中高の六年間通ったのは、男子校でした。替え歌で、『♭・・・櫟林(くぬぎばやし)のその中に 粋な男がいると言う・・・♯』と歌っては、むさ苦しさを掻き立てていたのです。その学校は、「大正デモクラシー」の自由な時代の風を受けて、<体と頭を動かす教育>をしたいとの初代校長の教育理念の結晶だったようです。そんな教育のあり方に感じ入った父が、『雅、行ってみるか!』と言って入れてくれた学校でした。12才の子供と18才の大人の<六年の年齢差>は大きかったのです。ヒゲの濃い、いかつい高三から小学生に毛の生えた様な中一が、同じ敷地の中で学んだのです。
今頃は、運動会に向けて、午後は、中高の縦割りで、応援の練習が校庭で繰り広げられていました。早稲田や明治の応援歌の替え歌を歌わされました。大きな班旗がふられ、『♭ 紺碧の空 仰ぐ日輪・・・♯』とか『♭ 武蔵野秋空 希望に高く 意気は・・・♯』を、『声が小さい!』と叱咤されて大声で歌ったのです。風薫る季節、真っ青な秋空、バンカラな感じが相まって、運動会の当日よりも、それまでの練習の日々のことが、実に懐か思い出されます。
籠球部(バスケットボール部)に入部したら、高校のインターハイや国体の東京都予選の応援に駆り出されては、ボールを持たされて、先輩の後をついて回りました。九段、小石川、両国などの高校巡りをしたのです。それでも、帰りには、<ご苦労さん会>で、食事をご馳走してもらいました。決まって、新宿の西口の線路際の、棟割長屋のような小さくて小汚い食堂に連れて行かれたのです。空きっ腹に、実に美味しかったのです。どの先輩がおごってくれたのか覚えていません。
また、秋だったと思いますが、マラソン大会がありました。高校二年だったでしょうか、送球部(ハンドボール部)に入っていたのです。一番ビリで走り始めて、何人抜けるかを試したのです。ちょっと小生意気でしたが。この時だけ、同じ敷地内にあって、金網で仕切られてあった女子部の生徒が、沿道から応援をしてくれたのです。『マサヒトさーーーん!』と声を掛けてくれたのです。そうしたら鞭の入った競走馬のように、韋駄天(いだてん)で走り抜けたのです。そんな声が掛かったのは、自分ひとりで、『マサ、もてるじゃあねえか!』と、みんなに羨ましがられたことがありました。
焼いた秋刀魚(さんま)の匂い、その白い煙りが、薄暗がりの運動場にたなびいていました。勉強はあまりやらなかったのですが、いやー、みんな昨日のことのようです。
(写真は、秋の旬の味「秋刀魚」の塩焼きです)