会津魂

 明治維新の折、朝廷側の薩摩・長州藩と徳川幕府側の会津藩が、1968年に繰り広げた戦いを、「会津戦争(大きな意味では戊辰戦争(ぼしん)」といいます。明治維新以降の会津藩の処遇に対しての不満から起った戦争で、会津藩・鶴ヶ城に立て籠もって城を死守しようとしたのが、16歳から18歳の340名ほどの「白虎隊」でした。実際は予備軍だったのですが、この戦いに駆り出されます。近代的な銃器の長州軍に、旧式装備しかない白虎隊は、一ヶ月の善戦むなしく、ついに降伏してしまいます。

 この会津は、新興勢力に、尻尾を振ってなびこうとしなかった「意気地」が高く賞賛されて、歌にも歌われ、映画の題材にもなっています。旧主君の徳川様に忠誠を尽くすといった「武士道」を、現代の日本の社会が、やはり高く評価するのでしょう。私の下の息子が、仕事で、この会津を訪ねた時の話をしてくれました。タクシーの運転手は、『お客様は、どちらからおいでですか?』と聞き、『山口からです!』と答えると、『降りて頂きます。あなたを乗せることはできません!』と答えるのだそうです。観光客に対しても、いまだに、「会津戦争(大きな意味で戊辰戦争)の遺恨」が残っているのだと言っていました。幸い息子は長州人ではなかったので、乗車拒否をされなかったのだそうですが、150年も経つのに、会津っ子の心意気に興味津々になりました。

 私が、高校3年の時に、入学したかった「同志社大学」は、新島襄が建学した学校でした。その新島の夫人・八重は、実に、この会津藩・砲術師範の娘だったのです。少女時代には、鉄砲を手にして、長州勢と戦った「女兵(おんなつわもの)」だったのです。会津では女性も子供も、「会津魂」をもって勇ましかったのですね。この会津には、もう一人、特筆すべき女性がいました。家老の娘で、「山川咲子(後の大山捨松)」で、明治4(1871)年11月12日明治維新政府から派遣されて、アメリカに留学をした、12歳の少女でした。岩倉使節団の一行の中に、女子留学生が加えられていたのです。『日本の近代化のために、どうしても女子もアメリカ社会で学ぶ必要がある!』との、黒田清隆(北海道開発吏次官)と森有礼(後の文部大臣)の考えによりました。その時、一緒に留学した5人の中には、後に津田塾大学を創設する6歳の「津田うめ(梅子)」がいました。

 

 

異国に留学させる決心をした親も、進取の精神に富んでいたのですが、自ら決心して留学の道を選んだ捨松は、やはり会津っ子の血を引く女性だったのでしょう。黒田にしても、旧幕臣の娘・津田うめ、仇敵の会津藩士の娘・大山捨松を選考した度量の広さは、さすがに薩摩武士に違いありません。15歳の次女を、アメリカのハワイに送った1991年、私は心配でなりませんでしたが、親しい友人が世話をしてくれると確約してくれましたので、肩を押すことが出来たのです。しかし情報量の遥かに少ない時代に、年少の女子が、11年間という留学を果たしたことには驚かされてしまうのです。

 「捨松」とは、留学する娘に、母が、『あなたを「捨てる」つもりでいます!』という意味での「捨」、『帰ってくるのを「待つ」ています!』という意味での「松」だったと伝えられています。年長の二人は、異国の生活に慣れずに体調を崩し帰国します。ところが捨松は、ニューヨーク近郊のニューヘブンという街の牧師の家庭にホームステイをします。溌剌として生きる彼女は、アメリカ社会にすぐに慣れて、溶け込んでいきます。10年後、卒業時には、記念スピーチをします、その内容は、「イギリスの日本に対する外交政策」と題して話されイギリスが不平等条約によって日本国内に治外法権を維持し、その政策がこのまま継続されるなら、日本人は国の独立のために闘うことを決して止めないであろう!』、という内容だったのです。いやー、明治の女性は強くてしっかりして、自分の国の有様を正確に理解していたのですね。そのスピーチに、列席者からの拍手喝采がやまなかったそうです。そして祖国日本のために帰国するのです。

 「大山」という姓は、「大山巌」と結婚してからの名です。大山巌は、旧薩摩藩士の陸軍大将、亡くなった時には「国葬」が行われたほどの人でした。捨松は「鹿鳴館(明治政府の公的な社交場)の華」として活躍した、明治を代表する婦人だったのです。念のため、東日本大震災以降、山口と会津のそれぞれの市長が、握手してる写真が、新聞に掲載されていましたことを申し添えます。

(写真上は、鹿鳴館、下は、明治政府が1871年にアメリカに派遣した女子留学生、捨松は左端です)