あきらめましょうと 别れてみたが
何で忘りょう 忘らりょか
命をかけた 恋じゃもの
燃えて身をやく 恋ごころ
喜び去りて 残るは泪
何で生きよう 生きらりょか
身も世もすてた 恋じゃもの
花にそむいて 男泣き
この歌は、「無情の夢(作詞・佐伯孝夫、作曲・佐々木俊一 、歌・児玉好雄)」で、昭和11年(1936年)に、一世を風靡した流行歌でした。この年は、二二六事件、広田弘毅内閣、国会での佐藤隆夫の粛軍演説、ベルリン・オリンピックなどが行われた年で、不穏な社会情勢の只中に、日本も世界もおかれていたようです。私の母は、まさに19歳、青春まっただ中にいたことになります。多感な乙女は、この年に大ヒットした「無情の夢」を、胸をときめかして聴き、歌ったのではないでしょうか。歌詞を見ただけでも、忘れられない人、いのちをかけた恋、燃えて身をやく恋、身も世も捨てた恋、男が泣くような思いで恋心を歌ったのですから、実に激しい恋の歌なのです。
高校1年だったと思いますが、15の私は、『お母さんの若い時に流行った歌に、どんな歌があるの?』 、『歌ってみて!』とお願いしたのです。私の通った中学校の女子部に、同じ駅から乗車して、国分寺で下車し、バスや徒歩で通っているうちに、2年上の先輩が気になって仕方なくなりました。胸がときめくというのでしょうか、キューンとしてしまうほどに憧れてしまったのです。目元の涼しい大人の感じだったでしょうか、余所の高校生のナンパの対象だったし、まだ子供の私には、どう見ても高嶺の花でした。声をかけたことありませんから、ただじっと遠くから見つめるだけの片思いだったわけです。これが、青いレモンの味がする我が、人を恋そめし初めであります。
母は、ほとんど躊躇することなく、『そうね・・・』と言って、この歌を歌ってくれたのです。私も思春期真っ盛り、異性への関心は最高潮の時期でしたから、この激しい恋の歌に圧倒されはしましたが、一生懸命に書き下ろして、節を覚えて歌い習ったのです。学校の遠足に、これを級友の前で披露したこともあるほど、背伸びをしていた時期だったでしょうか。母が、「母」であるだけでなく、ひとりの「女」であることを感じて、なんとなく不思議で、そんな一面を母のうちに垣間見ることで、さらなる親密感を覚えたのを、うっすらと覚えています。母が、いわゆる流行歌、歌謡曲を歌ったのを聞いたのは、それが初めてのことでした。それ以降は、二度と聞くこともなかったのです。母は、そういった青春期の思い出を封印してしまって、4人の気の荒い息子たちの「母業」に専心していたのではないでしょうか。
そういえば、その頃の母の写真が、母のアルバムの中にあったのを見たことがあります。ワンピースを身につけ、洒落た毛のついた帽子をかぶり、口紅で唇を赤く染め、片方の手を腰に添えた、映画女優のような一葉の写真です。父に結婚を決意させた程のあでやかさがありました。兄の家に、きっと残されているのではないでしょうか。母は、私の娘たちに、自分の青春を語りたがっていたようですが、母の生活圏から遠い街で娘たちは育ち、学業で国を出たり帰ったり、アルバイトをしたりで忙しかったので、ついに、その機会はなかったのではないかなと思います。娘に恵まれなかった母は、息子の娘に思いがあったのかも知れませんね。恋でも、名でも、財産でもなく、「命をかけたもの」を、母は堅持し続けて、この地上の生涯を生きた人でした。
(写真は、昭和11年の東京上野の夜景です)