山と山がせめぎ合っていて、その幅20メートルほどしかなかったでしょうか、その道の脇に、この地で有名な神社の参拝客用の旅館が、今でもあります。そのひなびた旅館に、二階建ての離れがあったのですが、そこが私と弟が生まれた家でした。だれも住まなくなって、廃屋のようになっていたのが、潰れてしまったのでしょう、今は跡形もありません。その旅館の離れに家族を住まわせて、そこから山道をずっと上がったところに、父が働いていた軍需工場がありました。200人ほどの従業員がいて、飛行機の防弾ガラスを製造する原材料の1つである、「石英」を採掘し、それをケーブルで沢違いの基地に運び、トラックで駅まで運び、駅から貨物列車で京浜地帯にあった工場に出荷していたのです。終戦の前の年に、山形から、私を宿した身重な母は、この山奥まで、軍命に従った父と、二人の兄を連れてやって来たのです。そこで私を生んでくれたのですが、真冬の12月でした。弟を生んでから、沢違いのケーブルの到着点にある社宅に引っ越しをしました。そのケーブルには、山で撃ち取った〈熊〉が運ばれてきて、真っ黒な塊が、ケーブルの脇に、時々置かれていたのを思い出します。鹿もあったでしょうか。記憶にはありませんが、それを、何度も食べたのでしょうね。

 戦争が終わって、軍需工場は閉鎖されてしまいました。戦時中、米軍は、こんな山奥に軍需工場があるとの情報を得ていなかったのか、爆撃対象から外れていたのは幸いでした。ですから、このケーブルは、木材の運搬のために使われていました。父は、県有林を払い下げてもらって、全く畑違いの「材木業」をしばらくしていたのです。そのケーブルに私は、どうしても乗りたかったのですが、父は決して許してくれませんでした。上の兄たちは乗せてもらった経験談を、誇らしげに話していたことがありますが。

 その山奥に、母の故郷から、親戚ではなかったのですが、弟のように世話をしてきた、予科練(海軍予科練習生)帰りの方がいました。立派な体格をしていていたのを思い出します。父も母も、『繁ちゃん』と呼んでいましたので、私たちも、そう呼んでいました。この方が、私をおぶって、山道を泣きながら連れてきたことがあったそうです。これも記憶がないのですが、屈強な男が泣いてしまう程の長い道のりを、おぶってくれたのです。この話を、父がよく聞かせてくれたので覚えています。いつでしたか、出張で山陰に参りました時に、この繁ちゃんの家を訪ねたことがありました。『こんな話を父から、よく聞かされました!』『ごめんなさい!』と言いましたら、彼は、ただニコニコ笑っていただけでした。日本におりました時に、夏には「二十世紀梨」、暮には「出雲そば」と「野焼(アゴという飛魚で作った蒲鉾)」が、毎年、この繁ちゃんから母と上の兄の家と弟、そして私とに、それぞれ送ってくれたのです。

 そんな関係で、わが家には、石英に結晶した「水晶」が、床の間に飾られていました。相当に重かったのを覚えています。それが、いつの間にか、なくなってしまっていましたが、気前の良い父は、大事にしていたのに、きっと、どなたかに上げてしまったのではないでしょうか。もしかしたら、戦争の記憶を捨ててしまいたくて、父が処分してしまったのかも知れません。そういえば、父も母も、何も残さなかったのです。後生大事にしていた宝物とか趣向の蒐集品というものは、まったくないのです。ただ本は好きだったので、それが残っていることでしょう。そんな母の書庫の中から、昨年帰国しました折に、一冊の本を、こちらに持ってきております。母が上の兄の家にいましたので、断りなく持ってきてしまったのですが、母は許してくれたことでしょう。この本の第三表紙に、『2008年TK』と記されてあります。91歳の母が、立川の書店で買ったのです。そんな年齢までも読書欲があったのには驚かされてしまいます。そういえば、買い物の好きな母でした。『みんなが学校に行ってる間に、わたしは新宿に買い物に行ってきたわ!』と、なんども言っていたのです。明日は5月1日、稲妻と大轟と雷雨の午後であります。

