安全

 日本に帰って、『高い!』と思うのは物価ですが、『収入が多いから、高いのは仕方がない!』と納得してしまいます。しかし、高さの基準となるのは、「人件費」なのです。物を作るにも、サーヴィスをするにも、人の賃金が高ければ、それにスライドして、値段や料金が高くなるのは当然です。逆に、中国に戻ってみると、『安い!』と感じてしまいます。これも、人件費が低いので、値段も料金も安く抑えられているわけです。ところが、最近、人件費が高くなってきていますし、物の値段が高くなっていますので、「ルーミエン」と呼ばれる美味しい麺料理ですが、一番初めに食べた時には3元でした、ところが今では、7元と10元との二種類になって、10元のほうが、丼の中の具に驚くほどの違いがあるのです。野菜も肉もお菓子も、すべての価格が高騰してきているのですが、収入の少ない家庭では、やりくりが大変だろうなあと思うことしきりです。それでも、米とかバス代のような公共性のあるものは安くされております。

 昨年の6月に、広州まで飛行機で出かけ、帰りは「長途汽車」という、遠距離バスを利用しました。二階式の寝台バスで、肩幅ほどのベッドがあって、音とトイレの臭気で、熟睡はできませんでしたが、料金は安かったのです。安さに負けて、バスを利用したわけではないのですが、この国は、「公共料金」が安く抑えられているのです。そのためにバスの運転手は、月給も少ないようです。私が夕方に乗り込んだバスは、個人経営だったのですが、過重な運転手の負担を軽くするために、安全策が講じられていたのです。運転手が、途中で乗り込んできて運転を変わったり、交代で運転をしていました。私服を着た運転手で、外観から見て、『あれっ!』と、いつも思うのですが、運転は熟達していて、配慮があったのです。日本は制服を着ますが、心に制服を着せていないので、事故を呼ぶこともままあるようです。

 日本の交通機関の料金は、高過ぎるのではないでしょうか。とくに「JR新幹線」は、公共性を忘れているのでしょうか、実に高いのです。関空を利用していた時も、東京まで行くのに、『バスにしようかな?』と思わせる1つの理由は、料金の問題なのです。「三公社五現業(日本国有鉄道、日本専売公社、日本電信電話公社が三公社、郵便・林野・日銀・造幣・アルコール塩専売が五現業)」の頃の国鉄は、赤字経営でしたが、公共輸送機関としての役割を、しっかりと果たしていたのではないかと思っています。

 私は、『何時か乗ってみたい!』と思っていたJRの路線がありました。宮古と盛岡を結ぶ山田線に茂市という駅があるのですが、ここから始着発していた「岩泉線」です。3・11の地震で不通になってから、廃線が決まってしまいました。昔は、蒸気機関車が山間を走り、ジーゼルからバッテリーの動力で走っていた、沿線の景色に定評のある赤字路線でした。「地方切り捨て」「赤字線廃止」の経営方針で姿を消してしまうのです。「経営」だけが会社の存在目的になって、「公共性」を忘れてしまっているのが、《殿様商法》の今の企業の在り方なのではないでしょうか。

 それで、『料金を安く抑えれば、ビジネスチャンスがある!』と、バス輸送が脚光を浴びている矢先に、先日の関越道の悲惨な事故です。もちろん中国にも事故があります。これだけの人を輸送するのですから、事故だってあります。でも、安月給でも、バスは古びていても、最大限の安全対策をしているのが分かるのです。先ごろの「動車(中国版新幹線)」の事故には、ほかの問題があるようですので触れませんが、一般的に、安全が保たれていると思われます。速さより、安さより、《安全性》こそが、求められる業界です。日本の国の津々浦々に至る、総合的な輸送を考えて、これからの対策を急いで欲しいと思うのです。「リニア」は国威の発揚のために必要でしょうか。その予算で、安全対策を講じていかないと、「東京電力」の二の舞になるのではないかと、心配で、ご飯が喉を通りません・・・と言いながら、今朝は、饅頭を三等分してトースターで焼き、バター、果物ジャム、チーズ、きゅうり、紅茶、林檎、バナナの結構贅沢な独りの朝食をしてしまいました。

