「中高一貫教育!」を掲げた私の母校は、「武蔵野の櫟(くぬぎ)林」の中にありました。東京の多摩地区では、歴史もあり、まあまあの教育実績を上げていたのではないでしょうか。「大正デモクラシー」の時流の中で、教育事業を始めたことが、学園の学校案内の「沿革」に記されてあります。私たちが入学した頃には、幼稚園も小学校もありましたし、今では大学・大学院もある総合学園になっております。東京、京都と言った国立名門大学への進学者は少なかったのですが、私学の名門校「早稲田」の合格者はまあまあいたでしょうか。とくに大学進学の名門ではない「のんびり屋」の多い校風の進学先は、いわゆる「東京六大学」や「東都六大学」が多かったようです。
そんなことで、卒業生たちの大学の「応援歌」が、秋の運動会には歌われていたのです。中学に入った年には、中高六年の合同運動会が行われていました。縦割りでしょうか、「白組」と「紅組」に分かれた「紅白対抗」で、競技が行われたのです。運動会が近づくと、校庭に集合して、応援歌の練習が何週にもわたって行われました。声変わりのしていない中学の新入生の私たちは、声をふりしぼって歌わされたのです。それで声変わりが始まった者もいたくらいだったのです。「武蔵秋空、希望に高く、意気と深紅の血と燃え盛る・・・・」、「紺碧の空、仰ぐ日輪、勝利・・・・・」などを歌わされた記憶があります。
ああ言った伝統は、男子部と女子部が統合され 、男女共学の今も受け継がれているのでしょうか。「運動会」の思い出は、小学校よりも、中学入学の頃の物めずらしかった「母校愛」の意識を強くされた時のものです。「バンカラ(yahoo辞書によりますと<[名・形動]身なり・言葉・行動が粗野で荒々しいこと。わざと粗野を装うこと。また、そのような人や、そのさま。「ハイカラ」に対する造語。「―な学生」「―を気取る」とあります)」な気風が、まだ残っていたでしょうか。こちらの中学生や高校生に聞きますと、私たちが参加したような「運動会」は行われていないようです。 子どもたちの幼稚園や小学校の頃の「運動会」は、日曜日に行われていまして、日曜日に忙しかった私と家内は、やっとのことで、朝早く家内が作っておいた「昼ごはん」をもって、午前の部が終わった頃に駆け付けるのが常でした。校門(運動場に面した裏門でした)で、上の三人が首を長ーーーーくして、私たちを、いえ「弁当」を待っていたのです。そんなことの連続の年月でした。彼らを気の毒に思った級友のお母さんが、弁当を分けてくれようとしたこともありましたが。私たちを見つけた時の喜んだ彼らの顔が、今も思い出されます。もう孫の時代の「運動会」になってしまいました。思い返しますと、日本の学校教育には、独特で伝統的なイヴェントが多くあったように思うのです。やはり圧巻は、幼稚園のそれでした。「こんなに大きくなって!」と言った感慨で、多くのお母さんたちが泣いていたからです。今も、そうでしょうか。日本では「体育の日」の休日、連休も終わったことでしょう。 (写真は、今も残る「武蔵野の雑木林」です)