(写真は、「岩村清司のブログ」に掲載されていた〈我が故郷の山から望む富士〉です)

マグマ

 

 子育の頃に住んでいたのが、N中学校の裏門から50mほどのところでした。市の中心街から川を渡った、住宅街の中にあった学校だったのです。団塊世代の頃に建てられた、長い伝統のある中学ではなく、そんな彼らのジュニアが通学し始める頃だったと思います。わが家の近くでしたから、上の3人が卒業した母校でもあったのです。今日日の中学校や中学生は、どんな状況なのでしょうか。二番目の子が高校に入った頃には、ほかの地域に越しましたので、校庭の野球部の練習の声も聞きくことがなくなりましたし、学校の様子もわからなくなってしまいましたが。

 上の子が中学に入る前でしたから、80年代のはじめ頃、さらにはそれ以前には、あの中学校が荒れていた時期がありました。全国的に「校内暴力」が、社会を賑わせていた時代でした。いじめが頻発し、教師に暴力を振るったり、校舎や体育館のガラスを粉微塵に割ったりしていました。あるときは、校庭に、オートバイで乗り入れて暴走していたりしていました。そんな頃に、「タイマン」と言って、一対一の喧嘩をしているところに通りかかったことがあります。それで、私はオッチョコチョイなものですから、二人の間に入って、『もういいだろう!』といって仲裁をしたのです。一人は近くの団地に住んでいる、不良中学生のKでした(名前を聞き覚えがあったからです)。彼の相手をしていたのは、クラスか生徒会の委員をしていた男の子で、正義感に燃えて、「タイマン」を申し込んだようです。

 喧嘩慣れしているKに、彼は全くかないませんでした。殴られて防戦一方だったのです。学校の正門を出て、学校からは死角になっていた路地の奥で始めていました。本来なら、教師が間に入って指導すべきなのです。当時、この中学も、やはり校内暴力を抱え込んでいて、指導どころではなかったようです。教師たちが4、5人、遠巻きにこの喧嘩の様子を見ているだけで、手をこまねいていました。こういった場面というのは、喧嘩慣れした過去のある者にとっては、お手のものだったのです。戦意を喪失していた彼に、まだ殴りかかっていましたから、誰かの仲裁の頃合いだったのです。そこに私が入り込んで、『俺のこと知ってるか?』とKに聞くと、『そこの事務所のおっちゃんずら!』と、殴る手を引込めて答えました。一件落着でした。

 その数日後、お母さんとその委員が訪ねてきました。お母さんから感謝をされ、手土産まで頂いてしまいました。彼は、きっと嬉しかったのでしょうか、お母さんに事の次第を話して、二人でやってきたのです。私は、彼の勇気、男気を褒めてあげたのです。当時、事務所に入り込んできた、この中学や余所の学校の中学生たちに、焼きそばを作って食べさせたりしていたのです。Kは来たことはなかったのですが、彼の仲間は来ていたと思います。

 もう、あれから30年近くなります。どうしているのでしょうか。Kも委員も、もう43、4歳くらいになっていることでしょう。大学生の息子や娘のいる年齢になっているのではないでしょうか。あっ、「事務所」と言っても、あの道のものではなく、私の小さな会社でしたので念のため。

 あんなに荒れていた子供たちでしたが、一過性の嵐のように静まって、過去のことになりました。「時代の子」と言えるのでしょうか。駅で切符を盗んで、駅と学校に呼び出されたこと、暴力団からピストルを手に入れることが発覚して呼ばれたことなどがありました。いつも母が行ったのです。中学生の時でした。学校は穏便にすませてくれ、母は私を叱りませんでした。あの時、処分をされていたら、その後はどうなっていたかな、と考えることがあります。思春期のマグマのような胎動が、どなたにもあるのです。ある人は穏やかに、ある人は激しく動くのでしょう。きっと、担任や教頭から厳しいことを言われた母でしたが。その母が召されてひと月になりました。いろいろなことが思い出される、「労働節」の連休の初めの日の夕暮れ時です。

