ブルーマウンテン

 私の師匠(英語ではMentor”でしょうか)の好物は、コーヒーでした。しかも高級品種の《ブルーマウンテン》だったのです。彼といるときには、必ず私の分もミルで挽いて 淹れてくれました。生活が安定してきたら、ブレンドや特売品でなく、『も、《ブルーマウンテン》を、いつか飲もう!』、これが夢で、今日まで生きてきました。ただ、そんなにびっくりするほどの値段ではないのですが、ケチに生きてきた私には、この贅沢をするのがギルティーなので、なかなか、『ブルーマウンテン、一杯!』と注文できずに、年を重ねてきてしまいました。こちらでは、安く手に入るかと思っていましたが、やはり手が出せないほどに高いのです。友人や子どもたちの援助で支えられている身分の私は、ちょっと《昔気質》なのかも知れません。娘に言わせると、『お父さん。もっと生活を楽しまなくっちゃ、犯罪を犯しているわけではなく、心を元気にできるんだったら、いいんじゃないの!』とハッパをかけられています。かといって、結構高いチョコレートなどは、家内に内緒で、こっそり買って食べているのですが。これは、多分まだ師匠を越せない自分を意識しますと、彼の好みには達してはいけないような気持ちがするのも、そうさせない1つの理由なのかも知れません。 

 日本に帰った時に、通販で何度か買ったことがあるのですが、このネット商店が、毎週のように《コーヒー特売商品》の案内を送信してきます。今朝の案内は、『ブルーマウンテン尽くしの福袋が買えるのは48時間限り!』と銘打ってきています。眠った子を起こすような誘いなのです。喉から手が出てきそうになって、本物の手で抑えてしまいました。『高級で香り高いから飲みたい!』というのではない、と思うのです。私を8年の間、忍耐して教えてくれた師が、きっと懐かしくて、思い出の回帰で、『飲みたい!』のでしょうか。一緒に飲んだ時の、何とも言えない幸福感、至福感を思い出したいのかも知れません。そういえば、私は結構ロマンティストなのかと思うのです。

 この方は、京都で仕事をしていました時に、発病して、《前立腺がん》で、2002年8月31日に、天の故郷に帰って行きました。この夏で10年になるので、時間のたつはやさに驚いています。ジョージアの片田舎の大きな電器店の御曹司で、大学の工学部を出て、空軍のパイロットをしていたのですが、日本にやってきて、彼の事業を展開し始めたのです。『大学の時に、休みで家に帰ると、父は、地下の冷蔵庫から、牛肉を切ってきて、ステーキを焼いてくれたものです!』とか『私と弟の遊部屋は、この家よりも大きかった!』などと、昔を懐かしんで話していましたが、それは決して自慢話ではなかったのです。日本では、ステーキの代わりに、たまに食べるマクドナルドのハンバーガーで我慢していたのでしょうか。

 新大坂駅のそばにある病院に入院していた師を見舞ったことがあります。その時は、コーヒーの一式をもっていませんでしたから、《ブルーマウンテン》のコーヒーパーティーはできませんでしたが、彼が三十代、私が二十代の8年間の思い出話をしました。小生意気で、短絡的な「破門」されても当然な私でしたが、私に、ほんとうに忍耐してくれたことを思い出して、深く感謝しました。日本人という民族性に固執して生きていた私に、民族を超えた《地球民族》の意識を植えてくれたのが彼だったのだと思うのです。井の中のような世界からの脱出だったのだと思われます。

 『若い方に後を託して、新しい地に出ていきなさい!』と、彼に挑戦されて、ここ中国に来て、この夏で6年になり、9月からは、七年目に入ろうとしています。昨日、学校の方から来年度の担当科目の打診がありました。そろそろ帰ろうと思っていた矢先、急に言われて、とっさに、《二つ返事》をしてしまいました。日本人として、ここで生きることにします。一昨日、熱を出して寝ていた家内を、友人が見舞ってくれて、『中国に来くれてありがとう!』と、家内に言ってくれました。そう、やはり、《ブルーマウンテン》を飲んでみようと思います。師が亡くなった年齢よりも、私のほうが年上になりましたから、もう頑なな《昔気質》など打ち捨ててしまうべき時なのでしょうか。

百年の計

 私の小学校時代の通信簿は、行方不明になってしまったか、こちらに来るときに、多くの物を処分してしまいましたから、市の焼却炉に運ばれてしまったかも知れません。お見せできないのですが、小学校の低学年の通信簿には、「落ち着きがなく、じっと座っていることが難しい」という所見が、必ず記されていました。教室では、「机間巡視」ということを教師がします。教壇の高いところから講義をするのではなく、生徒の机の間を歩きまわって教える先生の教育スタイルのことです。その「巡視」を、私がしていたわけです。黙って歩いていればまだいいのですが、時には、級友にちょっかいを出すのです。教室の後ろか廊下か、ひどい時には校長室に、立たされていました。まあ、問題児であることに違いなかったのですが。この通信簿の所見を読んだ、私の父も母も、これを意に介さなかったのでしょうか、このことで注意を受けた記憶が、全くないのです。すぐ上の兄も、いたずら小僧で、「要注意生徒」だったから、私も看過ごされたのかも知れません。

