不測の事態に

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結婚をする前だったでしょうか、ニューヨークの学校で教師をしている方の講演会が何度かあって、聴講したことがありました。この方は、ギリシャ系のアラブ人だったと聞いていましたが、若い時にはボクサー(拳闘家)だったことがあったり、面白しろい経歴をお持ちでした。何時でしたか、親しくなった私に、『マサ、髪の毛を刈ってあげよう!』と言って、ハサミを取り出して刈ってもらったこともありました。結構上手だったのです。

この方の講演の中で、自動車製造の工程に関わる話をきいたことがありました。デトロイトは、アメリカ自動車産業のメッカで、かつては活況を呈していた街でした。生産工程の中に、製造ライン方式を取り入れており、作業ラインの中で、ポイントごとに組み立て個所が違っていて、分業をしているのです。人が関わっていますので、<不測の事態>が起きて、この流れ作業が滞ることがあるのだそうです。

そう言った事態の対策が取られているというのです。このラインを見下ろせる工場内のある所に、特別室が設けられています。そこには数人の人がいて、普段は、本や新聞を読んだりしていても好いのです。一日中、何もしないで終える日もあります。ところが、組み立てラインの中で、作業員が怪我をしたり、体調不良になったりして、そこを離れなければならなくなった時に、作業の穴が生じます。その時に、<すわ鎌倉!>で、待機中のこの人が、その現場に駆けつけ、作業を担当するのです。そうするならラインを止めることなく、作業を継続できるわけです。

この作業員のことを<ミニットマンminite man>と呼ぶのだと、この方が言いました。この特別職の人は、どの部署の作業でもこなすことのできる技術者なのです。これは40年以上前の自動車工場の一コマですが、こう言った特別技能者が、どの世界にもいて、<不測の事態>に対応していたわけです。今も、きっとこう言った方々がいて、流れ作業が行われているのでしょうか。この興味深い話を、今でも、よく覚えております。

(写真は、WMによる、ニューヨークにセントラル・パークです)

今のいまを生きて欲しかった!

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『お父さん、とても好い映画があるんだけど、観たらいいよ!』、と娘に言われて観たのが、「いまを生きる(1990年日本上映)」でした。

どんな内容だったかと言いますと、「1959年、バーモントの全寮制学院ウェルトン・アカデミーの新学期に、同校のOBという英語教師ジョン・キーティング(ロビン・ウィリアムズ)が赴任してきた。ノーラン校長(ノーマン・ロイド)の下、厳格な規則に縛られている学生たちは、キーティングは「教科書なんか破り捨てろ」と言い、詩の本当の素晴らしさ、生きることの素晴らしさについて教えようとする。このキーティングの風変わりな授業に、最初はとまどうものの、次第に行動力を刺激され、新鮮な考え、規則や親の期待に縛られない、自由な生き方に目覚めてゆくのだった。キーティングは授業中に突然机の上に立って宣言する。「私はこの机の上に立ち、思い出す。つねに物事は別の視点で見なければならないことを! ほら、ここからは世界がまったく違って見える」。生徒も立たせ、降りようとした時に「待て、レミングみたいに降りるんじゃない! そこから周りをきちんと見渡してみろ!」と諭す。」と、ウイキペディアにあります。

この学校の卒業生で、教師のキーティングを演じたのが、ロビン・ウイリアムズでした。もう一度観たい映画の一つです。教室の机の上に立って、詩を吟じる姿が印象的でした。また、学生の間で起こった問題の責任をとって学校を退職することになり、学校を後にするキーティングを、在校生が、『Oh captian!My captiann!』と呼びかけて、見送る場面は、じつに感動的でした。

