落葉

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フランスの詩人、ヴォルレーヌが “Chanson d’automne” [Paul Verlaine
(秋の歌「落葉」 ポール・ヴェルレーヌ)]という詩を、1866年に出版した詩集の中に掲載しています。ヴォルレーヌが二十歳の時に作ったものです。それを、1905年に、上田敏作の翻訳で、「海潮音」の中に掲載しました。

落葉                 上田敏 (『海潮音』より)

秋の日の
ヰ゛オロンの
ためいきの
ひたぶるに
身にしみて
うら悲し。

鐘のおとに
胸ふたぎ
色かへて
涙ぐむ
過ぎし日の
おもひでや。

げにわれは
うらぶれて
ここかしこ
さだめなく
とび散らふ
落葉かな。

パリで生きる青年のうら悲しさが詠まれています。これを、何人かの人が翻訳していますが、上田敏訳が高く評価されているようです。「秋のシャンソン」という箇所を、「落葉」と訳したのが好かったのでしょう。明治の息吹が感じられる文語体の詩は、島崎藤村の詩に似て、簡潔で、歯切れが良くて素晴らしいと思います。パリで詩が詠まれた頃の日本は、「勤皇佐幕」に二分し、若者たちが国の将来を、それぞれに思い考えながら、夢を持ち、行動し生きていた時代でした。

こも詩を上田敏が紹介したのは、明治維新が過ぎ、欧化主義の動きも一段落し、明治の末期に生きる青年たちに好まれたのでしょうか。ちょっとおセンチな感じですが、シャンゼリゼ通りを感じさせたり、同世代のフランス青年たちを、日本の青年たちに思わせるには十分だったのでしょう。

そろそろ、私が生まれ育った故郷では、林道に入ると、そこは落ち葉で敷き詰められ始める頃でしょうか。歩くと落ち葉が渇いた音を立てて、『もうすぐ冬だぞ!』と語りかけるかの様でした。春の山歩きには、新芽が吹き始め、やがて、新緑が陽に映え、いのちの息吹を感じさせてくれるのですが、秋は、山の自然全体が「休息」に入ろうとしているのです。うあー、枯れ葉の音が聞こえ、その匂いがして来そうです!

高尾山から「明治の森(正式には[明治の森高尾国定公園]だそうです」を経て、相模湖に下って行く山路は、何とも懐かしく思い出されてきます。一人で、仲間で、子どもたちを連れて、何度も歩いたからです。陽の光と空気、音と匂いと風、秋から冬にかけて、この山路が目に浮かんできます。弟からの先日のメールに、この山路を、ある夫妻を案内して歩いた、高一の時の思い出が書いてありました。『帰国したら、近くに里山を一緒に歩いて見ましょう!』と誘ってくれました。

「落葉」を、<おちば>と読んだり、<らくよう>と読むのですが、前者は日本的な、後者はフランス的な感じがするには、私だけの偏見でしょうか。耳の底で、カサカサする音が聞こえる様です。{ヰ゛オロンとはヴィオロン、ヴァイオリンのことです}

(”写真部byGMO”による「落葉」です)

『おばあさんの新聞』

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今年の「新聞週間」に、日本新聞協会が、新聞配達にちなんだエッセイコンテストの発表をしました。その最優秀作品に選ばれたのが、岩國哲人(てつんど)氏の応募作品、『おばあさんの新聞』でした。次の様なエッセイです。

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『おばあさんの新聞』

一九四二年に父が亡くなり、大阪が大空襲を受けるという情報が飛び交う中で、母は私と妹を先に故郷の島根県出雲市の祖父母の元へ疎開させました。そのー後、母と二歳の弟はなんとか無事でしたが、家は空襲で全焼しました。
小学五年生の時から、朝は牛乳配達に加えて新聞配達もさせてもらいました。日本海の風が吹きつける海浜の村で、毎朝四十軒の家への配達はつらい仕事でしたが、戦争の後の日本では、みんながつらい思いをしました。
学校が終われば母と畑仕事。そして私の家では新聞を購読する余裕などありませんでしたから、自分が朝配達した家へ行って、縁側でおじいさんが読み終わった新聞を読ませていただきました。おじいさんが亡くなっても、その家への配達は続き、おばあさんがいつも優しくお茶まで出して、「てっちゃん、べんきょうして、えらい子になれよ」と、まだ読んでいない新聞を私に読ませてくれました。
そのおばあさんが、三年後に亡くなられ、中学三年の私も葬儀に伺いました。隣の席のおじさんが、「てつんど、おまえは知っとったか?おばあさんはお前が毎日来るのがうれしくて、読めないのに新聞をとっておられたんだよ」と。
もうお礼を言うこともできないおばあさんの新聞・・・。涙が止まりませんでした。