 当時の教育は、学問として未構築の時期で、専門的に研究したり、博士論文を書いて博士になろうなどと思っている教育者は少なかったのではないでしょうか。ですから、教育委員会で議題になったり、校長や教頭から注意を受けることもなかったのです。そんな私でしたが、《バカな子ほど可愛い》で、「大正デモクラシー」の盛んな時期に開校した特別な教育をしていた、私立中学への進学を父に勧められます。何と合格してしまったのです。そんな問題があったのが嘘のように、大学も卒業ができ、曲がりなりにも高等学校の教師にもなれたのです。級友が、『ホントか?』と菓子折りをもって、勤務先の学校に、私を確かめにやって来たこともありました。私は思うのですが、ネーミングされて、レッテルを貼られて、区別され差別されなかったから、みんなの行く軌道にのれるようになったのだと思うのです。何らかの切掛けがあれば、『人には、更生のできる場と時がある!』と信じるのです。

 今日の「毎日新聞」に、こんなニュースがありました。『自閉症小6評価せず、通知表に斜線』、関東地方の当時小学6年の男児(12)が、高機能自閉症で通常のクラスで教育を受けられないとして、「特別支援教育」の対象となったのですが、特別仕立ての教育がなされないままで、こういった評価が下されたのだそうです。『存在を否定さ れたようでショックだった!』と思われたお母さんが、当然の不服を申し立てたようです。しかし校長はどうも言い逃れをしているようですが。

 いつ頃からでしょうか、学年に「特別クラス(養護学級)」が設けられました。正常だと思っている子の父兄が、『一緒にいたら学習効果が上がらいので、別に分けてくれ!』、そう言って、どうも始まったのだと理解しています。私たちの時代は、みんな一緒でした。貧乏人も金持ちも、弁当を持ってこれる子も持ってこれない子も、傘のある子もない子も、できる子もできない子も一緒で、助けあって支え合っていたのです。私は、《多動性》の児童だったのに、「いじめ」を受けませんで、かえっていじめていました。『みんなが同じように!』という呪文で、競争もさせない、賞状もない、褒美もあげない教育が行われて、日本の教育はおかしくなっていったのではないかと思ってしまうのです。私が担任したWは、素行不良で、『どうにかしよう!』と持っている矢先に、『ヒロタ先生、自主退学させて下さい!』と、学校が決めて、私の頭の上で、そうして退学させてしまいました。その「ことなかれ主義」の一件で、教育の限界を痛切に感じ、その学校を私もやめてしまいました。若気の至りでした。

 

 人を育てるのは《百年の計》が必要だと言われています。教育に必要なのは、児童・生徒・学生への愛と忍耐です。私に忍耐し、諦めないで愛を注いでくださって先生方に、ただただ感謝している。五月の最後の月曜日であります。

(写真は、江戸時代の「寺子屋」の様子を描いたものです)

応援

 私のごく親しい知人から、こんな話を聞いたことがあります。

 『ボクの親爺は、体中に彫り物をしていたよ。真夏も決して半袖のシャツを着たりしないで、長袖で通していた。皮膚呼吸ができないので、暑さは、相当厳しかったようだが。それで、薄い上着を着ていて汗が出てくると、シャツか体にくっついて、その彫り物が写ってしまうので、お袋が、『お父さん!』といって注意をしていたほどだった。若気の至りというのだろうか、そのことを悔やんで隠し続けていた親爺だった。よせばいいのに、銭湯が好きで、地元では入れないので、隣り町に出かけたり、出先の銭湯を利用していた。今になると、懐かしい思い出だけどね。あの時は嫌で恥ずかしかったけど、今だったら、親父の背中を流して、親孝行をしてみたいよ!』といっていました。

 今、大阪職員の「刺青問題」が、ニュースを賑わせているようです。公務員の採用にあたって、その有無を調べることなどできないのでしょうけど、昔は、港湾労務を仕切る親方や、江戸の町火消しは、刺青をしていたと聞きます。「花と龍」を著した、小説家の火野葦平は、北九州の若松で、港湾の「沖仲仕」を仕切っていた玉井組の組長の長男として生まれています。。彼のお父さんは、それはみごとな刺青をしていたそうです。また、元総理大臣・小泉純一郎の母方の祖父・小泉又次郎は、逓信大臣を務めましたが、青年期に全身に彫り物をしていたそうです。それでいれずみ大臣》とか《いれずみの又さんなどと仇名されていたそうですが。又次郎の父・由兵衛は、軍港の横須賀で、海軍工廠で働く労働者を仕切る「請負」の仕事をしていたそうです。《気っ風(きっぷ)》と《腕っ節》が、この家業には必要であったそうで、そんなことから、息子も父に倣って、その仕事を継ぎ、満身に彫り物を入れていたのです。ところが又次郎は、横須賀市議、神奈川県議会の県議、後には衆議院議員にもなり、ついには大臣も務めたのです。とても親しまれた任侠大臣だったそうで、多くの武勇伝を残しています。