クラス担任をしていた時、問題を起こした生徒を退学させるか、残すかを決めなければならなくなったことがありました。私は、この学生を残すつもりでしたが、学年主任も教頭もは、<自主退学>にしようとし、そう処分が決まってしまいました。この学生の将来よりも、学校の対面を保つための体のいい<退学処分>になったのです。『これこそ天職だ!』と感じていた私でしたが、この一件で、教育への情熱がいっぺんに醒め、翌年春、年度終わりに、彼女に遅れましたが退職願を書いて学校を去りました。

問題の最中(さなか)に、アメリカ人実業家が、『一緒に働かないか!』と誘ってくれていたので、その決断に弾みがかかったことになったのです。それとともに、当時の学校の同僚の生き方や、教育の仕方への躓きもありました。ちょっと言えない内容ですが。時々、あんころ餅を作ってきて、作業員室でお茶を飲む席に、『先生、一緒に!』と誘ってくれた掃除のオバさんたちが、退職を惜しんでくれたのです。あの学生は、もう<おばあちゃん>をしているのでしょうね。

そんなことを思い出させてくれた、ロビンが数日前に亡くなりました。あの映画を観て、強い印象を持った方が多かったのに、病んでも自分の弱さに直面しても、年老いても、今のいまを生きて欲しかったと思っている、この週末です。

(写真は、”yahoo検索”より、「いまを生きる」の一場面のイラストです)

訪問旅行を終えて

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昨晩11時頃、二週間のシンガポールの長女の訪問旅行を終えて帰宅しました。飛行場まで三人の友人が出迎えてくださって、私たちとスーツケースを運んでくださり、大助かりでした。『これも持って行って使ってね!』と、娘に言われたCDプレーヤーを始め、乾燥牛蒡やシーツまで、インド街のショッピングセンターで買ってもらったスーツケースに入れたものを、運んでいただいたのです。田舎で、米俵を運んでいたと言う友人の奥様が、一番重いバッグを、ひょいと持って五階まで運び上げてくれたのには、驚きました。小柄なのに、ご主人よりも力持ちなのです。

家に帰りましたら、玄関の扉の下の三和土(たたき)の上に吹き込んだ雨が溜まっていたのにも、驚きました。今まで、そんなことがありませんでしたので、夕方に相当強い雨が降ったようです。飛行場に着いた時には、小降りになっていて、とても助かりました。普段、空港からはリムジンバスがあって、市の中心街まで行き、そこでタクシーを拾うのです。『50クワイア!』と、料金メーターでない料金で交渉をしかけて来て、三倍も取られますし、それに相乗りで、同じ方面の客を探すのです。同乗者からも同額を取る、あの大昔の<雲助>のようです。そんな目に合わないで、無事に帰宅できました。

今朝は,所轄の公安の派出所に,入国の手続きに,大家さんと一緒に行って,手続きを終えて帰って来ました。これで半年,来年の二月まで,こちらに滞在することができます。大家さんとは久しぶりにお会いして,好い話し合いの時をも持てました。好くしてくださる大家さんに,心のからの感謝をしたところです。

『暑い!』、赤道直下のシンガポールに比べて,格段に暑いのです。汗のかきどうしで,もう二度も着替えたところです。まあ覚悟して戻って来ているので,ここも<住めば都>であります。来週は,友人たちに誘われて,小旅行を予定しています。昨日の夕方,久しぶりに<虹>を,飛行機の中から見ました。一部が見えただけですが,神秘さを楽しむこともできた空の旅でした。今秋、別の勤務地に、長女が旅立ちますが、今後の祝福を祈って戻ることができた次第です。

(写真は、大空にかかる虹です)

祝!