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この岩國哲人氏は、島根県知事(2022年4月初めに、お父上が知事だったそうで、哲人氏はそうでないと指摘がありました!ありがとうございます!)や国会議員をした政治家でしたが、現在は引退して渋谷にお住まいで、78歳です。お父様を小1で亡くし、お母様の実家の島根県に引越しをされ、小5の時に新聞配達を始めたのです。貧しかったので、新聞購読ができず、配達した家のおじいさん、おじいさんが亡くなった後は、おばあさんに読み終わった新聞を読せてもらったのです。字の読めないおばあさんは、毎日やってくる哲人君のために新聞を取り続けてくれたことを、おばあさんの葬儀に参列して知るのです。

その激励のおかげで高校を卒業後、東京大学に進学し、実業界で活躍した後、政治の世界で活躍されたのです。母と同郷でしたので、岩國氏のことは存じておりました。私の長男も次男も、中学生の頃に新聞配達をしていたことがあります。風邪を引いた時、彼らの代理で、<新聞おじさん>をしました。<苦学生>は、今も大勢おいでなのでしょうね。朝早く働く<新聞少年>、<新聞学生>を、この華南の町の空の下から応援しています。

(”日本新聞販売協会”の「新聞少年」の像です)

古代の浪漫

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七才から二十歳まで住んでいた町に、「七つ塚」と呼ばれていた、不思議な地形の里山がありました。そこに、古代人の使った土器や石器があると言うことを聞いたのです。まだ、学術的な発掘が行われる前でしたが、小学校の五年の私は、そこに出かけて行き、土器の破片を拾って、家に持ち帰ったことがあります。長く保管していたのですが、引越しの時に、何処かに失ってしまいました。

その町で、はるか以前に、古代の人たちが、生活をしていたという場所と遺物に触れた、不思議な感覚を覚えたのです。この<古代の浪漫>を感じたくて、たった一人で、そこに出かけては、里山の雑木林の中を歩きまわって、土を掘り返したのです。小学校の文化祭だったでしょうか、生涯で初めての「研究発表」を、文書で提出した覚えがあります。少ない資料しかなかったのに、原稿用紙だったと思いますが、拙い文章で、その町の「歴史」を綴ったわけです。賞はもらえませんでしたが、古代史研究家になった様な、くすぐったい思い出があります。

市内の中学に上がらずに、電車通学で三つ先の駅で降りた町の中学校に進学しました。ここの高等部に、「歴史研究部」があって、担任で社会科教師の勧めで、夏休みや春休みに、調布市、府中市、私の母校の小学校の校庭で、「発掘調査」の手伝いをさせてもらったことがありました。スコップを片手に、表土に隠されている、生活の痕跡を探ることに、喜びを感じたのです。埋もれた土の中から、土器や石器を見つけた時は、何とも言えない興奮がありました。

高等部に進んでからは、運動部に夢中になって、あの興奮を忘れてしまいました。あのまま持ち続けていたら、きっと、大学も「古代史研究」を専攻し、学者になっていたかも知れませんが、横道に逸れてしまったのです。それでも、高校の社会科の教師もさせてもらったのですから、まんざら的外れになったわけでもなさそうです。

先日、ネットで検索しましたら、あの「七つ塚」が、「古墳群」だったことを、初めて知りました。 その後、何処かの大学や学者が発掘したのでしょうか。現代人の私たちは、 はるか昔の人たちの生活基盤の上で、そんなことを全く意識しないで生活をしているのでしょう。あの時代の人々と同じ様に、泣いたり笑ったり、喜んだり悲しんだりしているわけです。台風も、大雨もあったことでしょう。彼らと同じ様に、私たちも生きているに違いありません。私は、その町への流入者ですが、土地の人たちは、古代人の末裔なのでしょうか。わあー、彼らは、<古代の浪漫>の中に生き続けているのでしょうね。実に羨ましい限りです!