 「沖仲仕」という仕事を、私は学生のころにしたことがありますが、《板子一枚下は地獄》の世界で仕事をするのですから、気が荒い職場だったと思います。それでも、面白い職業体験をすることができて、今では感謝しております。こういった世界では、『とくに港町ともなれば素性もわからないような流れ者がゴロゴロ集まってくる。そんな彼らの上に立つには、刺青を彫るような男気のあるではないと現場を仕切れなかったろう』というのが、墨を入れる理由だったようです。

 この論理でいきますと、大阪市の業務を果たすためには、「刺青」を必要とするような、精神的な土壌が、大阪市民にはあるのでしょうか。『・・・素性もわからないような流れ者がゴロゴロ集まって・・・』いる市なのでしょうか。そんな彼らの間で奉仕する市の職員は、《睨み》を効かせる必要があるのでしょうか。「釜ヶ崎」というドヤ街に泊まって、通天閣の真下の銭湯にも入ったりしましたが、こういった地域の人々は「流れ者」が多いことは事実ですが、それにしても、「刺青」で住民を脅す必要など、全く感じられなかったのですが。「地方公務員の刺青」、ちょっと考えられないような大阪の世相だと思います。橋下市長のやりきれない気持ちが分かります。私の知人のお母さんが、面白半分で彫り物をした息子のことを心配して、何人かのお母さんから相談されたことがありましたので、彼の気持ちが何となく分かるようです。

 

 『若気の至りでした!』と反省の気持ちを表している人に、公務員への門戸は開いていていいと思うのですが、とくに私は地方公務員試験の不合格体験者として、公立の小・中学校の教師や職員には、こういったことがあってほしくないと思うのです。「ごくせん」というテレビ番組があったようですが、後藤久美子先生の背中には、きっと彫り物はなかったと思うのですが、仲間由紀恵に聞いてみなければなりませんが、まあ、これはテレビの世界の話しですから。

 市民を脅す様な職員の排除を断行して欲しいと願い、橋下市長を応援したい気持ちでいっぱいの五月の終わりであります。

(写真は、大阪名物の「大阪城の夕景色」です)

日本の誇り


     20年前のことです    手紙をもらいました
     一枚一枚あったかい   頑張って!の手紙
     今このまち安中は(*)   緑があふれてます
     災害があったことなんて 信じられないくらい
     僕たちの番が来た    今度は励ます番が来た
     20年前にもらった    手紙忘れないから

     元気を出してくださいと  優しさがあふれる
     20年前の手紙だけど  伝わってくるよ
     今このまち島原は         笑顔があふれてます
     焼け残った木の根元     新しい芽が出ます
     僕たちの番が来た         今度は励ます番が来た
     20年前にもらった       手紙忘れないから

     僕たちの番が来た    勇気をだして さあ進もう
     20年前にもらった        手紙と同じように
      勇気をだして さあ進もう
     20年前にもらった       手紙と同じように

[歌詞の説明」  (*)の島原市の水無川流域の窪地である「安中(あんなか)」三角地帯
93ha)は、普賢岳噴火の火砕流や度重なる土石流で家屋や農地が3mも埋没し廃墟となった。「被災状態のまま放置」という絶望的な見方が大半だった。しかし、「土砂捨場と6mの嵩上げ兼用」という一石二鳥の新発想が功を奏した。当時の吉岡庭二郎市長は「(農地・住宅地として)荒廃地が・・見事に復興した(「一陽来復」2011101頁)」

 「長崎新聞」3月12日の記事は、次のように伝えています

 『雲仙・普賢岳噴火災害を経験した島原半島の市民らが震災被災地復興の願いを発信するイベント「3・11を忘れない  島原半島からのエール」が、島原市平成町の雲仙岳災害記念館であった。噴火災害で被災した同市安中地区の市立第五小の児童約60人は、自分たちで作詞し た歌「20年前の手紙」を合唱。「僕たちの番が来た。今度は励ます番が来た」と声を合わせた。 

 イベントでは、地元の5団体がこの1年間の被災地支援について報告。南島原市立新切小PTA(中村哲康会長)は、子どもたちが育てたヒマワリの苗などを 被災地の宮城県南三陸町に届けた「みんな空の下プロジェクト」について発表。中村会長らは「一人一人の力はわずかでもたくさん集まることで大きな力にな る」と訴えた。 

