羽田飛行場

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東京オリンピックが開催されたのが、1964年(昭和39年)の10月でした。19才の青年期の真っただ中に、私もおりました。その年に、藤間哲朗の作詞、佐伯としをの作曲で、新川二郎が歌ったのが、「東京の灯よいつまでも」だったのです。

1 雨の外苑 夜霧の日比谷
今もこの目に やさしく浮かぶ
君はどうして いるだろか
ああ 東京の灯(ひ)よ いつまでも

2 すぐに忘れる 昨日(きのう)もあろう
あすを夢みる 昨日もあろう
若い心の アルバムに
ああ 東京の灯よ いつまでも

3 花の唇 涙の笑顔
淡い別れに ことさら泣けた
いとし羽田の あのロビー
ああ 東京の灯よ いつまでも

まだ学生で、外苑や日比谷を、女友だちを連れて歩くような社会人ではなかったのですが、淡い火影の揺れる東京の浪漫を感じさせられて、よく歌を覚えています。とくに、「いとし羽田のあのロビー」と言う、鼻音で歌う箇所が印象深いのです。まだ成田空港ができていませんでしたので、この羽田飛行場が、外国への行き帰りや訪日外国人の日本で唯一の玄関口でした。

この歌が流行ってから、十年以上も経ってからのことでした。一緒に働いていたアメリカ人の企業家の家族を、この羽田まで車で見送ったことがあったのです。車を駐車場に停めて、そのロービーで、休暇で帰国する彼らを見送りました。そこは東京なのですが、そこはかとなく外国を感じさせられる所だったのが印象的だったのです。人も物も匂いも、そこは欧米色で満ちていました。

今のような海外旅行が盛んになる前でしたから、日本人の旅行者は少なく、あの狭いロビーでも十分だったのでしょう。多くの外国人が行き来していた、そのロビーで、この歌のフレーズを思い出したわけです。見送りでも、しばしの<別れ>でしたので、留守の間の責任の重さを、ズシリと感じて家に一人で帰って行ったのです。日本に戻って来られる時も、この羽田に、彼らを出迎えたのですが、その時のことはよく覚えていません。何年も何年も経って、羽田が何度か改装されて、今のような大きく立派になってしまったのには、昔を知っている私は驚かされております。なぜか、あのロービーの人、物、匂いは記憶に鮮明なのです。

(”WM”による、当時の羽田飛行場の「国際線ターミナル」です)