくなりますが、真夏には猛暑をもたらす太陽が、少し斜めに射してくると、『暖かい!』と感じるのですが、実は、その太陽も燃えているわけで、<火の固まり>なわけです。

『日本列島には、110もの活火山がある!』、物凄い自然の中で、人が生きている、いえ生かされているわけです。ある人が、『自然界は人がして来た所業にたいして怒っているのだ!』と言っておいでです。開発、便利さ、富、そう言った物を追い求めて、自然を傷つけて来たので、地球が揺れ動き、風呂桶をひっくり返した様な暴雨が降っているのではないか、そう思えてなりません。人間の強欲と傲慢と非礼への<しっぺ返し>かも知れません。

(写真は、”Goo”による噴煙を上げる「御嶽山」、”九州大学”による「地球の構造」です)

秋は夕暮れ

 

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高校の「古文」の授業で、清少納言の「枕草子」を学んだことがあります。その初めのところに、次の様にありました。

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春は曙・・・夏は夜・・・
秋は夕暮(ゆうぐれ)。夕日のさして山端(やまぎわ)いと近くなりたるに、烏(からす)の寝所(ねどころ)へ行くとて、三つ四つ二つなど、飛び行くさへあはれなり。まして雁(かり)などのつらねたるが、いと小さく見ゆる、いとをかし。日入(ひい)りはてて、風の音(おと)、蟲の音(ね)など。(いとあはれなり。)                                冬はつとめて(早朝)                  「青空のホームページ」より

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秋の美しさや趣を感じられるのは、「夕暮れ」時が際立っていて、山際に沈んで行こうとする夕陽が、ことのほか感じ入るのだと言っているのでしょうか。東京から香港に飛び、香港から寝台列車に乗って北京に来たのが、2006年の八月の下旬でした。そこにバスで迎えてくれ、天津のアパートまで連れて来てくれたのが、ドイツ人の夫妻でした。

着いたのが夕刻でした。食事に連れて行ってくれ、すっかり用意してくださった部屋に入った時は、ベッドも作られていました。この若い夫妻が、用意しておいてくれたのです。すでに日本から送った物が、部屋の隅に置かれてありました。そこで天津での生活が始まったわけです。

七階の陽当たりの良い部屋で、日の出から日の入りまで、ベランダで眺めることができました。大平原に落ちて行く、大陸の夕陽を見た時、紅のような赤さと、見たことのない大きさに度肝を抜かれたのです。日本では見たことのない壮大で、神秘的な様だったからです。その時に思い出したのが、中村雨紅の作詞、草川信の作曲の「夕焼け小焼け」でした。

1 夕焼け小焼けで 日が暮れて
山のお寺の 鐘が鳴る
お手手つないで みな帰ろう
烏(からす)といっしょに 帰りましょう

2 子供が帰った あとからは
円(まる)い大きな お月さま
小鳥が夢を 見るころは
空にはきらきら 金の星

日本の自然の美しさと違った、中国大陸の大きさと美しさに圧倒されてしまったのです。『長安の都で、宮仕えをした、安倍仲麻呂も、同じように感じたにだろうか?』などと思ってみたりしました。やはり、この大陸でも、秋には「夕陽」が一番似合うと言うことに納得したわけです。そのベランダの目の前に、高い煙突がありました。暖房の温水を作り、アパートの各部屋に配水する施設のものでした。十月の中頃には、もくもくと煙を吐き出していたでしょうか。

その煙突が、やけに思い出されるのです。あの近辺では一番高いアパートの七階だったので、視界が大きく広かったのです。そこで夕陽や月を眺めたのですが、煙突が屹立(きつりつ)して、頼もしかったわけです。

(写真は、文中の天津の「煙突」と「夕陽」です)

運動の秋 2

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中高の六年間通ったのは、男子校でした。替え歌で、『♭・・・櫟林(くぬぎばやし)のその中に 粋な男がいると言う・・・♯』と歌っては、むさ苦しさを掻き立てていたのです。その学校は、「大正デモクラシー」の自由な時代の風を受けて、<体と頭を動かす教育>をしたいとの初代校長の教育理念の結晶だったようです。そんな教育のあり方に感じ入った父が、『雅、行ってみるか!』と言って入れてくれた学校でした。12才の子供と18才の大人の<六年の年齢差>は大きかったのです。ヒゲの濃い、いかつい高三から小学生に毛の生えた様な中一が、同じ敷地の中で学んだのです。