 海を望むテラスで開いたコンサートには、島原農高和太鼓同好会など地元の音楽グループ8組が出演。昨夏、南三陸町でボランティア活動をした同会リーダー の横田慎二君(17)は「被災地に願いが届くよう演奏した。普賢岳災害でお世話になったので、自分がやれる支援を続けたい」と話した。会場では南三陸町に届けるための募金活動も実施した。』

 この歌は、「20年前の手紙」という題で、長崎県島原市立第五小学校6年生が作詞をし、「NHKおかあさんといっしょ」の坂田おさむ氏が作曲をしたものです。「東北大震災」の被災地を励ますために作られたといいます。この島原第五小学校というのは、平成2年、3年(1992,3年)に起こった、雲仙・普賢岳の噴火災害で、火砕流や土石流によって、44名もの尊い人命が奪われた地元にある小学校です。

 はるか昔には、『野蛮人!』と欧米人に蔑まれ、最近では、『エコノミック・アニマル!』と罵られてきた日本人ですが、こういった激励が、島国日本の住民が、支えられ続けてきた《力》なのではないでしょうか。もし日本に《誇ること》があるとするなら、「東京スカイツリー」のような高層建築物や、戦後の復興を果たしてきた「高度技術」などではなく、「今力のある者」が「今弱っている者」を、無言・無名・無償で、助け、励まし、支えてきたことなのではないでしょうか。これだったら、世界に日本を誇示できるのではないでしょうか。

(写真は、http://www.pmiyazaki.com/kyusyu/nagasaki_unzen/のHPの「アサギマダラ(雲仙の蝶)」です)

次男

 「金環日蝕」がみられた21日の夕刻、次男が緊急入院したと、その翌日になって、シンガポールの長女から電話がありました。22日の午前中の授業を終えた私は、通勤途上の河畔にある公園で家内と落ちあって、『晴れていたらランチを一緒にしよう!』と約束していたのです。川の流れを眺めながら、公園のベンチに座って、お弁当を美味しく食べました。食後に、綺麗に整備されている公園の中を散策してから、家に帰ろうとしていた時に、家内の携帯電話がなったのです。『夕べ、◯◯ちゃんが救急車で、渋谷のH病院に入院したそう。お兄ちゃんからメールがあったけど見た?』といってきたのです。私は、その日は、7時前に家を出ましたので、パソコンを開かなかったので見ていなかったわけです。電話に応対する家内が落ち着いていましたので、大事になっていないことを知って、何とも言えず安心しました。21日には、その朝に撮った「月蝕」の写真を彼が送ってくれ、私が撮った写真もブログに掲載していましたので、お互いに写真をほめ合ったばかりでした。その夕方も、しきりに次男のことが家内と話題になっていました。帰国時には、彼の家に居候している私と家内ですし、3人の子のあとに、少々年数があいて四番目に生まれましたので、特別に可愛いという思いで育てた子でしたから。いいえ、その他の子が可愛くないといっていませんので、念のため。しきりに、次男が私には気になっていたのです。それは不思議でした。

 こういうことを、日本語では、『虫が知らせる!』というのでしょうか。gooの辞書で調べてみますと、『前もって心に感じる。予感がする。「―・せたのか事故機に乗らずに済んだ」 』とあります。「虫」のせいではなく、やはり親子の血のつながりの濃さや強さから来る《感覚》なのかも知れません。夕べ現在、まだ入院中ですが、《院内をぶらぶらしてるよ!》と、彼なりの無事の便り(メール)をくれています。先日は、次兄が仕事を終えて帰り際に、不調を覚えて、自分で呼んだ救急車に運ばれて入院したと、弟から連絡があったばかりでしたから、ちょっと驚きの連続でした。去年家内が救急入院し、この春には母の「葬儀」で帰国していた折にも、家内が救急車で板橋の病院に搬送されたりして(すぐに帰宅を許されましたので念のため)、続いているのには驚かされています。

 

 でも、『大丈夫だよ!』との連絡がありますので、安心することにしています。生きていることの反面に、様々な予期しないことが起きるのですね。いつも、そういった心遣いをしておかなければならないのかも知れません。「病気」は、1つのサインだと思っております。つまり、『体に気をつけて生きよ!』、『健康も生きていることも天賦の賜物ですよ!』といわれているのではないでしょうか。それでも、私たちは生きていることに感謝を覚えながら、生を全うしていかなければならないのではないでしょうか。私の愛読書には、『生きよ!』と、なんどもなんども書いてあります。とにかく、生きようと心が、人を生かしてくれるのでしょう。もちろん天来の祝福があるのですが!