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昨日の夕方、シンガポールの建国49周年の記念式典が催され、その様子をテレビで観ることができました。歌や踊りがあり、儀仗兵の指揮の中を、軍楽隊が演奏をしながら入場して来ました。その演奏の中を、国会議員、閣僚、建国初期の長老、市民団体、会社、青少年団体などの入場が次々にあり、特設スタンドに陣取った観衆から猛烈な拍手が送られていたのです。とくに、障碍を持たれた方たちが、太鼓(和太鼓のような大型なもの)をリズミカルに叩いておられて、その演奏に歓声が上がっていました。

車(車種を見ましたらトヨタのレクサスでした!)に乗って、リ・シェンロン首相が会場に入り、歓迎の声の中を、観衆と握手を交わしながら閣僚席に着かれました。最後にタン大統領の入場でした。国の最高責任者がスタンド中央に座られました。国歌(マレー語だそうです)が斉唱されます。今度は、陸海空の軍隊の入場でした。新鋭のタンク、装甲車などが、猛烈なエンジン音を響かせていました。『私たちが国防の任に当たっています。ご安心ください!』と言った無言の声が聞こえるかのようで、とくに少年たちをテレビカメラが捉えていて、彼らの目がキラキラと光っていたのが印象的でした。

次には、警察の特殊部隊が入場してきました。テロ対策の車輌の中から、重装備の隊員が次々と、火器を手に出て来て、『治安や防犯、テロ対策を担当し、日夜励んでいます。540万の住民(永住にシンガポール人は384万人)の生活を守っています(統計は2013年9月)。ご安心ください!』と語りかけているようでした。その次は、消防隊です。都市の消防のための、最新の装備の消防車による、消火や救出活動の実演を見せていました。『都市消防のために四六時中待機しています。安心して家庭生活を送ってください!』とのパフォーマンスがあったのです。

昨日は、リ首相のステートメントが放映されていました。国政の実務に当たっている責任者の弁で、国政の全体にわたるビジョンを述べておいででした。ネクタイなしのカジュアルな服装が、爽やかに感じられて、とても好かったです。

昨晩の式典での圧巻は、「建国の父」であるリ・クワンユーが割れるような拍手を受けて席に着かれたことでした。91歳の高齢ながら、お元気な姿を見て、シンガポールの国民は笑顔を見せて、その貢献に対する栄誉を表わしていたのではないでしょうか。人間にするなら<49歳>、熟達する年齢です。東京都区内ほどの大きさながら、東南アジアの商業的な要の役割を果たしている重要な国なのです。

カトーンと言う地にある娘の家の海側の上空を、ヘリコプターが「国旗」を運ぶ様子が、すぐそこに見え、式典会場から上がる花火も見ることができたのです。みなさんの国を愛する心に触れられ、娘が9年生活した街、国の祝福を祈ることができた二時間ほどの記念式典でした。

(写真は、”百度”より、昨年の「建国記念式典」です)

頑張って!

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東日本大震災が起こった時、海外から寄せられた<激励のことば>が多くありました。その一つが、『がんばれ!ニッポン!』でした。そして日本人自らも、そう<檄(げき)>を飛ばしていたのです。地震と津波に見舞われた福島、宮城、岩手県の被災者のみなさんへの見舞いの言葉でもありました。厳しい現実に挫(くじ)けないで、立ち上が理、前に向かって進む勇気を奮い立たせようとしてくれたのです。

被災者のみなさんも,想像を絶するような現実の前に、『頑張らなくては!』と心に決めておられました。今年も日本から、台風の襲来、大雨、地滑り、孤立などの被害の様子を聞いています。古来、日本では、この自然災害との対決が繰り返されて来て、頑張った甲斐があって、それだけ多くのことを学び取ったのではないでしょうか。

そう言った戦いの中で、互いに、『頑張って!』と声を掛け合って生きて来た民族が、私たちだったに違いありません。ですから、ことあるごとに、このことばが繰り返され、日常会話の中で、頻繁に口にして来ております。とくに勉強やスポーツなどで、応援者がよく語って来たことばです。

別れの挨拶の『さようなら!』の代わりに、また手紙の文末などにも、『ガンバッテ!』が使われていました。このことばは、<頑張り精神>と言っても好いのかも知れません。狭い国土と貧しさを克服するために、頑張って来たことで、極めて高度な技術を身につけて来たのでしょう。<頑張り精神>で鼓舞し合いながら出来上がったのが、日本と日本人なのかも知れません。

