昭和は遠くなりにけり

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中央自動車道を、新宿に向かって走る上り線で、遠くに多摩川の流れが視界に入ってくるあたりで、左側のバスの車窓から、私の母校が見えます。校庭の広さや校舎の建て位置は変わっていませんが、校舎も周りの風景も全く変わってしまっています。校舎がコンクリートの耐震建築だと言うことが分かります。あの頃は、木造で、冬になるとストーブの薪が足りなくて、校舎の端の板を剥がして燃やしてしまったこともあったのです。

そこは、二年の二学期から卒業まで通った小学校です。通ったのは事実ですが、低学年の頃は、病欠児童で、通学日数が極めて少なかったのです。それでも四年生の後半ごろから、元気になって、体育の時間には、『おい廣田、みんなの前で跳んでみろ!』と言われて、跳び箱の試技をやらされたりで、元気に回復していたのです。

三つの小学校に通いましたが、最初の学校は入学式も、その後の授業もほとんど受けませんでしたし、二番目の学校は分校でした。ですから、懐かしいのは三番目の卒業した小学校なのです。校長が小池先生、最初の学級担任が内山先生だったのを覚えています。内山先生には褒められたので、小池校長は、校長室に立たされたので覚えています。

中村草田男が、こんな俳句を詠んでいます。

降る雪や明治が遠くなりにけり

久しぶりに、草田男が母校を訪ねたのです。草田男が小学校に通ったのは、明治の終わりから大正の初めでした。昭和になっての訪問だったようです。母校の佇まいは、ご自分の通学時と変わりませんでした。その同じ校舎の中から、子どもたちが、いっせいに校庭に飛び出し来たのです。その時、草田男が見た後輩たちに、<明治の少年たち>の姿がなかったのです。『ああ、一切は過ぎ去ったのだ!』、『明治と言う懐かしい時代は永久に過ぎ去ったのだ!』と、彼は瞬間に思って、そう詠んだ句なのだそうです。

高速道を高速で走る車窓から眺めて、その変化を感じているのですから、校門をくぐって、校庭に回って、そこに立って校舎を眺め、校庭で運動をする後輩たちを見たら、『ああ、昭和と言う懐かしい時代は遠くなりにけり!』と、つぶやくのではないでしょうか。最初の小学校は、廃校になり、二番目の分校は、本校に吸収されてありません。人生短し!

(浮世絵は、葛飾北斎の描いた「武州玉川」です)

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