百年の計

 私の小学校時代の通信簿は、行方不明になってしまったか、こちらに来るときに、多くの物を処分してしまいましたから、市の焼却炉に運ばれてしまったかも知れません。お見せできないのですが、小学校の低学年の通信簿には、「落ち着きがなく、じっと座っていることが難しい」という所見が、必ず記されていました。教室では、「机間巡視」ということを教師がします。教壇の高いところから講義をするのではなく、生徒の机の間を歩きまわって教える先生の教育スタイルのことです。その「巡視」を、私がしていたわけです。黙って歩いていればまだいいのですが、時には、級友にちょっかいを出すのです。教室の後ろか廊下か、ひどい時には校長室に、立たされていました。まあ、問題児であることに違いなかったのですが。この通信簿の所見を読んだ、私の父も母も、これを意に介さなかったのでしょうか、このことで注意を受けた記憶が、全くないのです。すぐ上の兄も、いたずら小僧で、「要注意生徒」だったから、私も看過ごされたのかも知れません。

 当時の教育は、学問として未構築の時期で、専門的に研究したり、博士論文を書いて博士になろうなどと思っている教育者は少なかったのではないでしょうか。ですから、教育委員会で議題になったり、校長や教頭から注意を受けることもなかったのです。そんな私でしたが、《バカな子ほど可愛い》で、「大正デモクラシー」の盛んな時期に開校した特別な教育をしていた、私立中学への進学を父に勧められます。何と合格してしまったのです。そんな問題があったのが嘘のように、大学も卒業ができ、曲がりなりにも高等学校の教師にもなれたのです。級友が、『ホントか?』と菓子折りをもって、勤務先の学校に、私を確かめにやって来たこともありました。私は思うのですが、ネーミングされて、レッテルを貼られて、区別され差別されなかったから、みんなの行く軌道にのれるようになったのだと思うのです。何らかの切掛けがあれば、『人には、更生のできる場と時がある!』と信じるのです。

 今日の「毎日新聞」に、こんなニュースがありました。『自閉症小6評価せず、通知表に斜線』、関東地方の当時小学6年の男児(12)が、高機能自閉症で通常のクラスで教育を受けられないとして、「特別支援教育」の対象となったのですが、特別仕立ての教育がなされないままで、こういった評価が下されたのだそうです。『存在を否定さ れたようでショックだった!』と思われたお母さんが、当然の不服を申し立てたようです。しかし校長はどうも言い逃れをしているようですが。

 いつ頃からでしょうか、学年に「特別クラス(養護学級)」が設けられました。正常だと思っている子の父兄が、『一緒にいたら学習効果が上がらいので、別に分けてくれ!』、そう言って、どうも始まったのだと理解しています。私たちの時代は、みんな一緒でした。貧乏人も金持ちも、弁当を持ってこれる子も持ってこれない子も、傘のある子もない子も、できる子もできない子も一緒で、助けあって支え合っていたのです。私は、《多動性》の児童だったのに、「いじめ」を受けませんで、かえっていじめていました。『みんなが同じように!』という呪文で、競争もさせない、賞状もない、褒美もあげない教育が行われて、日本の教育はおかしくなっていったのではないかと思ってしまうのです。私が担任したWは、素行不良で、『どうにかしよう!』と持っている矢先に、『ヒロタ先生、自主退学させて下さい!』と、学校が決めて、私の頭の上で、そうして退学させてしまいました。その「ことなかれ主義」の一件で、教育の限界を痛切に感じ、その学校を私もやめてしまいました。若気の至りでした。

 

 人を育てるのは《百年の計》が必要だと言われています。教育に必要なのは、児童・生徒・学生への愛と忍耐です。私に忍耐し、諦めないで愛を注いでくださって先生方に、ただただ感謝している。五月の最後の月曜日であります。

(写真は、江戸時代の「寺子屋」の様子を描いたものです)