(”帯広百年記念館”による、縄文時代の土器です)

ボールを置く

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「筆を折る」とは、小説家が創作活動、文筆活動をやめてしまうことを言うのだそうです。そうしますと、野球の投手は、「ボールを置く」と言い、野手は「バットを置く」と言ったら好いのでしょうか。ニューヨークヤンキースの主将で、名内野手、名打者のジータが、今シーズンでバットを置きました。40才ででした。野球の選手生命と言うのは、短いのだと言うことを、また知らされた次第です。これから、折り返して、同じ程の歳月を、新しい分野で、彼は生きて行くことになります。

それは、研究者や経営者でしたら、基礎的な活動から、本格的な活動に入って行く年齢でしょうか。サラリーマンでしたら、定年まで、もう20年ほどあり、取締役にでもなれば、さらに、もう10年は働けるわけです。柔道で活躍した山下選手は、お父さんに、『柔道だけしか出来ない様な人であってはいけない!』と言われて、競技を続けていたそうです。

巨人軍の投手であった桑田真澄は、ボールを置いたあと、早稲田大学の大学院に入学して、新たに研究者の道に進み、修士号を得ています。その研究分野は、長くし続けて来た野球の「コーチ論」で、修士論文を書いたと聞いています。こう言うのを「一念発起」と言うのでしょうか。レストランのオーナーや、スポーツ店経営の道もあったかも知れませんが、彼の選び取りは、実に素晴らしいと思っています。

私の好きなアメリカ大リーグのヤンキースの投手で、ジータのチームメイト、名クローザーであった、マリアノ・リベラも、昨年で,ボールを置いています。パナマの漁師の息子で、高校卒業後は,鰯漁をしてお父さんを助けていたのですが,ヤンキースにスカウトされて、大リーガーとなった人でした。彼と懇意な方から話を聞いたことがあります。実に好人物だと言っていました。今は、どうされてるのでしょうか、慈善活動などをしていると言われていますが。

『第二の人生を、どう生きるか?』、有名無名を問わず、誰もが、そう問われているのでしょう。私の今も、最後の総仕上げをしているのだと思っています。自分のためだけではなく、誰かのためにも生きて来たと納得できる、そんな締めっくくりをしたいだけです。そんなことを思っている十月の半ばであります。いったい、私の折る物、置く物は、何なのでしょうか?

(”WM”による、ヤンキーススタジアムでの最後の投球後、マウンドの土を記念に手に取るリベラです)

人道的見地

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「一視同仁」と言う言葉があるそうです。中国語の「四字熟語」で、「すべての人を分け隔てなく慈しむこと」と言う意味です。これは、人種差別や蔑視に対して、反対の立場を取る考え方を言っています。小学校で、日本の歴史を学んだ時、村の掟を破ったり、重い年貢に耐えきれずに,村から出て行くことを、「逃散(ちょうさん)」と言うと教わりました。「人別帳(にんべつちょう)」に名がないので、「無宿」になり、「無宿人」と言われていたのです。

私たちが子供の頃を過ごした街にも、「部落」と呼ばれていた地域がありました。朝鮮半島からやって来た人たちが住んでいた地域や、戸籍法で特別な記入をされた人たち(今ではされていません)の住む地域でしょうか、そう呼んでいたようです。特別な差別用語で、みなさんを呼んだりもしたのです。その地域の人も、そうでない地域の人も、何一つ変わらないのに、そう言った区別を、私たちの社会ではして来た歴史があります。

職業にしても、多くの人がしたがらない仕事に従事して、家族を養って来ていました。かつての日本は、閉鎖的で、柔軟性のない差別社会でもあったのです。目を世界に向けますと、一つの民族が、そう言った差別や偏見のもとに、長く置かれて来た例があります。今では、奇跡的に国家として、2000年の空白の期間をへて、再建されています。そうです、「イスラル」です。

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彼らは、「ユダヤ人」と言われて、民族の離散の歴史の中を、主にヨーロッパの社会で生きて来ていました。その苦難の歴史の中で、最も困難な時代は、ドイツでナチスが支配権を握った後でした。彼らの「ユダヤ人撲滅運動」で、600万人と言われる人が死んで行きました。そんな中で、リトアニアに逃れた彼らが、人道的な立場で、日本を通過するビサを発行した、杉原千畝領事代理によって、日本にやって来ることのできた人たちが多くいたのです。