(写真は、東横線「代官山駅」構内です)

Education

 「六三三四」とは、小学校年、中学年、高校年、大学年の就学年数です。16年間の教育、そしてアメリカ人の師匠から、私的に年間学ばせて頂きましたから、少なくとも24年もの間、教育を受けたことになります。それ以降、東京の大学で聴講生として学んだことが何度かありましたので、それ以上の年数になっているでしょうか。この年数を考えますと、同世代に比べて、結構多いほうだと思うのです。劣等感の強かった私が、それに悩まされないでいいように、高等教育を受けさせてくれた父には、心から感謝しております。その割には、しっかり学ばなかったことは、常々反省をしておりますが。すこしばかり「知能指数」が高かったからでしょうか、父の期待を背に受けて、中高一貫の私立学校に行かせてもらったのです。しかし、その期待に反して三流校にしか合格しなかったのは、父には申し訳なかったと、いまだに思っております。

 そんな私ですが、学校の教師になることができ、「天職」だと励んだわけです。退職後、中国にまりました私は、友人たちにめぐり合い、彼らの紹介で、こちらの大学で教える機会を得たわけです。今学期は、学校から、「日本の国情」の講座を依頼されました。昨年末から一生懸命に準備をしながら、16週、32コマの授業で、何を教えるかを考えに考え、書籍等を買い求め、学びながら精一杯の講義ノートを作りました。2年半の間、日本語を学んできた学生ですから、難解にならないようにと工夫をしたつもりですが、自分でも、『ちょっと難しいかな!』と思ってきたところです。専門的な言葉を使わなければならないのですから、『やはり聞く方は大変だろうなあ!』とも感じてきたわけです。そんなこんなで、昨日で13の講義を終えました。よく出席して、聞いてくれたものだと学生のみなさんには感謝しているのです。

 昨日は、「日本の教育」について話してみました。古代から現代の教育まで触れてみたのです。話のはじめに、「教育」という言葉について触れてみました。「教育」は、「教える「と「育てる」とからなっているのです。「教」という漢字は、「交わり」と「鞭(棒)」と「子」でなっております。教え手(親)鞭を用いながら、子に注意を与え、子は、それを受けるといった意味で関わるわけです。「育」は、母が乳房をもって子を養うという意味です。私たち漢字文化圏は、「教育」について、こういった理解があることになります。さて、英語では、「educationn」、「educate(教える)」といいます。この英語は、ラテン語の「educere」から来たことばで、「e」と「ducere」からなる言葉なのです。この「e」は「外に」、「ducere」は「導き出す」という意味の言葉ですから、この言葉の意味することは、『人間には生まれながらに、能力や才能がある。だれもが好いものを内に持って生まれてくるのである。教育とは、こういった子供に関わりながら、その才能や能力や良いものを導き出して上げる働きである!』ということになるのです。

 ところが、日本でも韓国でも台湾でも、そしてここ中国でも、やはり「詰め込み教育」が主流のようです。外から教師が、子どもたちに内側に、知識などを注入していく、そういった教育がなされてきております。これは東アジアだけの傾向ではなく、どこの国も少なかれそういった傾向があると思うのです。私は、詰め込まれるのが嫌でしたから、『だから勉強しなかった!』と、不勉強の言い訳をしております。『俺のうちには好いもの、良いもの、善いものがある!』と自負して生きてきたつもりなのです。アメリカ人から学んでいた時に、アメリカの有名大学を卒業した優秀な人と一緒に学んだ時期がありました。テストを受けますと、彼は常に「優」、私は「良」ではなく「可」でした。結果には歴然とした差があったのです。それでも、嫌にならずに学び続けることが出来たのは、この師匠が激励してくれたからでした。このかたが召される前に、『あなたなら私の教えを理解してくれるでしょう!』といって、彼の生涯をかけて研究してきたレクチャーのDVDとレジュメを私に託してくれたのです。それは私にとって大きな喜びとなったのです。

 この師匠だけではなく、小学校2年の時の担任、中学3年間の担任、高校3年間の担任、一緒に遺跡の発掘をした教師、大学で『日本思想史」を教えてくれた教師などを思い出すのです。この教師たちが、私に言いたかったのは、『一生が学びですよ!』ということなのだと思うのです。それで、いまだに本を買っては読もうとしている私です。読みながら、横道にそれてしまう傾向は、いかんともしがたいのですが。本が増えてきて、家内の心配の種は尽きないようです。

(写真は、戦後の小学校教育で使われた「国語の教科書」です)