(写真は、鹿児島県・桜島の噴火の様子です)

お洒落れ

 

 アメリカ映画を見てて、『Gパンをはいて、街中を肩で風をきって、格好よく歩いてみたい!』と願っていた中学生の私は、ときどき「アメ横」に、そのGパンを買いに行きました。初めは、「アメ」は「飴」だと思っていたのですが、「アメリカ」だったということを知って、吹き出してしまいました。御徒町と上野の駅の間のガード下から膨らんで、迷路のような中に、商店が軒を連ねていました。テント張りで、どうも闇市だったようです。『東京って綺麗な街ですね!』と外国人が評価する今とは違って、薄汚い街が東京のほとんどだったのではないでしょうか。とくに、この御徒町周辺は汚い街だったのです。40~50年も経つと、そんな評価に変わるのですから、東京の街の躍進はすごいことなのではないでしょうか。

 昨晩、娘からスカイプがありました。『仕事でインドのニューデリーに行ってきたの!』とレポートしてくれました。どうもニューデリーも交通渋滞があるようで、その原因を話してくれました。人も車も多いのは、相当なものかも知れませんが、渋滞の原因は「牛」だったようです。神のように大切にされているのですから、追い払ったりできないのでしょうね。牛の思うままにソロソロと歩むのを人も車も待つのでしょうか。牛が闊歩するまちなかですから、どんなに汚れていることでしょうか。娘も、『本当に汚い街。でも何だか味のある街だった。アジアという感じが全くしないくので驚いた!』と、初めてのインド訪問記を語ってくれました。

 私がアメ横に行った時に、『ヒロタ!』と呼びかける声を聞いたのです。それは2級上の上級生で、店の手伝いをしていたようでした。こんな上野の御徒町で出会うなん思ってもみませんでした。顔は知っていたのですけど、名前も知らない先輩でしたが、私の名前は知っていたのには驚きました。都下にあった学校ですから、相当な距離があるのに、『東京って結構狭いだなぁ!』と思わされたのです。ちょっと挨拶して、近くの店で、中古のGパンを買って帰ったのです。この先輩のお父さんは、多分やばい仕事をしていたのではないでしょうか。店の中に雑然といろんな物が並べられていたのです。私立の中学に息子をやらせるのですから、結構豊かだったのでしょうか。それ以来会ったことはないのですが。

 もう15年以上も前になりますが、御徒町の近くの秋葉原に、何かの部品を買い物に行ったことはありますが、もう何十年も行ったことがありません。今回、こちらに戻るときに、日暮里から京成スカイライナーの特急に、成田空港まで乗ったのですが、恵比寿から山手線で、この「御徒町」を通過したのです。どんなに変わってしまったかは検討がつきません。今度帰国したら、ちょっと足を伸ばしてみたいなと思わされています。昔は、アメリカ軍の物資の横流れ品が、多く売られていましたが、今では輸入品がどこでも買える時代になりましたから、そんなに珍しいものではないのかも知れません。チョコレートなんかも買ったのを覚えています。

 来週は、「労働節」の、いわゆる中国版の「ゴールデン・ウイーク」になるのですが、寒い冬が終わって、街路樹に花がつきはじめています。今は、花水木が見頃です。最近、街中の風情で、『わぁー、変わってきたんだ!』と思うことがいくつかあります。そのひとつは、スカートを履いて、お化粧をしている女性が増えてきたことです。ファッションの輸入でしょうか、東京の街と遜色のない、お洒落れが流行ってきているのです。20年ほど前に初めて来ました時との時代の隔たりを感じさせられます。クラスにやってくる女子大生も、オシャレをしてこられます。中学生の男の子の私だって、そうしたかったのですか、うら若き女性ですから、当然なのでしょうね。服装もですが、《内面の飾り》も忘れてほしくないなと思う、連休前であります。

(写真は、http://www33.tok2.com/home/m35rx4/okachimachi.htmの「アメ横」です)

