「笑う」、「滴(したた)る」、「粧(よそお)う」、「睡(ねむ)る」と言う四つの動詞があります。明の時代の楊愼撰は、「画品」と言う作品の中で、『山は春には笑い、夏には滴り、秋には粧い、冬には睡る。』と、記しました。自然界の一年の移り変わりを、こう言ったことばで表現する、<感性>に驚かされしまいます。
[畫品]
郭煕四時山、
春山淡冶而如笑、
夏山蒼翠而如滴、
秋山明浄而如粧、
冬山惨淡而如睡。
こう言った世界が目の前に広がっているとするなら、山が新芽を吹いて、まさに笑う様に見え、山が雨を頂いて青々と滴る様に見え、紅や黄に変色した山が着飾る様に見え、やがて眠る様に山が休息しているのが感じられるのです。その様に感じられる国があるなら、それは私たちの祖国だと思うのです。
秋十月、「粧いの秋」の到来です。定山渓も、渡良瀬も、日光も、箱根も、白樺湖も、蒜山も、四万十の源流も、阿蘇も、紅葉で着飾ろうとしているのでしょうか。私の生まれた中部山岳の山村も、秋の山は見事でした。猿や鹿や熊が出没した、幼い頃の故郷のことをよく覚えています。アケビや山の梨や柿や栗の実を採って食べたのです。小川では、ヤマメの魚影を見たり、捕まえようとして逃げてしまったり、そんなこともありました。
日本列島は「山紫水明」、「四季鮮明」な自然の中にあり、日本人もまた、「感性豊富」な民なのではないでしょうか。我が家のベランダ、から、ビルの向こうに、そう高くない山が見えます。でも目の前には見えません。先週土曜日に、森林公園からもう少し奥まで山歩きをしてみたのです。木々の間を歩いたのではなく、舗装道路をずっと歩いたのですが、華南の夏の名残のする山路は、まだ夏山の様に見えました。
五日市の駅から山に分け入って、一人で山歩きをした中二の頃から、御前山、瑞牆山、茅ヶ岳、入笠山など、低い山歩きをして来ましたが、どの山も、個性的で刺激的でした。決して登山愛好家などではない私ですが、山に登ろうとし、山を愛する人たちの心は、よく分かります。みなさん、笑っている山のように笑いたいのでしょう。滴る様な湿潤さに身をおいてみたいのでしょう。粧っている様に、心を粧いたいのでしょう。そして、眠っている山を、起こさない様に静かに登ったり下りたいのでしょう。
昔の人は、自然と一つになって、和して生きていたと言うことでしょうか。自然への感謝が、心に溢れていました。それを現代人は、残念なことに、忘れてしまったのではないでしょうか。
(”山の写真集”による「茅ヶ岳(山頂が三角形)です)