「一視同仁」と言う言葉があるそうです。中国語の「四字熟語」で、「すべての人を分け隔てなく慈しむこと」と言う意味です。これは、人種差別や蔑視に対して、反対の立場を取る考え方を言っています。小学校で、日本の歴史を学んだ時、村の掟を破ったり、重い年貢に耐えきれずに,村から出て行くことを、「逃散(ちょうさん)」と言うと教わりました。「人別帳(にんべつちょう)」に名がないので、「無宿」になり、「無宿人」と言われていたのです。
私たちが子供の頃を過ごした街にも、「部落」と呼ばれていた地域がありました。朝鮮半島からやって来た人たちが住んでいた地域や、戸籍法で特別な記入をされた人たち(今ではされていません)の住む地域でしょうか、そう呼んでいたようです。特別な差別用語で、みなさんを呼んだりもしたのです。その地域の人も、そうでない地域の人も、何一つ変わらないのに、そう言った区別を、私たちの社会ではして来た歴史があります。
職業にしても、多くの人がしたがらない仕事に従事して、家族を養って来ていました。かつての日本は、閉鎖的で、柔軟性のない差別社会でもあったのです。目を世界に向けますと、一つの民族が、そう言った差別や偏見のもとに、長く置かれて来た例があります。今では、奇跡的に国家として、2000年の空白の期間をへて、再建されています。そうです、「イスラル」です。
彼らは、「ユダヤ人」と言われて、民族の離散の歴史の中を、主にヨーロッパの社会で生きて来ていました。その苦難の歴史の中で、最も困難な時代は、ドイツでナチスが支配権を握った後でした。彼らの「ユダヤ人撲滅運動」で、600万人と言われる人が死んで行きました。そんな中で、リトアニアに逃れた彼らが、人道的な立場で、日本を通過するビサを発行した、杉原千畝領事代理によって、日本にやって来ることのできた人たちが多くいたのです。
これらの人たちは、ウラジオストック(ロシアの極東部に位置)から船で、福井県の敦賀に上陸しました。着の身着のままの彼らを、銭湯を開放して入浴させたり、リンゴを配ったり食料などの援助をしたりして、敦賀市民が助けたのだそうです。その時の彼らの思いの中にあったのが、「一視同仁 」でした。彼らは、神戸や横浜の港から、オーストラリアやアメリカに渡って行ったのです。<日独伊>の三国同盟があったにも関わらず、人道上の見地から、そうしたのです。起死回生、日本人って素晴らしい面も、持ち合わせているのですね。そのビサで生き延びた人の子孫は、25万人にもなると言われています。
(写真は、”WM”による、現在の敦賀港、杉原の発行した「査証」です)