ある方が、『頑張らなくていい。そのまんまの自分で、肩に力を入れないで生きた方がいいんだ!』と言ってくれたことがありました。そうする必要を見て取ったからなのでしょう。頑張りすぎて疲れ果ててしまうよりは、ちょっと怠けてみることの大切を学んだのです。戦後の教育の中に、<叱咤激励>があったでしょうか。廃墟の中から国を再建するために、頑張らなくてはならない父母の世代が、この<頑張り精神>を子どもたちにも求めたのです。

さらに国際競争や紛争が激しくなって行くと、また再び、この精神が求められるのかも知れません。自然体で生きた方が、かえって効率が上がり、新しいアイデアが湧き上がって来るに違いありません。生まれながらに、『頑張れ!』と言われて来た私に、『もう頑張らなくていい!』と言うことばは、<解放宣言>のように聞こえてまいります。

これまで、『頑張って!』と言った多くの人にも、『もう頑張らなくてもいいよ!』と言い直したい思いでいる、八月の私です。

(写真は、朝日新聞社より、大船渡市の被災の様子です)

マウント・フェーバーにて

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昨夕は、長女の友人のご婦人が、約束してくださったように、家の前まで迎えに来てくださったのです。40年以上の運転歴があり、今もご自分で車を運転されるのですが、日本に留学したことのあるご婦人もご一緒でしたので、この方が運転してくれました。シンガポールで、二番目の高さの丘の上にあるレストランにお連れくださったのです。セントーサ島と海岸線の街並み、海と島々が見下ろせ、シンガポールで最も夜景の綺麗な所だそうです。

『そこを左に曲がって、そう、まっすぐにね!』と道順を教えておられるのを聞いて、『あ、長年高校で校長をされてきた人なんだな!』と得心したのです。大勢の教え子さんがいて、この国で、様々な要職に就いておられるようです。それは、単なる自慢話ではなく、『ただ小さな私が・・・』と仰りながらでした。きっと街中を歩かれると、多くの教え子さんから声がかかることでしょう。

多くの兄弟姉妹のいた貧しい家庭で子供時代を送ったそうです。日本軍の侵攻も目の当たりにされたのですが、多くを語られませんでした。お兄様は、この国の建国に関わったお一人で、昨年召されたのだそうです。激動の時代を生きて、女手一つで育て上げた三人の息子さんも、それぞれの分野でご活躍で、10人のお孫さんがおいでで、ひ孫や姪や甥も大勢のようです。

旅の私たちにとっては、思いがけない出会いがあって、随分と盛りだくさんのご馳走を皿に取り分けては、『どうぞ!』と進めて下さったのです。『きっと、ご家族の中で、こうやって振舞っているんだろうな!』と思わされました。中華系の移民の背景の中でお育ちですが、大英帝国の淑女を感じさせてくださる素敵な老婦人なのです。娘が、『お母さん、こんなに綺麗に積極的に生きているおばあちゃんに倣ってね!』と言っていました。

『中国語を話せないのです!』と言われて、流暢なイギリス英語をお話しでした。人懐こくって、話題が豊かで、気配りがあって、素晴らしい81年を生きてきたことが分かりました。何と、お土産にガラス細工の<虫眼鏡>をもらってしまいました。なぜか、まだ老眼になっていないのですが、大事にしたいなと思っています。丘の上のレストランは、窓も壁もなく、麓から吹いてくる風も、実に頬に心地よい、満ち足りた夏の宵でした。このご婦人の健康を心から願って家路についた11時前でした。

(写真は、”百度”より、マウント・フェバーからの景色です)

友情

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次女の友人が、病気だそうです。アメリカの西海岸で、二人とも国際結婚をして、祖国を離れて生活しているので、互いの関係が近いのでしょう。娘は、この友を激励したり、二人の子どもさんのお世話をしたりだと、知らせて来ました。

