20年前のことです 手紙をもらいました
一枚一枚あったかい 頑張って!の手紙
今このまち安中は(*) 緑があふれてます
災害があったことなんて 信じられないくらい
僕たちの番が来た 今度は励ます番が来た
20年前にもらった 手紙忘れないから
元気を出してくださいと 優しさがあふれる
20年前の手紙だけど 伝わってくるよ
今このまち島原は 笑顔があふれてます
焼け残った木の根元 新しい芽が出ます
僕たちの番が来た 今度は励ます番が来た
20年前にもらった 手紙忘れないから
僕たちの番が来た 勇気をだして さあ進もう
20年前にもらった 手紙と同じように
勇気をだして さあ進もう
20年前にもらった 手紙と同じように
[歌詞の説明」 (*)の島原市の水無川流域の窪地である「安中(あんなか)」三角地帯
(93ha)は、普賢岳噴火の火砕流や度重なる土石流で家屋や農地が3mも埋没し廃墟となった。「被災状態のまま放置」という絶望的な見方が大半だった。しかし、「土砂捨場と6mの嵩上げ兼用」という一石二鳥の新発想が功を奏した。当時の吉岡庭二郎市長は「(農地・住宅地として)荒廃地が・・見事に復興した(「一陽来復」2011、101頁)」
「長崎新聞」3月12日の記事は、次のように伝えています
『雲仙・普賢岳噴火災害を経験した島原半島の市民らが震災被災地復興の願いを発信するイベント「3・11を忘れない 島原半島からのエール」が、島原市平成町の雲仙岳災害記念館であった。噴火災害で被災した同市安中地区の市立第五小の児童約60人は、自分たちで作詞し た歌「20年前の手紙」を合唱。「僕たちの番が来た。今度は励ます番が来た」と声を合わせた。
イベントでは、地元の5団体がこの1年間の被災地支援について報告。南島原市立新切小PTA(中村哲康会長)は、子どもたちが育てたヒマワリの苗などを 被災地の宮城県南三陸町に届けた「みんな空の下プロジェクト」について発表。中村会長らは「一人一人の力はわずかでもたくさん集まることで大きな力にな る」と訴えた。
海を望むテラスで開いたコンサートには、島原農高和太鼓同好会など地元の音楽グループ8組が出演。昨夏、南三陸町でボランティア活動をした同会リーダー の横田慎二君(17)は「被災地に願いが届くよう演奏した。普賢岳災害でお世話になったので、自分がやれる支援を続けたい」と話した。会場では南三陸町に届けるための募金活動も実施した。』
この歌は、「20年前の手紙」という題で、長崎県島原市立第五小学校6年生が作詞をし、「NHKおかあさんといっしょ」の坂田おさむ氏が作曲をしたものです。「東北大震災」の被災地を励ますために作られたといいます。この島原第五小学校というのは、平成2年、3年(1992,3年)に起こった、雲仙・普賢岳の噴火災害で、火砕流や土石流によって、44名もの尊い人命が奪われた地元にある小学校です。
はるか昔には、『野蛮人!』と欧米人に蔑まれ、最近では、『エコノミック・アニマル!』と罵られてきた日本人ですが、こういった激励が、島国日本の住民が、支えられ続けてきた《力》なのではないでしょうか。もし日本に《誇ること》があるとするなら、「東京スカイツリー」のような高層建築物や、戦後の復興を果たしてきた「高度技術」などではなく、「今力のある者」が「今弱っている者」を、無言・無名・無償で、助け、励まし、支えてきたことなのではないでしょうか。これだったら、世界に日本を誇示できるのではないでしょうか。
(写真は、http://www.pmiyazaki.com/kyusyu/nagasaki_unzen/のHPの「アサギマダラ(雲仙の蝶)」です)