初恋と褌

  まだあげ初めし前髪の  林檎のもとに見えしとき  
      前にさしたる花櫛の 花ある君と思ひけり

  まだあげ初めし前髪の  林檎のもとに見えしとき 
  前にさしたる花櫛の  花ある君と思ひけり

  やさしく白き手をのべて 林檎をわれにあたへしは
  薄紅の秋の実に 人こひ初めしはじめなり

  わがこゝろなきためいきの その髪の毛にかゝるとき
  たのしき恋の盃を 君が情に酌みしかな

  林檎畑の樹の下に おのづからなる細道は
  誰が踏みそめしかたみぞと 問ひたまふこそこひしけれ

 これは「若菜集」にある、島崎藤村(1872~1943)の「初恋」です。浪漫派の七五調で、日本語の美しさをいやが上にも表現した秀作です。次女夫婦が、「ジェット」というプログラムで、長野県の高校で英語教師をしていました時に、彼女たちを幾度となく訪ねました。ある時、「馬籠」に案内してくれたのです。そこは旧中山道の宿場町で、昔のたたずまいのままに、その街並みが残されていました。山あいの自然の美しい村で、旅人の疲れをいやし慰めたであろう景観を、今なお残して連なっておりました。道には石畳が敷かれていて、この石を踏んで旅人は北に南に、ここを通り過ぎ、茶店で団子と渋茶を楽しんだのでしょうか。私たちも、「おやき」を買ってお茶を飲みながら過ごしたのですが、江戸時代にタイムスリップしてしまったような気分を味あうことが出できました。

 藤村は、この村の出身で、生まれた家は代々、庄屋/問屋をつとめた、この地方の名家の出でした。9歳で東京に出て、小学校を終え、明治学院に学びます。卒業後二十歳で、明治女学校の教師になっています。私も東京の女子高で教員をさせていただいたのですが、私は25歳の時でしたから、女子高生の取り扱いは、まあまあ心得ていたつもりでした。二十歳の藤村を思いますと、『大変だったろうなあ!』と思ってしまうのです。どんな男性でも、女子校にいると、〈もてる〉といった錯覚に陥ってしまうのだそうです。男性を見る目がオトナになっていませんし、稀少の男性が関心の的となるのですから、致し方がないのかも知れません。私は、その学校から招聘された時に、一大決心をしたのです。『同僚と教え子に恋をしない!』『同僚と教え子と結婚しない!』とです。時々、教え子や同僚と結婚した教師がいますが、そういった人と同じになりたくなかったのです。『ほら◯◯先生の可愛い子、あの子なんて言いましたっけ?』という教師たちの会話を聞いて、呆れ返ってしまった私は、脱出を考え始めていました。

藤村は、教え子に恋をしてしまい、学校を退職します。しばらくして復職するのですが、友人の北村透谷が自殺をしたことを苦にし、女学校の教師やめてしまうのです。人を好きになるのは自然のことですから悪いことではありません。でも、まだ何もわからない教え子を好きになってしまうのは一種の〈犯罪行為〉です。なぜかというと、狡賢いし卑怯だからです。藤村は自責の念をいだいて退職したのですが、彼が私の同窓の先輩であることを恥じるのです。上手な文章を書くことにかけては名文家の誉がありますが。

 素晴らしい「初恋」を詠んだわりには、女性問題が山積していたようです。愛媛に、私が師と仰いだ人がおいででした。一度訪ねたことがありました。この方が、『藤村は、自分の不品行を題材に書を書いた小説家で、私は彼を最も軽蔑する!』と言っていました。文学者は、作品の題材のために、あえてそういった傾向があるのでしょうか。もともとだらしないのでしょうか。『遊びも文学のため!』と思って、そういったことが許されると思って言い訳しているのでしょうか。そんなことで、物書きにはなりたいと思ったことが、一度もありません。男は褌(ふんどし)をきりりとしめねばならない、私はそう思っております。

 同級生が、この詩を好きで、彼から教わったのですが。もう随分会っていません。好い人生を生きて来ているのでしょうか。桜が散ってしまって、四月も一週を残すのみとなりました。秋でもないのに、人を思い出してしまいました。

(写真は、ウイキペディア掲載の「馬籠宿」です)