今頃は、運動会に向けて、午後は、中高の縦割りで、応援の練習が校庭で繰り広げられていました。早稲田や明治の応援歌の替え歌を歌わされました。大きな班旗がふられ、『♭ 紺碧の空 仰ぐ日輪・・・♯』とか『♭ 武蔵野秋空 希望に高く 意気は・・・♯』を、『声が小さい!』と叱咤されて大声で歌ったのです。風薫る季節、真っ青な秋空、バンカラな感じが相まって、運動会の当日よりも、それまでの練習の日々のことが、実に懐か思い出されます。

籠球部(バスケットボール部)に入部したら、高校のインターハイや国体の東京都予選の応援に駆り出されては、ボールを持たされて、先輩の後をついて回りました。九段、小石川、両国などの高校巡りをしたのです。それでも、帰りには、<ご苦労さん会>で、食事をご馳走してもらいました。決まって、新宿の西口の線路際の、棟割長屋のような小さくて小汚い食堂に連れて行かれたのです。空きっ腹に、実に美味しかったのです。どの先輩がおごってくれたのか覚えていません。

また、秋だったと思いますが、マラソン大会がありました。高校二年だったでしょうか、送球部(ハンドボール部)に入っていたのです。一番ビリで走り始めて、何人抜けるかを試したのです。ちょっと小生意気でしたが。この時だけ、同じ敷地内にあって、金網で仕切られてあった女子部の生徒が、沿道から応援をしてくれたのです。『マサヒトさーーーん!』と声を掛けてくれたのです。そうしたら鞭の入った競走馬のように、韋駄天(いだてん)で走り抜けたのです。そんな声が掛かったのは、自分ひとりで、『マサ、もてるじゃあねえか!』と、みんなに羨ましがられたことがありました。

焼いた秋刀魚(さんま)の匂い、その白い煙りが、薄暗がりの運動場にたなびいていました。勉強はあまりやらなかったのですが、いやー、みんな昨日のことのようです。

(写真は、秋の旬の味「秋刀魚」の塩焼きです)

東京ラプソディー

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1936年(昭和11年)に、当時の東京の繁華街を歌い込んだ、「東京ラプソディー」が流行ったそうです。父が二十代、母が十代の頃になります。門田ゆたかの作曲、古賀政男の作曲で、藤山一郎が歌いました。

1 花咲き花散る宵も
銀座の柳の下で
待つは君ひとり 君ひとり
逢えば行く ティールーム
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京

2 現(うつつ)に夢見る君の
神田は想い出の街
いまもこの胸に この胸に
ニコライの 鐘も鳴る
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京

3 明けても暮れても歌う
ジャズの浅草行けば
恋の踊り子の 踊り子の
ほくろさえ 忘られぬ
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京

4 夜更けにひととき寄せて
なまめく新宿駅の
あの娘(こ)はダンサーか ダンサーか
気にかかる あの指輪
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京

5 花咲く都に住んで
変わらぬ誓いを交わす
変わる東京の 屋根の下
咲く花も 赤い薔薇
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京

銀座は、何と言っても、日本の流行の先端を行く華やかさを持った街で、昔も今も日本一の街です。これに倣って、地方都市の一番繁華な辺りを、「◯◯銀座」と呼んで、人を集めるようになっていました。神田は、その周辺に大学や女子大や専門学校などが多く、<学問の府>と言えるでしょうか。学生たちの向学心や青春が渦巻いていた街でした。浅草は、映画や演劇の娯楽の街で、週末は人で溢れかえっていたそうです。そして新宿は、もともとは 甲州街道の宿場町でしたが、昭和初期に、ボツボツ人気の出て来た新興の街だったようです。

父は横須賀生まれでしたが、大森(羽田空港の近く)から、旧制中学に通っていて、東京の空気を吸って生きていたようです。母は出雲の出身ですから、はるか に憧れの目と心を、この東京に向けていたのでしょう。北京にも上海にも、私たちが住んでいるこの街にも、人気と伝統のある街があります。どうも、ここでは日本のように、都市や繁華街を歌で歌うようなことはないようです。

「池袋・・・」とか「長崎・・・」とか、その町の思い出や特徴を歌い込んだ歌は、日本独自のものなのでしょうか。この日本人の手にかかると、「サンフランシスコ」も「パリ」も「上海」も、「釜山」でさえも歌で歌ってしまうのですね。「思想」も「演説」も、歌で主張する歴史がありました。