応援

 私のごく親しい知人から、こんな話を聞いたことがあります。

 『ボクの親爺は、体中に彫り物をしていたよ。真夏も決して半袖のシャツを着たりしないで、長袖で通していた。皮膚呼吸ができないので、暑さは、相当厳しかったようだが。それで、薄い上着を着ていて汗が出てくると、シャツか体にくっついて、その彫り物が写ってしまうので、お袋が、『お父さん!』といって注意をしていたほどだった。若気の至りというのだろうか、そのことを悔やんで隠し続けていた親爺だった。よせばいいのに、銭湯が好きで、地元では入れないので、隣り町に出かけたり、出先の銭湯を利用していた。今になると、懐かしい思い出だけどね。あの時は嫌で恥ずかしかったけど、今だったら、親父の背中を流して、親孝行をしてみたいよ!』といっていました。

 今、大阪職員の「刺青問題」が、ニュースを賑わせているようです。公務員の採用にあたって、その有無を調べることなどできないのでしょうけど、昔は、港湾労務を仕切る親方や、江戸の町火消しは、刺青をしていたと聞きます。「花と龍」を著した、小説家の火野葦平は、北九州の若松で、港湾の「沖仲仕」を仕切っていた玉井組の組長の長男として生まれています。。彼のお父さんは、それはみごとな刺青をしていたそうです。また、元総理大臣・小泉純一郎の母方の祖父・小泉又次郎は、逓信大臣を務めましたが、青年期に全身に彫り物をしていたそうです。それでいれずみ大臣》とか《いれずみの又さんなどと仇名されていたそうですが。又次郎の父・由兵衛は、軍港の横須賀で、海軍工廠で働く労働者を仕切る「請負」の仕事をしていたそうです。《気っ風(きっぷ)》と《腕っ節》が、この家業には必要であったそうで、そんなことから、息子も父に倣って、その仕事を継ぎ、満身に彫り物を入れていたのです。ところが又次郎は、横須賀市議、神奈川県議会の県議、後には衆議院議員にもなり、ついには大臣も務めたのです。とても親しまれた任侠大臣だったそうで、多くの武勇伝を残しています。

 「沖仲仕」という仕事を、私は学生のころにしたことがありますが、《板子一枚下は地獄》の世界で仕事をするのですから、気が荒い職場だったと思います。それでも、面白い職業体験をすることができて、今では感謝しております。こういった世界では、『とくに港町ともなれば素性もわからないような流れ者がゴロゴロ集まってくる。そんな彼らの上に立つには、刺青を彫るような男気のあるではないと現場を仕切れなかったろう』というのが、墨を入れる理由だったようです。

 この論理でいきますと、大阪市の業務を果たすためには、「刺青」を必要とするような、精神的な土壌が、大阪市民にはあるのでしょうか。『・・・素性もわからないような流れ者がゴロゴロ集まって・・・』いる市なのでしょうか。そんな彼らの間で奉仕する市の職員は、《睨み》を効かせる必要があるのでしょうか。「釜ヶ崎」というドヤ街に泊まって、通天閣の真下の銭湯にも入ったりしましたが、こういった地域の人々は「流れ者」が多いことは事実ですが、それにしても、「刺青」で住民を脅す必要など、全く感じられなかったのですが。「地方公務員の刺青」、ちょっと考えられないような大阪の世相だと思います。橋下市長のやりきれない気持ちが分かります。私の知人のお母さんが、面白半分で彫り物をした息子のことを心配して、何人かのお母さんから相談されたことがありましたので、彼の気持ちが何となく分かるようです。

 

 『若気の至りでした!』と反省の気持ちを表している人に、公務員への門戸は開いていていいと思うのですが、とくに私は地方公務員試験の不合格体験者として、公立の小・中学校の教師や職員には、こういったことがあってほしくないと思うのです。「ごくせん」というテレビ番組があったようですが、後藤久美子先生の背中には、きっと彫り物はなかったと思うのですが、仲間由紀恵に聞いてみなければなりませんが、まあ、これはテレビの世界の話しですから。

 市民を脅す様な職員の排除を断行して欲しいと願い、橋下市長を応援したい気持ちでいっぱいの五月の終わりであります。

(写真は、大阪名物の「大阪城の夕景色」です)