家族

 

 人間(じんかん)五十年、下天(げてん)のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり

 ひとたび生を得て滅せぬもののあるべきか

 これは「幸若舞~敦盛~」という、室町時代に流行した伝統芸能で演じられる作品で、織田信長が好んで舞ったと言われて有名です。これは、『人間の一生は、わず か五十年に過ぎない。人の世の時の流れにくらべたら、人生なんて、まるで夢や幻であり、この世に生を受けた者は、滅びないものなどあろうはずがない。』と いった意味で、さびしい人の世の悟りを告白したのでしょう。

 母の95歳の誕生日の晩、兄や弟や嫁や孫たちに、ケーキとカードと母の好きだった歌、家内とわたしの連名で送った誕生カード、子供たちの誕生カードも添え られて読まれ、誕生日が祝われたのです。それを母は、心から喜んで感謝したようです。その5時間後に、入所していた介護施設で、平安のうちに、天の故郷に帰って行きました。口から飲むことができなくなって三日目の自然死、老衰だったそうです。大正6年3月31日の生まれですから、大正5年度の最後の日でし た。一人の夫の妻として30年、四人の男の子の母として70余年、関東大震災、日中戦争、日米戦争、戦後の混乱と荒廃、廃墟からの奇跡的な復興、東京オリ ンピック開催などなどを経験しながら、波乱の大正・昭和・平成の世を生きたのです。その一生を閉じ、「永遠の故郷」に帰還いたしました。

 4月5日に、上の兄の手で「告別式」が行われ、弟と私が母の思い出を語り、次兄が息子たちを代表して挨拶が行われました。『きっと泣くだろう!』と、自分 でも覚悟していましたが、涙ぐみましたが泣かないで、母の死を「凱旋」と納得して、自分の「グリーフワーク(悲嘆の作業)」をすることができたのです。 父、義兄、義妹、甥、多くの友人を荼毘に付した場所で、「火葬式」を行ないました。母の亡きがらが骨になってしまい、母の思いの中にいた私たちの手で遺骨 を拾いました。『これが骨盤です。』と説明されたとき、その中にあった母の胎の中に、私たち4人が十ヶ月の間宿っていたことを思って、その感慨は一入でし た。そこから喜ばれて生まれてきたという、命の神秘を思わされ、なんともいいえない不思議な思いに浸されてしまいました。

 東京郊外の高尾にある霊園に、母の骨を、母の好きな歌を歌いながら埋葬しました。父、義兄、義妹、甥、多くの友人たちの埋葬された墓に加えられた母の骨で すが、多くの人は、『今ごろ、和やかな歓談の時を送っていることだろう!』と想像をたくましくします。死んだ者同志が、どんなに生前親しくとも、交わりを もつことがあるとは思えませんが、近い将来、『起きよ!』との声を聞いて、父、義兄、義妹、甥、多くの友人たちが立ち上がることでしょう。そして「永遠の いのち」に生きていき、彼らに再会できる希望を与えられております。

 信長の好んだ短歌に言う寿命の倍ほどを生きた母でしたが、『こんにちは!』を言ったら、すぐに『さようなら!』と言う、人生の短さに、改めて驚かされた次 第です。シンガポールの長女、アメリカにいる次女が二人の孫を連れて帰国して、母の葬儀に参列してくれました。『馬鹿な子ほど可愛い!』と言われるのです が、馬鹿な子の私は、母に可愛がられて甘やかされて育ったのを知ってる彼女たちは、一大危機だとも思ったようです。『親爺を支えなければ!』と思ったので しょうか。葬儀が終わって、長男と次男の発案で、もう一人のおばあちゃんの住む街に、孫たち4人を連れて、ひさしぶりの家族旅行をしました。その晩は近く のビジネスホテルに11人で泊まり、翌朝、曾祖母を訪ねたのです。介護をする義妹を誘って、子供たちが育った街で、よく食事をした「寿司屋」で昼食を一緒 にしました。その晩は、八ヶ岳のホテルに泊まり、『家族っていいなあ!』と異口同音、それぞれの感謝な思いを告白しました。

 子や孫や曾孫の誕生を喜び、母や祖母や曾祖母の死を悲しむ、この人の世の繰り返される悲喜こもごもの出来事に、一喜一憂は生きるということなのでしょうか。目黒川の両岸の満開の桜が、今日はもう散り始めております。

(写真は、2012年4月8日の目黒川河畔の「夜桜」です/次男撮影)