「わらべ歌」や「童謡」や「唱歌」も日本の文化であり,独特な日本人の心の動きや表現なのでしょうか。先月、二人の小学生の女の子が、手のひらをパンパンと触れ合いながら、無言で遊んでいました。それを眺めていた私は、『日本にも同じ遊びがあるんだ。だけど、歌を歌いながらするんだよ!』と言って、『せっせせのよいよいよい、夏も・・・』と歌って上げたら、不思議そうにしていました。こう言った遊びの違いや共通性を調べたら面白そうですね。

(写真は、”WM”による富士山を望む「東京」です)

天高く馬肥ゆる秋

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「天高く馬肥ゆる秋」です。<天が高い>と言うのは、空気が澄んで爽やかでしのぎやすさを意味しているのでしょうか。<馬肥ゆる>と言うのは、美味しいものがたくさん収穫されて、食欲が増進し、健康的な季節を意味しているのでしょうか。まさに秋なのでしょう。

ここ華南では、日本で、生まれた時から感じ取って来た秋とは、だいぶ違ったものなのです。何しろ時間的に短いのです。『あっ、秋だ!』と感じたらすぐに、冬の到来なのです。1〜2週間ほどでしょうか。それでも夜間は、長袖や薄手のうわぎが欠かせないので、温度の日較差が段々と大きくなるのに注意しないと、風邪を引いてしまうのです。よく、こちらの方に、『注意してください!』と言われてしまいます。

「馬肥ゆる」と言っても馬ばかりではありません。気候が快適で、食欲が進んで、何でも美味しいので、人が肥えてしまうのです。自分にとって禁物なのが、「柿」なのです。ドリアンもマンゴスチンも美味しいのですが、日本に古くからある果実、この「柿」が、大好物なのです。今日も出かけてからの帰り道の小型スーパーで、「柿」が並んでいました。一旦は素通りしたのですが、もどって来て、買ってしまいまいました。日本で食べていた「次郎柿」に形がそっくりだったからです。まだ渋そうでしたが、家で皮をむいて、食べましたら、色の割には美味しかったのです。

でも、最盛期の「富有柿」とか「御所柿」に味には及びません。まだ早生なのかも知れません。もうしばらくして、涼しくなったら、甘くて食べると果汁が滲み出るような「柿」が出てくることでしょう。去年は、それにありつけたからです。そうしたら、「人肥える秋」になってしまうので、注意しないといけませんが、この食欲に勝つためには、相当な意思力が必要なようです。こちらの友人知人には、<柿好きな>であることを誰にも言っていません。日本では言ってしまって、毎年秋には、柿を頂くことになってしまったので、言わないのです。

『あっ、柿だ!』、山路で美味しいそうな「柿」を見つけて、みんなで採って食べたことがありました。食べ終わったら、そこは柿畑だったのに気づいて、罪意識を覚えて、そそくさと引き返したのです。あの中に、私の恩師もいました。<柿ドロボー>をさせてしまったのは、本当に申し訳ないことしてしまったのです。その恩師も、もう召されて12年になります。

(写真は、”ぐるなび食市場”による「御所柿」です)

読書の秋

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「読書の秋」、今頃は、図書館の閲覧室は、座る席がないほど混み合っているのでしょうか。帰国する度に、兄の自転車を借りて、市内の図書館に、よく行きました。ある時は、多摩川を渡って、隣の市の図書館にも行ったことがあります。 学校に行っていた頃は、立川や青梅の図書館にも行きました。それは、試験の前の<ノート写し>のために、4〜5人が集まっては、黙々と写していたのです。

そういえば、図書館には独特の<匂い>があります。本のインクと年月を経た紙の匂いでしょうか。あるいは<本の虫>が運んで来る<読書好き>の匂いかも知れません。最近では、コピー・サーヴィスがあるのですね。また、珈琲や軽食のとれる一郭があって、一日中、空調の入ったところで<読書三昧>で過ごせるのです。そういえば、昔の図書館は暗かったのではないでしょうか。採光が好くなかったのと、電灯が少なかったし、照度も低かったのです。今は、どこでも好く設計されて整えられています。でも書庫が高くて、<仄暗さ>のあった頃が懐かしいですね。