これらの人たちは、ウラジオストック(ロシアの極東部に位置)から船で、福井県の敦賀に上陸しました。着の身着のままの彼らを、銭湯を開放して入浴させたり、リンゴを配ったり食料などの援助をしたりして、敦賀市民が助けたのだそうです。その時の彼らの思いの中にあったのが、「一視同仁 」でした。彼らは、神戸や横浜の港から、オーストラリアやアメリカに渡って行ったのです。<日独伊>の三国同盟があったにも関わらず、人道上の見地から、そうしたのです。起死回生、日本人って素晴らしい面も、持ち合わせているのですね。そのビサで生き延びた人の子孫は、25万人にもなると言われています。

(写真は、”WM”による、現在の敦賀港、杉原の発行した「査証」です)

味覚の秋

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めっきり秋めいて参りました。ここは農村地帯ではありませんので、黄金色(こがねいろ)にゆれる稲穂を見ることはできません。郊外に出れば水田もあるのですが、出かけることがありませんので、想像するばかりです。でも、あちこちにある果物屋さんの店頭には、栗、梨、柿、葡萄、棗(なつめ)が、所狭しと並べられて、秋の到来を告げています。先日も、この省の葡萄産地に出かけた、若い友人夫妻が、息子が来ていると言うことで、大振りのカゴいっぱいの葡萄を届けてくれました。

日本の葡萄の生産地として有名な地、「果物王国」で生まれた私にとって、故郷を感じさせてくれる果物の一つで、たわわに実った葡萄の房が、秋の陽を受けている、ふるさとの様子を思い出させられました。こちらの果物は、日本同様に、いえ、それ以上に美味しいのです 。頂いた葡萄の房も、粒がふぞろいですが、甘さはとびっきりです。あまり人の✌️を加えて、剪定していないところが、こちらのよさでしょうか。

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この方が、柚子(youzi,日本では文旦と呼ぶのでしょうか)もくださったのです。省南の農村が産地で、何時でしたか、そちらに出かけた時に、バスの沿線の路肩に、山のように積んで売っていたのを眺めたことがあります。これも美味しいのです。隣に住んでいたら、届けて食べさせて上げたいほどです。ただ気持ちだけ、受け取ってください。

そうしましたら、一昨日、我が家の下の階の小学一年生が、玄関の戸を叩きました。『これ・・・』と言って、袋に入った小ぶりの栗を持って来てくれたのです。日本では見かけない、ドングリのような栗です。田舎があって、そこから届けられた物を、お裾分けしてくれたのでしょう。さっそく、包丁で栗に切れ目を入れて茹でました。この季節になると、時々いただくのですが、これが美味しいのです。小粒なので、皮をむくのが、ちょっと面倒なのですが、ホッコリして、秋を感じさせてくれる味なのです。

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「味覚の秋」、舌やお腹で,味わえる秋が最高の季節でしょうか。あ、もう一つ頂いていました、「梨」です。フランス梨のような形状で、皮は青いのですが、味は抜群に甘いのです。日本には、こんなに甘い梨はなかったと思います。訪問の息子には忙しすぎて、ゆっくり家にいてもらえなかったので、味を楽しむことがなかったようです。

ちょっと羨ましがらせてしまったようですね。こちらに、お出でになられたら、ご馳走いたしましょう。朝晩はともかく、今日の最高気温は、32度もありました。

(写真は、”百度”から、中国の葡萄と柚子と栗です)

10月10日

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「統計」、goo辞書によりますと、「[名](スル)集団の個々の構成要素の分布を調べ、その集団の属性を数量的に把握すること。また、その結果を数値や図表で表現したもの。「―をとる」「―を出す」「就業人口を―する」。」とあります。

今日、10月10日は、50年前に「東京オリンピック」の開会式が、首都東京に、新装なった「国立競技場」で行われた日です。その開会式を、テレビで観ていました。真っ赤なブレザーを着た日本選手団が、秋空に映えていたのを思い出します。私と同世代の聖火の最終ランナー坂井さんが、聖火台に点火した時、真っ白な鳩が放たれて、紺碧の秋空に舞い上がって行きました。さらに五機のジェット機が、五輪の五色の輪を空中に描いたのには、実に驚かされてしまったのです。

悲惨な戦争が終わって19年、焦土から立ち上がった日本が、起死回生の復興を遂げたことを、全世界に向けて、発信した一大出来事でした。それは、絶望し、落胆し、うなだれた日本人の頭(こうべ)を上げさせてくれた、スポーツの祭典でした。『世界のみなさん、日本は平和な国に蘇えりました。!』との挨拶を、世界に向けて語ったかのようでした。