朝陽と落日

 昇りゆく《朝陽》と沈みゆく《落日》、ダルビッシュ有と松井秀喜を、こう例えてみたいと思うのです。この二人の年齢差は15歳ほどですが、野球選手の選手生命の短さから言うと、やはり、こんな風に例えてもいいように思うのです。私の長男も野球少年で、スポーツ少年団から中学校まで、野球部に席をおいて、将来は「プロ野球選手」を夢見ていました。『お父さん。プロの選手になったら、車や家を買ってあげるね!』と親孝行なことを言ってくれたのを思い出します。わが家は毎月家賃を払わなければならない、借家住まいでしたから、彼は身にしみて「自分の家」を持ちたかったのでしょうし、親を持ち家に住んでもらいたいと思ったのでしょうか。実に嬉しい思いをしたことでした。息子とほぼ同じ時期に、それぞれの地で、泥まみれになって玉を追っていた二人ですが、息子は中学を出てから、ハワイの公立高校に進学しましたので、いわゆる「高校球児」にはなりませんでしたが、2年後に卒業した松井は、石川の星陵高校から巨人軍、ヤンキースへと、野球の王道を歩んでいったわけです。

 金銭的な面で見るなら、大リーグのヤンキースに鳴り物入りで入団した松井のほうが成功者なのでしょうけど、精神的な面でも職業選択の面から見ても、私の息子の選んだ道は、決して価値のない、劣ったものだとは思っておりません。昨年の「東日本大震災」で被災した街に、月の何日間かを使って、いまだに定期的に訪ねて、水産業の手伝いをしたり、被災者への支援物資を届けたり、話し相手になるといった奉仕を忠実にしていますから、金になる人生は生きてはいませんが、まあ人に喜ばれる生き方をしていることは確かではないか、何よりも彼自身が満足して生きているのです。

 この松井秀喜ですが、チームへの貢献も、個人の成績も、素晴らしいものを残しながら野球人生を続けてきております。2009年の「ワールドシリーズ」でヤンキースがチャンピョンシップを奪取した年には、《MVP》に輝いておりますから、アメリカ大リーグで活躍した日本人選手の中では、最も高い評価を受けており、あのイチローに勝るとも劣らないのです。貢献度からしますと、かえって松井のほうが大きいのではないでしょうか。これは簡単には比べられないのですが。その彼が、膝の怪我、故障で、今シーズンは、《浪人生活》のままシーズンを迎えてしまいました。どの球団も、彼に食指を動かさないままだったわけです。初めて未所属のまま開幕を迎えたことになります。ところが4月30日に、「タンパベイ・レイズ球団」とマイナー契約を結んだのです。今は、その3Aの試合に出場して調整をしていると、ニュースは伝えています。

 

 いわゆる、この《干されている経験》というのは、母の病気で練習を休まざるをえず、センターフォワードのレギュラーから外された経験のある私にとっては、言いようのない《悔しい経験》であることが分かるのです。ところが、契約をしてくれる球団が出てくることを願って、黙々と独りで練習を、彼は続けてきたのです。野球環境も文化も言語も習わしも違った社会の中で、そうできる強さこそ、この人の凄さなのではないかと、舌を巻いているのです。いわゆる、《クサラナイ》のです。米のプロの世界は、情実も何も効かない実力の世界ですし、年齢や経験からしてもう諦めてもいい時期でもあるのに、野球への愛を捨てきれないで、機会を窺っている彼の下向きさに拍手したいのです。莫大な経済的な支えがあることは事実ですが(彼は多額の見舞金を被災者に捧げていると聞きます)、好きな野球を続けるために、大リーグとは雲泥の差のある3Aでプレーをするというのは、大選手の誇りからすると、誰でもができないのですが、彼は、そういったものに頓着しないで、機会を待っていたわけです。

 並の選手でしたら、挫けてしまいそうな中を、どんな酷評を受けようとも、意思や願いを貫く生き方は、若い人たちに学んでほしいことであります。金稼ぎは、目的ではなく、結果としてついてくるものだと思うのです。機会が与えられ、始めた生き方を好きになって、どんな職業でもいいから、そこに創意や工夫を加えて、楽しく有意義な人生を生きていって欲しいと思うのです。どの世界を生きても同じ、額に汗をかきながら、下向きに生きるなら、その人の人生は輝くからです。私たちは、そうやって生きてきた人々の子や孫やひ孫なのですから。彼の活躍を期待しつつ。

(写真は、HP「こつなぎの写真ノート」から「落日」です)

くちなし

 私たちの住んでいますアパート群の植え込みには、多くの木や花卉(かき)が植えられていて、四季折折の花を咲かせております。この住宅群を設計した方が、住むであろう住民に、細やかな配慮をされたのだということが分って、うれしくなってきます。中には、パパイヤの木もあって、青い実をつけております。その植え込みの間に、最近、芳香を放つ白い花が咲き始めました。そうです、「くちなし(名は、果実が熟しても口を開かないことによる )」なのです。この花は、東アジア、中国、台湾、日本(本州の静岡県以西、四国、九州、南西諸島など)の森林に自生する花だそうで、花言葉は、『幸せを運ぶ・・・清・・・私は幸せ・・胸に秘めた愛 』、とのことです(ウイキペディアから)。甘い香りを放ちますので、多くの人に好まれているようです。こんな歌を思い出しました。

