初恋と褌

  まだあげ初めし前髪の  林檎のもとに見えしとき  
      前にさしたる花櫛の 花ある君と思ひけり

  まだあげ初めし前髪の  林檎のもとに見えしとき 
  前にさしたる花櫛の  花ある君と思ひけり

  やさしく白き手をのべて 林檎をわれにあたへしは
  薄紅の秋の実に 人こひ初めしはじめなり

  わがこゝろなきためいきの その髪の毛にかゝるとき
  たのしき恋の盃を 君が情に酌みしかな

  林檎畑の樹の下に おのづからなる細道は
  誰が踏みそめしかたみぞと 問ひたまふこそこひしけれ

 これは「若菜集」にある、島崎藤村(1872~1943)の「初恋」です。浪漫派の七五調で、日本語の美しさをいやが上にも表現した秀作です。次女夫婦が、「ジェット」というプログラムで、長野県の高校で英語教師をしていました時に、彼女たちを幾度となく訪ねました。ある時、「馬籠」に案内してくれたのです。そこは旧中山道の宿場町で、昔のたたずまいのままに、その街並みが残されていました。山あいの自然の美しい村で、旅人の疲れをいやし慰めたであろう景観を、今なお残して連なっておりました。道には石畳が敷かれていて、この石を踏んで旅人は北に南に、ここを通り過ぎ、茶店で団子と渋茶を楽しんだのでしょうか。私たちも、「おやき」を買ってお茶を飲みながら過ごしたのですが、江戸時代にタイムスリップしてしまったような気分を味あうことが出できました。

 藤村は、この村の出身で、生まれた家は代々、庄屋/問屋をつとめた、この地方の名家の出でした。9歳で東京に出て、小学校を終え、明治学院に学びます。卒業後二十歳で、明治女学校の教師になっています。私も東京の女子高で教員をさせていただいたのですが、私は25歳の時でしたから、女子高生の取り扱いは、まあまあ心得ていたつもりでした。二十歳の藤村を思いますと、『大変だったろうなあ!』と思ってしまうのです。どんな男性でも、女子校にいると、〈もてる〉といった錯覚に陥ってしまうのだそうです。男性を見る目がオトナになっていませんし、稀少の男性が関心の的となるのですから、致し方がないのかも知れません。私は、その学校から招聘された時に、一大決心をしたのです。『同僚と教え子に恋をしない!』『同僚と教え子と結婚しない!』とです。時々、教え子や同僚と結婚した教師がいますが、そういった人と同じになりたくなかったのです。『ほら◯◯先生の可愛い子、あの子なんて言いましたっけ?』という教師たちの会話を聞いて、呆れ返ってしまった私は、脱出を考え始めていました。

藤村は、教え子に恋をしてしまい、学校を退職します。しばらくして復職するのですが、友人の北村透谷が自殺をしたことを苦にし、女学校の教師やめてしまうのです。人を好きになるのは自然のことですから悪いことではありません。でも、まだ何もわからない教え子を好きになってしまうのは一種の〈犯罪行為〉です。なぜかというと、狡賢いし卑怯だからです。藤村は自責の念をいだいて退職したのですが、彼が私の同窓の先輩であることを恥じるのです。上手な文章を書くことにかけては名文家の誉がありますが。

 素晴らしい「初恋」を詠んだわりには、女性問題が山積していたようです。愛媛に、私が師と仰いだ人がおいででした。一度訪ねたことがありました。この方が、『藤村は、自分の不品行を題材に書を書いた小説家で、私は彼を最も軽蔑する!』と言っていました。文学者は、作品の題材のために、あえてそういった傾向があるのでしょうか。もともとだらしないのでしょうか。『遊びも文学のため!』と思って、そういったことが許されると思って言い訳しているのでしょうか。そんなことで、物書きにはなりたいと思ったことが、一度もありません。男は褌(ふんどし)をきりりとしめねばならない、私はそう思っております。

 同級生が、この詩を好きで、彼から教わったのですが。もう随分会っていません。好い人生を生きて来ているのでしょうか。桜が散ってしまって、四月も一週を残すのみとなりました。秋でもないのに、人を思い出してしまいました。

(写真は、ウイキペディア掲載の「馬籠宿」です)