最後のひとつ

 この1月に、日本に帰国している時、出張で東京に来ていた娘が、「梅干し」を2パック買ってくれました。近くの行きつけのスーパーででした。『必ずもって帰ってね。そして大事に食べて!』と言い残して、シンガポールに帰って行ったのです。冷蔵庫にしまっておいたのを、2月に、こちらに戻るときに、しっかりともって帰って来ました。こちらの食習慣に、もう慣れきってしまいましたが、疲れた夕べ、食事の後には、ちょっと甘いものに「緑茶」は、ときどく飲みたくなってしまいます。何ヶ月分も買ってこれませんし、買い出しに帰国するわけでもないので、すぐ底をついてしまいます。無くなってしまうと、至極飲みたいもので、決まって私が、『だれか送ってくれないかなあ!』と言うのですが、どうも声は届かないようです。とくに、煎茶が飲みたくなるわけです。結婚した当時は、若かったからでしょうか、お茶は、客用には買い置きがありましたが、家内とお茶を入れて、ゆくり飲むことなど、まったくありませんでした。「氷水」が定番だったでしょうか。

 今晩、独り世帯の私は、お昼にラーメンを作った時に、野菜炒め(キャベツ、きのこ、玉葱、長ネギ、にんにく、ベーコン)を作ったのですが、それを半分残しておきました。それに、ケチャップを入れて味付けをしてスープにしたのと、菜の花のおひたし(昨晩の残り物)でした。それに梅干しも添えてすませたのです。デザートは、おととい訪ねてきた方が、おみやげで持ってきてくれた「枇杷」を食べて、今日の夕食を終えました。最近、一人で食事をする機会が多くなっているので、やはり食べるって大変なことだと思うことしきりです。外で食べるのは簡単ですが、「化学調味料」の味が強くて、たまにはいいのですが、続けて食べる気にはなりません。さりとて、自分で作るのは、やはり面倒なものですから、一回の調理で、二食、三食分を作って、小出しで食べる知恵がついてしまいました。一番いいのは、「カレー」ですが、帰国する前に作って冷凍にしたのが、残っていたので、戻ってから早速食べてしまいました。そろそろ作ってもいい時期になったようです。

 さて「梅干し」ですが、今晩、最後のひとつを食べ終わってしまいました。ケースを未練がましく覗いてみると、「豊熟梅」と書いてあります。和歌山県田辺市の会社の製造で、賞味期限が〈12.6.10.B〉と記入されてあります。よく見ましたら、〈原料原産地名;中国(梅)〉とあるではないですか。ということは、ここ中国から輸出されて、和歌山で加工し、代官山のスーパーの店頭に並べ、それを娘が買ってくれ、冷蔵庫から出したのを、20キロの荷物制限の中にパッキングして、飛行機で持ち帰った代物(しろもの)なのです。延々と長旅をして、故郷に戻ってきたわけです。その最後でした。国産梅の産地のものが高すぎるのでしょうか、安い輸入品が、ほとんどになってきているのでしょうか。和歌山物と思わせるほどに遜色がなく、中日合作を美味しくいただきました。

 これから、家内に電話を入れるつもりです。もって帰ってくる物のリストに、「煎茶」と「梅干し」を付け加えるように言うつもりです。我が家でも、ときどき持たれる、「奥さま会(こちらに嫁いだ方と日系企業人のご夫人)」でも、やはり日本食の話題が多いそうで、実家から送ってきてもらうのでしょうか、貴重な日本の味に浴することができるので、大歓迎しています。健康だから、食べたくなるので、食欲というのは軽蔑してはいけないのだと思い改ております。そういえば近くのスーパーに、「らっきょう漬」が売っているのです。味付けは、全く日本と同じで、ちょっと高めですが、一昨日買い物に行った時に買ってしまいました。お昼に5こほど食べたので、夕食はやめておきました。明日の楽しみにしようと思います。「食」は大切なので、今日は食べ物のお話でした。

(写真は、〈ゆんフリー写真素材集〉の「梅の実」です)

命をかけたもの

 