また、近頃は、ネット回線の図書館が開かれています。よく開くのは、「青空文庫」です。著作権に制限を受けない作品が、ネット上で読むことができますし、ダウンロードも許可されているのです。夏目漱石や田山花袋や芥川龍之介、魯迅までも、その名作が読めるのです。

本と言えば、何時でしたか、古本屋で買った本の中に、<五百円札>を見つけたのです。板垣退助の肖像の新札でした。このお金の旅が、その本の中に封印されて、どこにも動きを取れない運命だったのです。『いつか家内とコーヒでも!』と、挟んだのでしょうか。それを忘れてしまったまま亡くなられて、奥様の手で古本屋に、その本を蔵書とともに買い取ってもらい、それが私に買われてやって来たのでしょうか。『本もお金も丸ごと買ったんだ!』、『しめた!』で好かったのでしょうか。でも、ちょっと正直になった私は、古本屋さんに連絡して、『かくかくしかじか!』を伝えたのです。店主は、『好いんじゃないですか、お使いになって!』と言う返事でした。

今度帰国したら、古本屋巡りを、どこか地方都市でしてみたいものです。そうしたら、過ぎ去った時代の人の<ものの考え方>や文化習慣と出会うことができそうですから。そう言えば昨日は、「秋分の日」でした。こちらの暦には祭日の印がなかく、授業がありましたので、忘れていました。

(写真は、”横浜金沢観光協会”の「金沢文庫」です)

 

昭和は遠くなりにけり

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中央自動車道を、新宿に向かって走る上り線で、遠くに多摩川の流れが視界に入ってくるあたりで、左側のバスの車窓から、私の母校が見えます。校庭の広さや校舎の建て位置は変わっていませんが、校舎も周りの風景も全く変わってしまっています。校舎がコンクリートの耐震建築だと言うことが分かります。あの頃は、木造で、冬になるとストーブの薪が足りなくて、校舎の端の板を剥がして燃やしてしまったこともあったのです。

そこは、二年の二学期から卒業まで通った小学校です。通ったのは事実ですが、低学年の頃は、病欠児童で、通学日数が極めて少なかったのです。それでも四年生の後半ごろから、元気になって、体育の時間には、『おい廣田、みんなの前で跳んでみろ!』と言われて、跳び箱の試技をやらされたりで、元気に回復していたのです。

三つの小学校に通いましたが、最初の学校は入学式も、その後の授業もほとんど受けませんでしたし、二番目の学校は分校でした。ですから、懐かしいのは三番目の卒業した小学校なのです。校長が小池先生、最初の学級担任が内山先生だったのを覚えています。内山先生には褒められたので、小池校長は、校長室に立たされたので覚えています。

中村草田男が、こんな俳句を詠んでいます。

降る雪や明治が遠くなりにけり

久しぶりに、草田男が母校を訪ねたのです。草田男が小学校に通ったのは、明治の終わりから大正の初めでした。昭和になっての訪問だったようです。母校の佇まいは、ご自分の通学時と変わりませんでした。その同じ校舎の中から、子どもたちが、いっせいに校庭に飛び出し来たのです。その時、草田男が見た後輩たちに、<明治の少年たち>の姿がなかったのです。『ああ、一切は過ぎ去ったのだ!』、『明治と言う懐かしい時代は永久に過ぎ去ったのだ!』と、彼は瞬間に思って、そう詠んだ句なのだそうです。

高速道を高速で走る車窓から眺めて、その変化を感じているのですから、校門をくぐって、校庭に回って、そこに立って校舎を眺め、校庭で運動をする後輩たちを見たら、『ああ、昭和と言う懐かしい時代は遠くなりにけり!』と、つぶやくのではないでしょうか。最初の小学校は、廃校になり、二番目の分校は、本校に吸収されてありません。人生短し!

(浮世絵は、葛飾北斎の描いた「武州玉川」です)

運動の秋

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「運動の秋」です。おととしの夏の八月に、上海からの日中連絡船「蘇州号」で、大阪国際港に上陸しました。その晩、『カプセルホテルに一度泊まってみたい!』との願いを叶えたくて、地下鉄に乗り込んで、予約した心斎橋のホテルに行こうとしていました。朝の十時過ぎでしたから、ホテルに入るには、まだ相当の時間があったので、『どう時間を潰そうか?』と考えて、座っていましたら、『そうだ、八月は甲子園の高校野球の大会があるんだ!』と、ふと気付いたのです。そばにいた高校生に、『甲子園は、どう行ったらいいの?』と聞いて、教えてもらった駅で乗り換えて、甲子園行きにホームで待っていました。