その年、東海道新幹線が、東京と大阪を4時間(今では2時間25分)で結んで開業しました。戦闘機を作って来た頭脳と技術が、陸上の基幹交通として平和利用された証であったのです。19の春を生きていた私にも、『夢を捨ててはいけない。明日に向かって駆け出せ!』と語りかけてくれたのを覚えています。その秋、東京駅の新幹線の食堂車に、食材を積み込むアルバイトをしていました。空いている時間に、新幹線のプラットホームで、逆立ちをしたり、地上転回をして遊んだりしていました。

あの10月10日が、開会式に決定されたのは、統計上、この日が晴れである確率が高かったからでした。科学的な根拠に基づいて決定されていたのです。今日の東京の空は、どうでしょうか。台風19号が、沖縄に接近しているようですが。被害の少ないことを願いながら、東京に思いを向けている<ハナキン(華の金曜日)>の午後であります。

(”jijicom”による、聖火走者・坂井義則さんです)

春秋

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「春秋に富む」と言う言葉があります。「史記(齊悼惠王世家)」の「皇帝春秋富」からの出典です。「春秋」とは<年>のことで、<年齢>の意味でも用いられています。ですから、その意味は、『これから先、残されている年数が多い!』ということになります。

将来のある若者に、『あなたは春秋に富んでいますね!』と言うのです。これは私にも、青年期に当てはまった言葉ですが、それは瞬きの間のように過ぎて行きました。こちらでよく聞く言葉に、「時間過了很快」があります。『時の経つのは大変早いものです!』と言う意味です。中国に参りましてからの年月の動きもそう言うのですが、人生そのものを、そう言って悔やむのが人の常でしょうか。

これも、よく聞いた言葉で、「少年老い易く学成り難し。一寸の光陰軽んずべからず。」があります。『学ぶべき時に学んでおかないといけない。時間を浪費してはいけない!』との教訓なのでしょうか。学びを怠った者には、<後の祭り(時期を逃がして甲斐のないこと)>になってしまいます。

また、「春秋高し」と言う言葉もあります。『高齢である!』という意味になります。まさに私は、今や、「秋高し」です。ところが、一昨日のニュースに、今年のノーベル物理学賞を、赤崎勇氏が受賞することになったとありました。赤崎氏は85歳、私が、その年齢になるには、小学校入学から大学卒業までの年数以上の年月が残されていることになります。その挑戦は、『もう一度、初めめから勉強をやりなおしなさい!』でした。

この赤崎氏について、こんな逸話を同級生が語っているそうです。戦争中の軍需工場での勤労動員の折、クラス全員が教官に殴られることになったのだそうです。その時、『級長の私一人を殴ってください!』と、赤崎少年が前に進み出たことを覚えてるそうです。十代の中ほどで、そんな素晴らしい心を持った少年だったことに、感動させられます。その後、どんな風に生きて来たかは、推して知るべしですね。

このノーベル賞受賞に、心から、『おめでとうございます!』と申し上げます。

(”jijicom”による、赤崎勇氏です)

アモイ

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今週、七年ぶりに、厦门(Xiamen、アモイ)に参りました。私たちを訪ねてくれた長男を伴って<動車Dongche、中国版の新幹線>に乗って,夕方、着いたのです。駅頭に、車で迎えて頂き、北駅から40分ほど、よく整備された道路を走って、街の中心にお連れ頂いたのです。厦门大学の海寄りの道路に来た時、その場所が記憶にありました。初めて来た時に、海浜に高架の道路が建設されたばかりで、そこを車で通ったことがあったからです。

当時、高速道路も動車もありませんでした。長距離バスに乗っての小旅行だったのです。厦门巿内も、高層建築はわずかでしたし、古い街並みを見ることができたのです。でも今週見た市内には、バス専用の市内を運行するバス専用(BRT)の道路ができ、高いビルが立ち並んで、その変容ぶりはきわだっていました。 とくに国慶節の休み中でしたから、多くの観光客が、街歩きをしているのを、見かけたのです。