小さい頃から、人の面倒見が好くて、自分の絵を描かなければならないのに作業の遅い級友を手伝って、結局は自分のものを完成できなくて、先生に叱られる、そんな娘でした。自分のことのように感じて、お世話をしているようで、『お父さんとお母さんからも、○○子さんをメールで励まして!』と言ってきました。

それで、昨日、激励のメールを送りました。この方は、妻として母親として、自分のこと以上に家族への思いが大きいようです。<異国で病む>のは心細いでしょうね。癒えて母業と妻業がおできになるように、そう願っている茜色に東の空が明けようとしている朝です。

(写真は、”プリクラ画像”から)

虫の声

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明け方の5時過ぎです。耳を澄ましていると、道路を走るタイヤの音の間に、別の音声が聞こえて来ます。耳鳴りかと思ったのですが、確かに「虫の音」が、かすかにしてくるではありませんか。赤道直下の街の19階で、秋の訪れを告げる声を聞くとは、ちょっと信じられません!

四季などなく、年中夏のはずなのに、季節の変わり目があるのでしょうか。虫たちは、それほど敏感なのでしょうか。この街に九年も住んで来た娘は、『ここにも微妙な季節の変化があるの!』と言っていたことがあります。昨日、日系の洋装店に入ってみましたら、冬にしか着ない厚手のパーカーが売られていました。『真冬のある国に旅行する人が買うの!』だそうです。

ここシンガポールは、49回目の「建国記念日」を、この週末の9日に迎えるそうです。そのせいで、街中の家の門や玄関に、「国旗」が掲げられているのを見受けられます。建国を祝い協賛する、どの店の中に、商品の値段が<49ドル>のセールス値段が掲示されているのが、目立っています。

イギリス統治、短い期間だった日本支配、マレーシアからの独立を経て、この国が出来上がったのです。小さな島国なのに、アジア圏では特出した商業都市で、世界中からビジネスマンが駐在して、活発な経済活動が繰り広げられています。この国の建国に大きく貢献したのが、リ・クワニューです。貿易の経由地を,これほどの国にした手腕には驚かされてしまいます。

街中で行き交う人の中に、マレー人、インド人、欧米人が、中華系の人たちの間におられます。三年前よりも、人も街も、さらに豊かになっているのが感じられます。日本ラーメン、シャブシャブ、寿司などが、この街に溶け込んでいて、日本人駐在員や旅行者だけではなく、シンガポール人に好まれています。「寿司をつまむ」と言う言葉が,みなさんに驚くほど似合っておいでです。

また暑い日が始まります。この町の人々の心が平安で、身体が健康で、近隣諸国からやって来て激しい労働に従事する人たちも、その他の外国人が喜んで、この一日、働き、守られるようにと、願う早朝です。もちろん、みなさんにとられても!起きて来たら、虫の声のことを、娘に聞いてみることにします。

(写真は、2011年の「建国記念日」のものです➡︎シンガポールナビより)

長女の誕生日

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先月のことです。久し振りに、『抱いてみてください!』と言われて、赤ちゃんを腕の中に抱き取りました。生まれて三十日目でしたから、「嬰児」と言うのでしょうか、もう抱く感覚を忘れていました。『うわー、ちっちゃい!』と言うのが、その時の正直な気持ちでした。誰に抱かれても、自分を全く委ねてスヤスヤと眠っている寝顔をのぞきこんで、自分にも、こうやって抱かれて、誕生を祝われたことがあったのだと思わされたのです。

抱いてくれた父や母や産婆さんたちは、時が移って、もういなくなってしまいました。そして今、そうやって人の誕生を愛でて、祝福できる自分であることを思うと、ちょっと不思議な感覚に襲われるのです。