1 いまでは指輪も まわるほど  やせてやつれた おまえのうわさ
  くちなしの花の 花のかおりが  旅路のはてまで ついてくる
  くちなしの白い花  おまえのような 花だった

2 わがままいっては 困らせた  子どもみたいな あの日のおまえ
  くちなしの雨の 雨の別れが  いまでも心を しめつける
  くちなしの白い花  おまえのような 花だった

3 小さな幸せ それさえも  捨ててしまった 自分の手から
  くちなしの花を 花を見るたび  淋しい笑顔が また浮かぶ
  くちなしの白い花  おまえのような 花だった

 この歌は、1973年に、作詞・水木かおる、作曲・遠藤実、渡哲也が歌って、大変反響のあった歌謡曲です。もちろん悲しい実らない恋の歌です。さて、どうして日本人は、「はかなさ」、「かなしさ」、「あわれさ」、「さび」、そして「さようなら」などの言葉を好み、和歌も俳句も詩も、こういった言葉が大変に用いられているのでしょうか。そういった日本語の傾向、日本人の好みには、ときどき驚かされるほどです。ある時の授業で、『どうして日本人は、『さようなら』と言って別れるのでしょうか?』というテーマで、話をしたことがあります。中国語は「再見」、英語は ”good byGod be with you)”、””see you”、朝鮮語は「アンニョン(安寧)ケセヨ(◯◯を持ってお出かけください)」と言いますが、なぜ日本人は、別れの挨拶として「さようなら(さよなら、さらば、おさらば、あばよ)」と言うのでしょうか。もちろん、『ごきげんよう』とか『お元気で』とか『じゃあ、またね』とも言いますが。

 それでも、日本で一般的なのは、やはり「さよなら」です。これを漢字で書きますと、「左様なら」「然様なら」です。「さらば」は接続詞で、「それでは」の意味になります。親しい間で使う、『じゃあ』と同じ意味です。ひとつのことが終わって、そこに立ち止まって、次に新しいことに向かおうとするときに、『左様であるなら』『そうであるなら』と確認して決別するのです。日本の学校では、授業の始めと終わりに、『起立、礼、着席』と級長が号令をかけます。「ことの始め」と「ことの終わり」にしっかり区切れを守るわけです。そうしないと、1つ1つの「こと」が進められていかない、日本人の「けじめ」をつける態度、伝統なのです。『そうなら、また明日か、いつか逢いましょうね・・・さようなら!』なのです。

 田中英光という作家がいました。1940年に「オリンポスの果実」というベストセラーの小説を発表しました。ロスアンゼルスのオリンピックにボート選手として出場し、その体験記を描いた青春ものでした。その後、中国大陸で兵士として戦い、戦後は共産主義の運動に参加します。しかし精神的に行き詰まり、挫折した彼は、太宰治の墓の前で、服毒自殺をします。1949年、36歳の時でした。彼の作品に「さようなら」があります。この小説の最後の部分で、『ではその日まで、さようなら。ぼくはどこかに必ず生きています。どんなに生きるということが、辛く遣切れぬ至難な事業であろうとも――。 』と書いています。彼の子供たちへの遺書には、『さようなら、お父さんをゆるしておくれ!』とも記してありました

 清楚な白い色と甘い香りの「くちなし」の花によせて、恋を終わらせてしまう歌に、寡黙な日本人の感情は共鳴してしまいます。ハッピーエンドでは面白くないのでしょうか、日本人のセンチメンタリズムを満足させるのは、「悲恋」でなければならないのです。しかし、若い人には、素晴らしい人と出会って、輝いた人生を互いに「伴侶」として、花言葉のように、子どもたちをたくさん生んで育てて、「幸せ」になってほしいと、植え込みの「くちなし」の香りをかぎながら思う、五月の下旬であります。

金環日蝕

 

 2012年5月21日、朝6時過ぎ、ここ華南の地の雲間から、「金環日蝕」が、はっきりと見えました。北京時間の6時半過ぎから始まったようですが、雲間にありましたので、しばらく見守っているうちに、見え始めてきました。次男が家内に、『これで見るといいから持って帰って、5月21日の早朝に見てね!』と言われた、昔、ノートの下敷きに使った、セルロイド(プラスチック)製の様な「日蝕観察用のグラス」を通してでした。薄目にして肉眼でも見えましたが。ベランダから東の空に目を向けていたのですが、やはり神秘的でした!こちらの方は、いつもと変わらない生活をされていて、バス通りに人がそぞろ歩いていて、私と家内だけが、興奮していたのかも知れません。写真を撮りましたので、掲載しましょう!