      あきらめましょうと 别れてみたが
      何で忘りょう 忘らりょか
      命をかけた 恋じゃもの
      燃えて身をやく 恋ごころ

      喜び去りて 残るは泪
      何で生きよう 生きらりょか
      身も世もすてた 恋じゃもの
      花にそむいて 男泣

 この歌は、「無情の夢(作詞・佐伯孝夫、作曲・佐々木俊一 、歌・児玉好雄)」で、昭和11年(1936年)に、一世を風靡した流行歌でした。この年は、二二六事件、広田弘毅内閣、国会での佐藤隆夫の粛軍演説、ベルリン・オリンピックなどが行われた年で、不穏な社会情勢の只中に、日本も世界もおかれていたようです。私の母は、まさに19歳、青春まっただ中にいたことになります。多感な乙女は、この年に大ヒットした「無情の夢」を、胸をときめかして聴き、歌ったのではないでしょうか。歌詞を見ただけでも、忘れられない人、いのちをかけた恋、燃えて身をやく恋、身も世も捨てた恋、男が泣くような思いで恋心を歌ったのですから、実に激しい恋の歌なのです。

 高校1年だったと思いますが、15の私は、『お母さんの若い時に流行った歌に、どんな歌があるの?』 、『歌ってみて!』とお願いしたのです。私の通った中学校の女子部に、同じ駅から乗車して、国分寺で下車し、バスや徒歩で通っているうちに、2年上の先輩が気になって仕方なくなりました。胸がときめくというのでしょうか、キューンとしてしまうほどに憧れてしまったのです。目元の涼しい大人の感じだったでしょうか、余所の高校生のナンパの対象だったし、まだ子供の私には、どう見ても高嶺の花でした。声をかけたことありませんから、ただじっと遠くから見つめるだけの片思いだったわけです。これが、青いレモンの味がする我が、人を恋そめし初めであります。

 

 母は、ほとんど躊躇することなく、『そうね・・・』と言って、この歌を歌ってくれたのです。私も思春期真っ盛り、異性への関心は最高潮の時期でしたから、この激しい恋の歌に圧倒されはしましたが、一生懸命に書き下ろして、節を覚えて歌い習ったのです。学校の遠足に、これを級友の前で披露したこともあるほど、背伸びをしていた時期だったでしょうか。母が、「母」であるだけでなく、ひとりの「女」であることを感じて、なんとなく不思議で、そんな一面を母のうちに垣間見ることで、さらなる親密感を覚えたのを、うっすらと覚えています。母が、いわゆる流行歌、歌謡曲を歌ったのを聞いたのは、それが初めてのことでした。それ以降は、二度と聞くこともなかったのです。母は、そういった青春期の思い出を封印してしまって、4人の気の荒い息子たちの「母業」に専心していたのではないでしょうか。

 そういえば、その頃の母の写真が、母のアルバムの中にあったのを見たことがあります。ワンピースを身につけ、洒落た毛のついた帽子をかぶり、口紅で唇を赤く染め、片方の手を腰に添えた、映画女優のような一葉の写真です。父に結婚を決意させた程のあでやかさがありました。兄の家に、きっと残されているのではないでしょうか。母は、私の娘たちに、自分の青春を語りたがっていたようですが、母の生活圏から遠い街で娘たちは育ち、学業で国を出たり帰ったり、アルバイトをしたりで忙しかったので、ついに、その機会はなかったのではないかなと思います。娘に恵まれなかった母は、息子の娘に思いがあったのかも知れませんね。恋でも、名でも、財産でもなく、「命をかけたもの」を、母は堅持し続けて、この地上の生涯を生きた人でした。

(写真は、昭和11年の東京上野の夜景です)

家族

 

 人間(じんかん)五十年、下天(げてん)のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり

 ひとたび生を得て滅せぬもののあるべきか

 これは「幸若舞~敦盛~」という、室町時代に流行した伝統芸能で演じられる作品で、織田信長が好んで舞ったと言われて有名です。これは、『人間の一生は、わず か五十年に過ぎない。人の世の時の流れにくらべたら、人生なんて、まるで夢や幻であり、この世に生を受けた者は、滅びないものなどあろうはずがない。』と いった意味で、さびしい人の世の悟りを告白したのでしょう。

