私のごく親しい知人から、こんな話を聞いたことがあります。
『ボクの親爺は、体中に彫り物をしていたよ。真夏も決して半袖のシャツを着たりしないで、長袖で通していた。皮膚呼吸ができないので、暑さは、相当厳しかったようだが。それで、薄い上着を着ていて汗が出てくると、シャツか体にくっついて、その彫り物が写ってしまうので、お袋が、『お父さん!』といって注意をしていたほどだった。若気の至りというのだろうか、そのことを悔やんで隠し続けていた親爺だった。よせばいいのに、銭湯が好きで、地元では入れないので、隣り町に出かけたり、出先の銭湯を利用していた。今になると、懐かしい思い出だけどね。あの時は嫌で恥ずかしかったけど、今だったら、親父の背中を流して、親孝行をしてみたいよ!』といっていました。
今、大阪職員の「刺青問題」が、ニュースを賑わせているようです。公務員の採用にあたって、その有無を調べることなどできないのでしょうけど、昔は、港湾労務を仕切る親方や、江戸の町火消しは、刺青をしていたと聞きます。「花と龍」を著した、小説家の火野葦平は、北九州の若松で、港湾の「沖仲仕」を仕切っていた玉井組の組長の長男として生まれています。。彼のお父さんは、それはみごとな刺青をしていたそうです。また、元総理大臣・小泉純一郎の母方の祖父・小泉又次郎は、逓信大臣を務めましたが、青年期に全身に彫り物をしていたそうです。それで《いれずみ大臣》とか《いれずみの又さん》などと仇名されていたそうですが。又次郎の父・由兵衛は、軍港の横須賀で、海軍工廠で働く労働者を仕切る「請負」の仕事をしていたそうです。《気っ風(きっぷ)》と《腕っ節》が、この家業には必要であったそうで、そんなことから、息子も父に倣って、その仕事を継ぎ、満身に彫り物を入れていたのです。ところが又次郎は、横須賀市議、神奈川県議会の県議、後には衆議院議員にもなり、ついには大臣も務めたのです。とても親しまれた任侠大臣だったそうで、多くの武勇伝を残しています。
「沖仲仕」という仕事を、私は学生のころにしたことがありますが、《板子一枚下は地獄》の世界で仕事をするのですから、気が荒い職場だったと思います。それでも、面白い職業体験をすることができて、今では感謝しております。こういった世界では、『とくに港町ともなれば、素性もわからないような流れ者がゴロゴロ集まってくる。そんな彼らの上に立つには、刺青を彫るような男気のある男ではないと現場を仕切れなかったろう!』というのが、墨を入れる理由だったようです。
この論理でいきますと、大阪市の業務を果たすためには、「刺青」を必要とするような、精神的な土壌が、大阪市民にはあるのでしょうか。『・・・素性もわからないような流れ者がゴロゴロ集まって・・・』いる市なのでしょうか。そんな彼らの間で奉仕する市の職員は、《睨み》を効かせる必要があるのでしょうか。「釜ヶ崎」というドヤ街に泊まって、通天閣の真下の銭湯にも入ったりしましたが、こういった地域の人々は「流れ者」が多いことは事実ですが、それにしても、「刺青」で住民を脅す必要など、全く感じられなかったのですが。「地方公務員の刺青」、ちょっと考えられないような大阪の世相だと思います。橋下市長のやりきれない気持ちが分かります。私の知人のお母さんが、面白半分で彫り物をした息子のことを心配して、何人かのお母さんから相談されたことがありましたので、彼の気持ちが何となく分かるようです。
『若気の至りでした!』と反省の気持ちを表している人に、公務員への門戸は開いていていいと思うのですが、とくに私は地方公務員試験の不合格体験者として、公立の小・中学校の教師や職員には、こういったことがあってほしくないと思うのです。「ごくせん」というテレビ番組があったようですが、後藤久美子先生の背中には、きっと彫り物はなかったと思うのですが、仲間由紀恵に聞いてみなければなりませんが、まあ、これはテレビの世界の話しですから。
市民を脅す様な職員の排除を断行して欲しいと願い、橋下市長を応援したい気持ちでいっぱいの五月の終わりであります。
(写真は、大阪名物の「大阪城の夕景色」です)