そこに三人連れのご婦人がいて、帽子とメガホンを持っていましたので、話し掛けたのです。結局、この方たちに同行して、入場券まで頂いて、これも長年の夢であった、『甲子園で高校野球を観戦したい!』が実現して、球場に入ったのです。照りつける夏の日差しの中で、岩手県と島根県の代表校の対戦が始まっていました。母のふるさとの代表校の三塁側の応援席に座って、応援を開始したのです。とても好い試合でした。

私がやっていた運動は人気がなかったのですが、この野球は花形スポーツで、選手数も観戦者数は雲泥の差でした。腕一本、バット一本、グローブ一つで、スター選手になれる世界なのです。長男も小・中でやっていて、プロ選手を目指した時期があったほどでした。すでに引退した松井、今や最盛期を過ぎたイチローと、ほぼ同世代です。野球の選手生命は、短いのですね。ことし、ヤンキース入に団した田中投手は、大活躍したのですが、肘の故障で戦力外になってしまいました。幾何学的な数字の契約金で入団したのに、体が資本の野球には、「故障」と言う問題がつきまとうようです。

前から気懸りだったことがあります。<投球数過多>、<登板日数過多>が、投手の故障の原因だと言われているようです。高校野球ですが、県予選(都道府もです)の初回から、甲子園の決勝戦まで、一人の投手が投げ続けるのが、一つの構図です。『管理上、これで好いのかな?』と、門外漢の私ですが思い続けて来ました。肩や肘の故障で、有能な投手が、多く消えて行きました。『勝ち続けるために!』仕方が無いとは思いません。猛省を促したいと思う、<運動の秋>であります。

(写真は、巨人軍の名投手だった「沢村栄治」です)

食欲の秋

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「食欲の秋」になりました。昨夕、『乡下(郷下、田舎の意味です)で採れた薩摩芋です!』と言われて頂きました。この方の故郷から届いたそうです。この時期の物は、水気が多いそうで、『美しいのは冬場の芋なんです!』と言っていました。こちらでは、根菜が安くて、種類も豊富です。よく買ってくるのが、<紫芋>なのです。薩摩芋の一種で、果肉が紫色をしていて、甘くてホクホクで美味しいので、最近は、こちらばかりを買って来て食べているのです。

青木昆陽の話を、小学校の社会科で学びました。米の育たない痩せた地に植えることを、農家の人たちに奨励し、収穫した薩摩芋を食べて、飢えから人々を救った人として有名です。それで彼のことを、人々は、「甘藷先生」と呼ぶようになったのです。元は蘭学者でしたが、将軍・徳川吉宗に、飢饉対策として、この甘藷栽培を進言した人でした。

江戸時代には、たびたび飢饉が日本を襲いました。米の不作、米価の高騰によって、土一揆などが起こったのです。そう言う世情の中で、甘藷の試作が行われ、四年後に成功したと言われています。原産はフィリピンで、中国を経由して日本にもたらされたそうです。

この日曜日に、一緒に車に乗せて頂いた方が、こんな話をしておいででした。この街のバスターミナルから高速バスで、1時間半ほどの所にある島の出身なのだそうです。子どもの頃は、島を結ぶ連絡船に乗らなければならなかったのだそうです。私たちが五年ほど前に訪ねた時は、まだ島との間が架橋される前でしたし、高速道路もありませんでしたので、朝出て昼過ぎに着いたほどでした。

この島は、痩せた土地で、米を作ることができなかったそうで、『主食は、この<薩摩芋>でした!』、『兄弟がたくさんいて、何時もお腹を空かせていた毎日でした!』と言っておいででした。日本でも、飢饉の時に、とくに東北などでは米が採れないで、粟や稗や芋を食べていた時期があったのです。この方は、そんな苦労を微塵も見せずに、何時も明るく微笑みを絶やさないのです。

さあ、今日は、頂いた<地瓜digua>を蒸かしてみることにしましょう。瓜ではないのに、そのように、この地方では呼ぶのです。やはり、<薩摩芋>は、秋に似合いそうです。小学校の時、まだ給食のなかった私の学校で、この芋を弁当に持って来ていた級友がいました。そんな時代を思い出している、真夏のような天気の九月中旬の週日です。

(写真は、”イチからわかる野菜の育て方”による「サツマイモ」です)