 母の95歳の誕生日の晩、兄や弟や嫁や孫たちに、ケーキとカードと母の好きだった歌、家内とわたしの連名で送った誕生カード、子供たちの誕生カードも添え られて読まれ、誕生日が祝われたのです。それを母は、心から喜んで感謝したようです。その5時間後に、入所していた介護施設で、平安のうちに、天の故郷に帰って行きました。口から飲むことができなくなって三日目の自然死、老衰だったそうです。大正6年3月31日の生まれですから、大正5年度の最後の日でし た。一人の夫の妻として30年、四人の男の子の母として70余年、関東大震災、日中戦争、日米戦争、戦後の混乱と荒廃、廃墟からの奇跡的な復興、東京オリ ンピック開催などなどを経験しながら、波乱の大正・昭和・平成の世を生きたのです。その一生を閉じ、「永遠の故郷」に帰還いたしました。

 4月5日に、上の兄の手で「告別式」が行われ、弟と私が母の思い出を語り、次兄が息子たちを代表して挨拶が行われました。『きっと泣くだろう!』と、自分 でも覚悟していましたが、涙ぐみましたが泣かないで、母の死を「凱旋」と納得して、自分の「グリーフワーク(悲嘆の作業)」をすることができたのです。 父、義兄、義妹、甥、多くの友人を荼毘に付した場所で、「火葬式」を行ないました。母の亡きがらが骨になってしまい、母の思いの中にいた私たちの手で遺骨 を拾いました。『これが骨盤です。』と説明されたとき、その中にあった母の胎の中に、私たち4人が十ヶ月の間宿っていたことを思って、その感慨は一入でし た。そこから喜ばれて生まれてきたという、命の神秘を思わされ、なんともいいえない不思議な思いに浸されてしまいました。

 東京郊外の高尾にある霊園に、母の骨を、母の好きな歌を歌いながら埋葬しました。父、義兄、義妹、甥、多くの友人たちの埋葬された墓に加えられた母の骨で すが、多くの人は、『今ごろ、和やかな歓談の時を送っていることだろう!』と想像をたくましくします。死んだ者同志が、どんなに生前親しくとも、交わりを もつことがあるとは思えませんが、近い将来、『起きよ!』との声を聞いて、父、義兄、義妹、甥、多くの友人たちが立ち上がることでしょう。そして「永遠の いのち」に生きていき、彼らに再会できる希望を与えられております。

 信長の好んだ短歌に言う寿命の倍ほどを生きた母でしたが、『こんにちは!』を言ったら、すぐに『さようなら!』と言う、人生の短さに、改めて驚かされた次 第です。シンガポールの長女、アメリカにいる次女が二人の孫を連れて帰国して、母の葬儀に参列してくれました。『馬鹿な子ほど可愛い!』と言われるのです が、馬鹿な子の私は、母に可愛がられて甘やかされて育ったのを知ってる彼女たちは、一大危機だとも思ったようです。『親爺を支えなければ!』と思ったので しょうか。葬儀が終わって、長男と次男の発案で、もう一人のおばあちゃんの住む街に、孫たち4人を連れて、ひさしぶりの家族旅行をしました。その晩は近く のビジネスホテルに11人で泊まり、翌朝、曾祖母を訪ねたのです。介護をする義妹を誘って、子供たちが育った街で、よく食事をした「寿司屋」で昼食を一緒 にしました。その晩は、八ヶ岳のホテルに泊まり、『家族っていいなあ!』と異口同音、それぞれの感謝な思いを告白しました。

 子や孫や曾孫の誕生を喜び、母や祖母や曾祖母の死を悲しむ、この人の世の繰り返される悲喜こもごもの出来事に、一喜一憂は生きるということなのでしょうか。目黒川の両岸の満開の桜が、今日はもう散り始めております。

(写真は、2012年4月8日の目黒川河畔の「夜桜」です/次男撮影)