今日は、長女の誕生日です。当時住んでいた町に「授産所」があって、お産婆さんが、この子を取り上げてくれたのです。『いいボコが出たじゃん!』と産着を着せられた娘が、家内と私のいる部屋に、お産婆さん抱かれて連れられて来ました。『ボコ!』と聞いて、男の子だと思いきや、その地方では、赤ちゃんをそう呼んだのです。それで私たちは、『また男の子が与えられた!』と思ったのです。ところがオムツを替えた時に、女の子であることが分かって、驚いてしまいました。

空腹の時に、『オッパイを!』と泣くだけで、いつもはスヤスヤと眠っていたのです。その他には、ほとんど鳴き声を聞いた記憶がないほどでした。病気もしないで、手のかからない子どもだったのです。物怖じをしないで、何でも自分で決めてするのです。人の面倒見が好くて、後に生まれて来た妹と弟の世話をよくしてくれました。そればかりではなく級友や学校の先生の相談にも乗るほどでした。

そんな性格、個性、賜物、生き方で育って行きました。それで今、シンガポールで生きているのです。在シンガポール九年だそうで、今秋には新しい任地に転勤する予定でいます。『来て!』と言うので、家内とやって来ています。日本食を懐かしんでいる両親に、十二分に心配りをしてくれています。お腹が満足をするだけではなく、親子の交わりができるのが最高の喜びで、長女と、それが叶えられております。

さらに祝福されて生きられるように願って、昨晩は誕生会の前夜祭を持ち、娘を祝福することができました。今日は、娘の友人が誕生会を開いてくれるとのことで、その前日を、三人だけで、そうして過ごしました。親子っていいものですね。長男と次女と次男とは、なかなか誕生日を共に祝う機会がありませんが、いつか叶えられることでしょう。おめでとう!

(写真は、母娘で調理した誕生前夜祭の食卓の料理です)

交わりの手

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実に活き活きとした81歳のご婦人と、一昨日お会いしました。紅をさして、素敵な身なりをし、上品な英語を話しておいででした。ご主人を亡くされてから、男の子三人を女手一つで育てたと聞きました。長く教師をされておいでだったようです。娘が不思議な出会いをした、いろいろと助けてくださる友人なのだそうです。

好いですね、年齢や人種や国籍を超えて、<友だち付き合い>をしてくださるとは、素敵な女性です。娘に紹介されて、しばらくお交わりをしました。子育て中は、このシンガポールも、まだまだ貧しい時代だったに違いありません。でもそう言った苦労を見せないで、ずっと笑みを湛(たた)えておいででした。

両親が日本からではなく、なぜか中国から来たと言う、<遠来の客>だからでしょうか、今週、『夕食を一緒にしましょう!』と、家内と娘とともに誘われました。単なる観光旅行でしたら、こう言った機会などありませんが、九年もの間、娘が住んで来た町の中で、培われた関係の一つの祝福の雫に、親として預かれるのでしょうか。

実は、戦争中に、マレー半島を南下して来た日本軍が陥落させたのが、このシンガポールなのです。その戦火の中で、多くの中華系の民間人の方々が犠牲になっておいでです。マレーシアと狭い海峡で挟んだ国境地帯に、その当時の記念碑があります。最初に、こちらに来ました時に見学をしたことがありました。そう言ったことがあった国なのです。

東南アジアには、そう言った記念碑が多くあって、日本人は、否応無く、そう言った<過去の事実>と出会わざるを得ないのです。追い詰められた日本が、活路を見出そうとして取った侵略や進軍の歴史の足跡があるからです。「窮鼠猫を噛む」と言ったことばが、当時の日本の置かれた状況だったのでしょうか。いずれにしろ弁解は効きませんね。

そんな過去を知っている世代なのに、恨みの代わりに<交わりの手>を延べてくださる、寛容さには頭が下がる、素晴らしい出会いであります。

(写真は、シンガポールに周辺諸国です➡︎WMより)