(写真は、長距離バスの乗車券売り場の風景です)

知恵

 

         人の語ることばにいちいち心を留めてはならない。

         あなたのしもべがあなたをのろうのを聞かないためだ。

 学校を出て社会人になろうとしていた時に、今で言う「就活」の時期になるでしょうか、母校の恩師が、1つの職場を紹介してくれました。私は、6年間の在学中に、この教師から教わったことがなかったのです。中学生の時に、バスケットボール部に所属しながら、高等部の「考古学研究部」の活動に参加していました。この研究会の顧問をされていたのが、この教師だったのです。学校が、武蔵府中、武蔵国分寺があった地にありましたので、よく、分倍河原、仙川、日野などの住居跡などの発掘の手伝いをしていたのです。

 スコップを手にしながら、堀り進んでいくときに、千年も二千年も前の古代の人々の生活の様子に、時空を越えて触れられるといった「浪漫」にふるえていたのです。あのまま進んでいたら、古代史の研究者になっていたかも知れません。ところが、バスケットボール部の上級生も、高校生も、OBも、何も知らない純な中学生の私を、大人の世界に引きずり込んでしまったのです。「揉まれる」というのでしょうか、エログロの雑誌や写真を見せられ、選び取りをするまでもなく、汚れた社会の洗礼を受けてしまったわけです。帽子に細工をしたり、ズボンの太さを調整したり、生意気さを増長させてしまう道に、突進していったのです。これが大人になるということとは違うのでしょうけど、背伸びをして、『はやく大人になりたい!』と焦った気持ちを持て余していましたから、すんなりとその波をかぶってしまったわけです。よく「中2の危機」とか「17の危機」とか言うのですが、まさにその危機の只中を深く潜行していたのです。

 そんなことですから、浪漫を追い求めるよりも、がむしゃらに大人の世界に突入していくのです。喧嘩をして、体の大きな級友を殴り倒したり、パンを盗んだり、実験室に忍び込んだり、クラブの部室荒らしをしたり、教師に楯突いたり、そんな事で明け暮れていたのです。ところが中3になってから、急におとなしくなって、三学期の学年末の「通信簿」に、担任が、『よく立ち直りました!』と書き込んでくれたほどでした。どうして、あのまま、ズルズルっと落ちていかなかったのか、自分でも不思議でならないのです。そのまま高等部に上がって、入ってきた同級生の中には、すぐに数人が退学していきました。盗みの常習で、意気が合って仲よかったのですが、運動部に入っていましたので、彼らと一緒に行動できなかったのが幸いしたようです。というよりは、心のどこかで、『母親を困らせて、泣かせてはいけない!』といった思いが強くて、それが抑止力になっていたのだと思うのですが。

 教育実習を、母校でさせてもらった時に、この「考古学研究部」の顧問の教師が、私の世話をしてくれたのです。「就活」の最中、この先生から連絡があって、『学校の帰りに寄りませんか?』と誘ってくれて、行きますと、『今度こういった機関が出来ましたので、私の元同僚もいますから、働いてみませんか?』と紹介してくれたのです。恩師の紹介でしたので、即採用となって、そこで3年働きました。この恩師の元同僚が、私の所属課の課長でした。一緒に山歩きをしたりはしたのですが、「狡い男」だったのです(!?)。この人につまずいた時に、それなりに悩ましい表情をしていたのでしょう、母が、冒頭の「ことば」を、私に聞かせてくれたのです。『人の語る言葉に煩わされないでね!』と言ってくれたのです。もちろん、《人間不信》を母が教えてくれたのではなかったのですが。どうも『人の言葉を鵜呑みにしないで、言葉半分で聞いたら!』と、教えてくれたのだと思うのです。それ以来、人にはつまずかなくなりました。感謝なことです。

 その上司が後で、ある短期大学の学長になっていたのを知らされて、驚いたことがありました。きっと、私のようにつまずいた部下が、何人もいたのではないかと、ふと思ったことでした。それでも、私の苦悩の日に、ほんとうに的確な助言をしてくれた母の知恵には、いまだに驚かされたり、感謝だったりであります。

(写真は、長野県富士見町の井土尻遺跡からの出土品です)