『どこかの街並みに似てる!』と思ったのですが、シンガポールの中華街周辺の町並みに似ているのです。行ったことがありませんが、写真でみたスペインやイタリア風の建て方なのでしょうか。何度かシンガポールに行きました時に、娘が住んでいましたので、早朝、よく散歩をしましたからよく見知っていたわけです。街作りのモデルになるのは当然なわけで、このシンガポールの人口の78%が中華系の人たちだからです。

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アモイの街の中は、とても綺麗で、静かなのです。開放政策が行われた時に選ばれた街の一つが、この街だからでしょうか、今も、市民の平均収入は、国内でも非常に高い、豊かな街だそうです。もう少し時間があったら、好かったのですが、時間の都合で一泊しかできませんでした。一緒の息子に、もう少し多くのところを見せたかったのですが、次回に譲ることにした次第です。

彼は初めての中国でしたが、二つの街で出会ったみなさんとの交わりを通してでしょうか、すっかり中国と中国のみなさんに好感を持ったようです。『今度は、ご家族でおいでください!』と言われていました。ぎこちない中国語を使っていましたが、通じたのか通じなかったのか、それを喜ばれてもいたようです。昨日は、昼食と夕食をご馳走になって大喜びでした。『これは、朝五時に漁れた自然のエビです。養殖ではありません!』と言われて、頬張ったエビの美味しさに感動していたほどです。

今朝、友人が、六時前に迎えに来てくださって、空港までお連れいただき、北京経由で、成田まで帰って行きました。ちょっとせわしなかったのですが、好い旅行だったことでしょう。空港のケンタッキーで、家内が払おうとした隙に、払って頂いた「ラテ・コーヒー」が、ことのほか美味しかった早朝でした。

(”百度”から、厦門大学、BRTの駅です)

粧いの秋

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「笑う」、「滴(したた)る」、「粧(よそお)う」、「睡(ねむ)る」と言う四つの動詞があります。明の時代の楊愼撰は、「画品」と言う作品の中で、『山は春には笑い、夏には滴り、秋には粧い、冬には睡る。』と、記しました。自然界の一年の移り変わりを、こう言ったことばで表現する、<感性>に驚かされしまいます。

[畫品]
郭煕四時山、
春山淡冶而如笑、
夏山蒼翠而如滴、
秋山明浄而如粧、
冬山惨淡而如睡。

こう言った世界が目の前に広がっているとするなら、山が新芽を吹いて、まさに笑う様に見え、山が雨を頂いて青々と滴る様に見え、紅や黄に変色した山が着飾る様に見え、やがて眠る様に山が休息しているのが感じられるのです。その様に感じられる国があるなら、それは私たちの祖国だと思うのです。

秋十月、「粧いの秋」の到来です。定山渓も、渡良瀬も、日光も、箱根も、白樺湖も、蒜山も、四万十の源流も、阿蘇も、紅葉で着飾ろうとしているのでしょうか。私の生まれた中部山岳の山村も、秋の山は見事でした。猿や鹿や熊が出没した、幼い頃の故郷のことをよく覚えています。アケビや山の梨や柿や栗の実を採って食べたのです。小川では、ヤマメの魚影を見たり、捕まえようとして逃げてしまったり、そんなこともありました。

日本列島は「山紫水明」、「四季鮮明」な自然の中にあり、日本人もまた、「感性豊富」な民なのではないでしょうか。我が家のベランダ、から、ビルの向こうに、そう高くない山が見えます。でも目の前には見えません。先週土曜日に、森林公園からもう少し奥まで山歩きをしてみたのです。木々の間を歩いたのではなく、舗装道路をずっと歩いたのですが、華南の夏の名残のする山路は、まだ夏山の様に見えました。

五日市の駅から山に分け入って、一人で山歩きをした中二の頃から、御前山、瑞牆山、茅ヶ岳、入笠山など、低い山歩きをして来ましたが、どの山も、個性的で刺激的でした。決して登山愛好家などではない私ですが、山に登ろうとし、山を愛する人たちの心は、よく分かります。みなさん、笑っている山のように笑いたいのでしょう。滴る様な湿潤さに身をおいてみたいのでしょう。粧っている様に、心を粧いたいのでしょう。そして、眠っている山を、起こさない様に静かに登ったり下りたいのでしょう。

昔の人は、自然と一つになって、和して生きていたと言うことでしょうか。自然への感謝が、心に溢れていました。それを現代人は、残念なことに、忘れてしまったのではないでしょうか。

(”山の写真集”による「茅ヶ岳(山頂が三角形)です)