 

(写真上は、次男が東京で撮影したもの、下の4枚は華南の空の下で撮影したものです)

会津魂

 明治維新の折、朝廷側の薩摩・長州藩と徳川幕府側の会津藩が、1968年に繰り広げた戦いを、「会津戦争(大きな意味では戊辰戦争(ぼしん)」といいます。明治維新以降の会津藩の処遇に対しての不満から起った戦争で、会津藩・鶴ヶ城に立て籠もって城を死守しようとしたのが、16歳から18歳の340名ほどの「白虎隊」でした。実際は予備軍だったのですが、この戦いに駆り出されます。近代的な銃器の長州軍に、旧式装備しかない白虎隊は、一ヶ月の善戦むなしく、ついに降伏してしまいます。

 この会津は、新興勢力に、尻尾を振ってなびこうとしなかった「意気地」が高く賞賛されて、歌にも歌われ、映画の題材にもなっています。旧主君の徳川様に忠誠を尽くすといった「武士道」を、現代の日本の社会が、やはり高く評価するのでしょう。私の下の息子が、仕事で、この会津を訪ねた時の話をしてくれました。タクシーの運転手は、『お客様は、どちらからおいでですか?』と聞き、『山口からです!』と答えると、『降りて頂きます。あなたを乗せることはできません!』と答えるのだそうです。観光客に対しても、いまだに、「会津戦争(大きな意味で戊辰戦争)の遺恨」が残っているのだと言っていました。幸い息子は長州人ではなかったので、乗車拒否をされなかったのだそうですが、150年も経つのに、会津っ子の心意気に興味津々になりました。

 私が、高校3年の時に、入学したかった「同志社大学」は、新島襄が建学した学校でした。その新島の夫人・八重は、実に、この会津藩・砲術師範の娘だったのです。少女時代には、鉄砲を手にして、長州勢と戦った「女兵(おんなつわもの)」だったのです。会津では女性も子供も、「会津魂」をもって勇ましかったのですね。この会津には、もう一人、特筆すべき女性がいました。家老の娘で、「山川咲子(後の大山捨松)」で、明治4(1871)年11月12日明治維新政府から派遣されて、アメリカに留学をした、12歳の少女でした。岩倉使節団の一行の中に、女子留学生が加えられていたのです。『日本の近代化のために、どうしても女子もアメリカ社会で学ぶ必要がある!』との、黒田清隆(北海道開発吏次官)と森有礼(後の文部大臣)の考えによりました。その時、一緒に留学した5人の中には、後に津田塾大学を創設する6歳の「津田うめ(梅子)」がいました。

 

 

異国に留学させる決心をした親も、進取の精神に富んでいたのですが、自ら決心して留学の道を選んだ捨松は、やはり会津っ子の血を引く女性だったのでしょう。黒田にしても、旧幕臣の娘・津田うめ、仇敵の会津藩士の娘・大山捨松を選考した度量の広さは、さすがに薩摩武士に違いありません。15歳の次女を、アメリカのハワイに送った1991年、私は心配でなりませんでしたが、親しい友人が世話をしてくれると確約してくれましたので、肩を押すことが出来たのです。しかし情報量の遥かに少ない時代に、年少の女子が、11年間という留学を果たしたことには驚かされてしまうのです。

 「捨松」とは、留学する娘に、母が、『あなたを「捨てる」つもりでいます!』という意味での「捨」、『帰ってくるのを「待つ」ています!』という意味での「松」だったと伝えられています。年長の二人は、異国の生活に慣れずに体調を崩し帰国します。ところが捨松は、ニューヨーク近郊のニューヘブンという街の牧師の家庭にホームステイをします。溌剌として生きる彼女は、アメリカ社会にすぐに慣れて、溶け込んでいきます。10年後、卒業時には、記念スピーチをします、その内容は、「イギリスの日本に対する外交政策」と題して話されイギリスが不平等条約によって日本国内に治外法権を維持し、その政策がこのまま継続されるなら、日本人は国の独立のために闘うことを決して止めないであろう!』、という内容だったのです。いやー、明治の女性は強くてしっかりして、自分の国の有様を正確に理解していたのですね。そのスピーチに、列席者からの拍手喝采がやまなかったそうです。そして祖国日本のために帰国するのです。

 「大山」という姓は、「大山巌」と結婚してからの名です。大山巌は、旧薩摩藩士の陸軍大将、亡くなった時には「国葬」が行われたほどの人でした。捨松は「鹿鳴館(明治政府の公的な社交場)の華」として活躍した、明治を代表する婦人だったのです。念のため、東日本大震災以降、山口と会津のそれぞれの市長が、握手してる写真が、新聞に掲載されていましたことを申し添えます。

(写真上は、鹿鳴館、下は、明治政府が1871年にアメリカに派遣した女子留学生、捨松は左端です)